第 45 話 花嫁襲撃
晩餐会が終わる頃には、時刻は夜十時近くになっていた。
客たちは次々と大広間を離れ、数人ずつ屋敷の主人へ別れの挨拶をしていく。
ヴィルヘは入口に立ち、最後の客たちを見送った。
一晩を通して何事も起こらなかったことを確認すると、その表情もようやく少し和らいだ。
大広間へ戻ったヴィルヘは、リサの前へ歩いてきた。
「ベルマン嬢。今夜はもう遅く、外の道も歩きにくくなっています。今晩は屋敷で休み、明日出発されてはいかがでしょうか?」
リサは手にしていた紅茶の杯を置いた。
「母からも言いつけられています。明日の正午に出発する予定です」
アーガは不思議そうに彼女を見た。
「待って。昨日の夜は、夜通し馬車に乗って俺を迎えに来たよな?」
「どうして今になって、夜道は危険だなんて言うんだ?」
リサは表情を変えず、自分の杯へ紅茶を注ぎ足した。
「母には、グルバート家の屋敷へ直接向かうと伝えていました」
そこまで言うと、アーガを横目で見る。
「実際には遠回りして、フランまであなたを迎えに行きましたけど」
アーガは目を見開いた。
「母親に嘘をついたのか?」
「ほかに方法がありましたか?」
リサは小さく鼻を鳴らした。
「今夜のうちに出発すれば、そのまま家へ戻らなければなりません」
「母に道中の予定を聞かれれば、昨日嘘をついたことはすぐに分かってしまいます」
「そ、そういうことか……」
アーガは、何と答えればいいのか分からなかった。
リサは彼の気まずそうな表情を眺め、目元にわずかな笑みを浮かべる。
「そうでなければ、どうしてわざわざ迎えに行ったと思ったんですか?」
「宴へ出席するだけでは、あれほど遠くまで回り道をする価値はありません。もう一泊できるなら話は別ですけど」
そのとき、ウォーカー執事が二人のもとへやってきた。
「ベルマン様、アーガ様。客室の準備が整いました」
「お二人のお部屋は、一階西翼にございます。どうぞごゆっくりお休みください」
リサと女性護衛は、西翼の最も奥にある客室へ案内された。
アーガの部屋は、その一つ手前。
さらに一部屋挟んだ三つ手前の部屋には、同じく屋敷へ残るロイスが泊まることになった。
室内はとても静かだった。
寝台も家具も、すでにきれいに整えられている。
全員が客室へ戻ると、城館は間もなく夜の静寂に包まれた。
グルバート邸の尖塔が、月明かりの下にそびえている。
外壁や庭へ落ちる影は、いつも以上に鋭く見えた。
夜警の兵士たちは、長槍を手にそれぞれの持ち場へ立っていた。
しかし、長い間何も起こらないまま時間が過ぎ、次第に眠気が押し寄せてくる。
時折、冷たい風に吹かれて目を覚まし、姿勢を整える。
だが、しばらくすると、また瞼がゆっくりと下がっていった。
ベラの部屋は、三階東翼にあった。
厚い天鵞絨のカーテンが月明かりの大半を遮り、室内を照らしているのは、寝台脇の燭台から放たれる弱い光だけだった。
ベラは彫刻の施された木製の寝台で横向きに眠っていた。
呼吸は穏やかで、すでに深い眠りに入っている。
窓の外からは、時折、夜鳥の鳴き声が聞こえた。
木々の影がガラス窓へ落ち、風に合わせて静かに揺れている。
そのとき。
窓が外側から、わずかに押し開かれた。
冷たい風が室内へ流れ込み、燭台の炎が激しく揺れる。
次の瞬間、火は完全に消えた。
部屋が一瞬で暗闇に包まれる。
ベラは勢いよく目を開いた。
声は上げなかった。
右手を素早く寝台脇へ伸ばし、あらかじめ置いてあった短剣をつかむ。
ほぼ同時に、身体をひねって寝台から転がり落ちた。
毒を塗られた短刀が暗闇から飛来し、彼女が先ほどまで頭を載せていた枕へ深々と突き刺さる。
刃は絹地を貫通していた。
切っ先から幽緑色の液体が一滴、ゆっくりと落ちる。
