第43話 グルバート邸
翌朝、リサはぼんやりと目を開けた。
馬車はすでに、上品な装飾が施された宿の前に停まっていた。
侍女が車外で恭しく待っている。
リサが目を覚ましたことに気づくと、すぐに声を落として告げた。
「お嬢様、一時間ほど前に到着しております。結婚式は正午からですので、まずは宿で身支度とお食事をお済ませください」
リサは身体を起こし、まだ眠っているアーガを軽く押した。
「起きてください」
「ん……」
アーガは目をこすった。
窓から差し込む朝日が眩しく、反射的に目を細める。
「どうしたの?」
「着きました」
リサは先に馬車から飛び降りた。
「まず食事をして、そのあと身体をきれいにしてください」
「訓練場からいきなり連れ出した本人が、俺のことを汚いって言うのか……」
アーガは小声で文句を言いながらも、彼女に続いて馬車を降りた。
身支度を終えて客室へ戻ると、ベッドの上に深い青色の礼服が置かれていた。
袖口と襟には銀色の模様が刺繍されている。
その隣には、青い宝石をはめ込んだ胸飾りまで用意されていた。
アーガは礼服を持ち上げた。
「これ、俺の?」
リサは化粧台の前へ座っていた。
数人の侍女が、彼女の髪を整えている。
アーガの声を聞いても、振り返ろうとはしなかった。
「そうです」
「少し派手すぎないか?」
アーガは衣服の生地へ触れた。
王都で売られている礼服の相場を知らない彼にも、決して安い品ではないことくらいは分かる。
「どこが派手なんですか?」
リサは鏡越しに彼を見た。
「あなたに似合うと思います」
アーガは彼女には逆らえず、仕方なく礼服へ着替えた。
最後のボタンを留め、鏡の前へ立つ。
映っている自分を見て、一瞬誰なのか分からなかった。
普段の訓練で身についた乱雑さや気の抜けた雰囲気は、礼服によって完全に隠されている。
襟元につけた青い宝石の胸飾りも、服の色によく合っていた。
リサは振り返って一度確認すると、満足そうにうなずいた。
「やはり、これを選んで正解でした」
「最初から用意してたのか?」
「昨日、あなたを迎えに行く前から用意していました」
「俺が断っていたら?」
リサは当然のように答えた。
「結局、断らなかったでしょう?」
正午になると、二人は再び馬車へ乗り込み、グルバート家の屋敷へ向かった。
天候は完全に回復していた。
真昼の陽射しが道を明るく照らしている。
屋敷の周囲には赤土の土地が広がっていた。
昨日降った雨はまだ完全には乾いておらず、馬車の車輪にはすぐに赤い泥が付着した。
しばらくすると、前方に小さな領主屋敷が姿を現した。
敷地の中央には、三階建ての城館が建っている。
いくつもの塔が、陽射しを受けてひときわ目立っていた。
「着きました」
リサの声で、アーガは窓の外から視線を戻した。
馬車が停まると、アーガが先に降りた。
続いて宴席の礼儀に従い、リサへ手を差し出す。
リサは彼の掌へ手を重ね、踏み台を使って馬車を降りた。
そのままアーガの前へ立ち、襟元を軽く整える。
「いいですね。そのままでいてください」
彼女の指先がアーガの顎のそばをかすめた。
しかし、すぐに手を引っ込める。
アーガは襟へ触れた。
「そこまで重要なのか?」
「少なくとも、私が道端で適当な人を拾ってきたと思われるわけにはいきません」
城館の大広間には、すでに多くの客が集まっていた。
貴族たちは各所に分かれて会話を交わしている。
給仕たちは酒や菓子を載せた盆を手に、客の間を行き来していた。
水晶のシャンデリアが広間全体を明るく照らしている。
ピアノの音色と人々の笑い声が重なり、会場は大いに賑わっていた。
「アーガ・ラインハルト!」
「ロイス・グルバート!」
二人の声が、ほとんど同時に上がった。
アーガが振り返ると、ロイスが足早にこちらへ向かってきていた。
数年が経っても、外見はほとんど変わっていない。
今も金縁の眼鏡をかけ、非の打ち所のない笑顔を浮かべている。
リサは二人を見比べた。
「以前、あなたの記事を書いた方ですか?」
「そうだよ」
アーガはうなずいた。
「ロイスさんには、昔、訓練や公開演技の準備まで手伝ってもらった」
ロイスは二人の前へ来ると、まずアーガと軽く抱擁を交わした。
続いて、リサへ丁寧に一礼する。
「リサ様、お会いできて光栄です。騎士団長閣下と奥様は、ご同行されなかったのですか?」
「西部国境が、最近また不安定になっています。父は前線へ向かいました」
リサも礼を返した。
「母は家に残って諸事を処理する必要がありますので、私がベルマン家を代表して出席しました」
三人は近況を話しながら、大広間の奥へ進んでいった。
階段の裏側を通りかかったとき、アーガが突然足を止める。
そこには、高さ一メートル近い金属製の球体が置かれていた。
表面には複雑な魔法符文がびっしりと刻まれている。
いくつもの水晶が異なる位置にはめ込まれ、内部では微かに魔力が流れていた。
「これは何?」
アーガは少し近づいた。
リサも球体をしばらく眺めた。
「確か、名前は……何でしたっけ?」
「魔動儀です」
ロイスが答えた。
「魔動儀は何をするものなんだ?」
「人を殺そうとしている者がいないか、探知するための装置です」
隣から、聞き慣れない声がした。
三人は同時に振り返った。
階段の下にできた影から、黒い礼服を着た男が歩み出てくる。
銀灰色の髪は、後ろへ丁寧に撫でつけられていた。
胸元からは金色の懐中時計の鎖が垂れている。
歩いているにもかかわらず、ほとんど足音が聞こえなかった。
アーガが尋ねた。
「あなたは?」
男はわずかに腰を折った。
「この城館の執事を務めております、ウォーカーと申します」
ロイスは彼を見ると、笑みを少し深くした。
「ウォーカー執事でしたか。お久しぶりです」
「確かに、随分と久しぶりですね」
ウォーカーは答えた。
「三年ぶりでしょうか」
アーガとリサも、簡単に自分たちの身分を紹介した。
挨拶が終わると、アーガは再び魔動儀へ目を向ける。
「本当に殺意を探知できるんですか?」
「可能です」
ウォーカーは微笑みながらうなずいた。
「でも、殺意は人間の考えにすぎないでしょう? どうして装置で調べられるんですか?」
アーガは眉を寄せた。
「あまり理屈に合わない気がします」
「何も不自然ではありません」
リサは手を伸ばし、魔動儀の表面に刻まれた模様へ軽く触れた。
「百年以上前に行われた、マウスを使った実験を知っていますか?」
「知らない」
「研究者たちは、怒りや悲しみなど、異なる感情を抱いている人間が吐き出した空気を集めました」
リサは説明を続ける。
「その空気を冷却して液体に変え、種類ごとにマウスへ注射したそうです」
「その結果、怒っている人間の呼気から作られた紫色の凝縮液には、マウスを死亡させる作用があると分かりました」
アーガは話を聞き終えると、さらに疑わしそうな表情になった。
「その実験、本当に信用できるのか?」
「少なくとも、魔法研究院は結果を認めています」
ロイスは金縁の眼鏡を押し上げた。
「人間の身体は、感情によって変化します。魔力の流れも同じです」
「人が明確な殺意を抱いたとき、魔力の中には特殊な波動が生まれます」
アーガは目の前の金属球を見た。
「でも、そんな波動は、とても弱いはずです」
「魔動儀で本当に感知できるんですか?」
「殺意を抱いているだけでは、感知できません」
ウォーカーが丁寧に説明した。
「しかし、殺意を持った者が魔力を使用すると、その波動は数十倍に増幅されます」
「基礎カードを一枚発動しただけでも、魔動儀の感知から逃れることはできません」
アーガはすぐに問題点へ気づいた。
「でも、魔法を発動したあとに異常を見つけるんですよね?」
「その時点では、もう暗殺が始まっているんじゃないですか?」
「そのとおりです」
ウォーカーの目が、わずかに鋭くなった。
「ですが、魔動儀は魔法が発動された位置を即座に特定できます」
「異常を感知すれば、城館内の護衛が最短時間で現場へ向かいます」
ロイスも説明を加えた。
「本当の役割は、暗殺者への威圧です」
「魔法を使用した瞬間に位置が知られると分かっていれば、簡単に動くことはできません」
アーガは少し考え、ようやく納得した。
「つまり、暗殺に成功しても、すぐに護衛に包囲される」
「屋敷から逃げ出す機会がなくなるんですね」
「そのとおりです」
ウォーカーの顔には、変わらず穏やかな笑みが