枕の表面は、たちまち黒く腐食した。
ベラは短剣を強く握り、息を止めた。
「誰ですか?」
返事はなかった。
一つの人影が、梁の上から音もなく降りてくる。
黒い衣服の裾が空中で広がった。
しかし、着地してもほとんど音を立てなかった。
ベラが確認できたのは、暗闇に走る一筋の冷たい光だけだった。
刺客はすでに目の前へ迫っている。
二本目の短刀が、まっすぐ喉を狙って突き出された。
ベラは身体を横へずらしながら、短剣を振るう。
二つの刃が暗闇の中でぶつかり、飛び散った火花が一瞬だけ刺客の姿を照らした。
全身を覆う漆黒の夜行服。
顔の大半を隠す覆面。
そして覆面には、茨に絡みつかれた薔薇の紋章が描かれている。
「《黒薔薇》の者……?」
ベラの胸に、重い不安が広がった。
《黒薔薇》は、悪名高い暗殺者組織だった。
十分な報酬さえ支払われれば、どのような依頼でも引き受ける。
刺客は、彼女に考える時間を与えなかった。
短刀が暗闇から何度も襲いかかる。
そのすべてが、迷うことなく急所を狙っていた。
ベラは最初の数撃をどうにか防いだ。
しかし、腕はすぐに衝撃で痺れ始める。
耐えきれず、何度も後方へ下がった。
腰が化粧台へぶつかる。
その衝撃で鏡が傾き、床へ落ちて粉々に砕けた。
甲高い破砕音が、部屋の外まで響き渡る。
足元へ飛び散ったガラス片には、移動する刺客の姿が一瞬だけ映った。
ベラがその隙に距離を取ろうとしたときには、刺客の蹴りが腹部へ突き刺さっていた。
強烈な力によって、身体ごと壁へ叩きつけられる。
喉の奥から、すぐに血の味がこみ上げた。
全身からも、一時的に力が抜ける。
再び冷たい刃が迫った。
ベラはどうにか顔をそらす。
短刀は左腕をかすめ、皮膚に一筋の傷を刻んだ。
痛みと同時に、強烈な麻痺が傷口から急速に広がっていく。
刃には毒が塗られていた。
短剣を握るベラの手が震え始める。
視界も次第に霞んでいった。
刺客は数歩離れた場所に立っている。
覆面からのぞく両目に焦りはまったくなく、獲物が最後にもがく姿を楽しんでいるかのようだった。
ベラの意識が、急速に沈み始める。
刺客が再び短刀を持ち上げた、そのとき。
部屋の外から、重い足音が響いた。
次の瞬間、扉が外側から粉々に破壊された。
「お嬢様!」
大量の木片が室内へ飛び散る。
巨大な剣を持ったレイモンが、入口に姿を現した。
その屈強な身体は、扉の枠をほとんど塞いでいる。
副官のガレスもすぐ後ろに続き、同行した護衛たちは素早く左右へ散開した。
廊下と、ほかの出口をすべて封鎖する。
室内の状況を確認した瞬間、レイモンの全身から魔力が爆発した。
刺客は、正面からでは勝ち目がないと即座に判断した。
ベラの背後へ回り込み、床に倒れていた彼女を片手で引き起こす。
そのまま、自分の盾として前へ立たせた。
「近づくな」
冷たい刃が、ベラの首元へ押し当てられる。
刺客は彼女を引きずりながら後退し、北側のステンドグラスへ向かっていく。
レイモンは大剣を強く握り締めた。
しかし、軽率に距離を詰めることはできない。
両者の距離が数歩まで縮まったとき、刺客は突然身体の向きを変えた。
ステンドグラスを突き破り、逃げようとする。
その瞬間、レイモンも動いた。
「シュッ!」
一本の投げナイフが、その手から放たれた。
速すぎて、ほとんど軌道が見えない。
直前にレイモンが爆発させた魔力によって、一階の大広間に置かれた魔動儀も鋭い警報音を発した。
しかし、実際に投げナイフを放つ瞬間。
前に立たされているベラへ当たることを恐れたレイモンは、刃へ込める魔力を咄嗟に抑えた。
主に、自身の腕力だけで投げたのである。
刺客の身体が、明らかに一度揺れた。
その直後、ステンドグラスへ突っ込む。
ガシャーン!
窓全体が粉々に砕け散った。
刺客はベラを連れたまま窓際まで進んだ。
しかし、外へ飛び出す直前、彼女だけを部屋の中へ突き飛ばす。
自分は窓枠を越え、そのまま外の暗闇へ姿を消した。
レイモンが窓辺へ駆け寄る。
石造りの窓台には、数滴の暗赤色の血が残されていた。
彼は迷うことなく、三階から直接飛び降りた。
ガレスは素早くベラのもとへ駆け寄り、よろめく身体を支えた。
左腕の傷口はすでに青紫色へ変わっている。
皮膚の下に浮かぶ血管にも、異常な色が広がっていた。
ガレスの顔色が、一気に青ざめる。
「毒だ!」
ベラの視線は、すでに焦点を失っていた。
ガレスの腕へ身体を預けたまま、唇をわずかに動かす。
「《夜鴆》……」
その名を口にした直後、両脚から完全に力が抜けた。
意識も、そのまま暗闇へ沈んでいく。
魔動儀の鋭い警報音が、屋敷全体へ響き渡った。
眠りについていた城館は、一瞬で騒然となる。
松明や魔法灯が各所で次々とともり、大勢の護衛が三階東翼へ向かって走り出した。
廊下は瞬く間に、昼間のような明るさに照らされた。
リサと女性護衛も、ほとんど同時に部屋から飛び出した。
リサは乱れた金髪を整える暇すらなく、すでに長剣を握っている。
女性護衛は彼女のすぐそばに付き従っていた。
校尉級中位の魔力が自然に周囲へ広がり、近くを通った使用人たちは本能的に道を空ける。
ウォーカー執事も足早に現れた。
声を低く抑えて告げる。
「三階東翼です。ベラ様が刺客に襲撃されました」
アーガとロイスも、続いて客室の扉を開けた。
一行は揃って階段へ向かう。
二階の曲がり角では、顔面を青ざめさせたカーンと出会った。
昼間は落ち着きと気品に満ちていた新郎も、今はひどく取り乱している。
目には隠しきれない動揺が浮かび、上着も慌てて羽織っただけだった。
言葉を交わしている時間はなかった。
全員はそのまま、急いで三階へ駆け上がる。
廊下は、すでに混乱に包まれていた。
護衛たちが慌ただしく部屋を出入りしている。
外の庭からも、屋敷全体を封鎖するよう命じる大声が聞こえてきた。
ベラの部屋の扉は、完全に破壊されていた。
一行が室内へ入ったとき、ベラは寝台のそばで半ば膝をつくような姿勢になっていた。
数人の護衛と治療師によって、すでに簡単な処置を受けている。
肩、腕、腹部には大量の包帯が巻かれていた。
しかし、暗赤色の血が絶えず包帯から染み出し、最後には床へ滴り落ちている。
顔には血の気がまったくなく、意識も戻っていなかった。
「容体は?」
ロイスが低い声で尋ねた。
カーンは、すでに寝台のそばへ駆け寄っている。
その指は絶えず震えていた。
血に染まったベラの包帯へ、そっと触れる。
間もなく、涙が彼女の手の甲へ落ちた。
「私の可哀想な妻……こんなに傷つけられて……」
その声は、次第に嗚咽へ変わっていった。
「どうして、こんなことに……」




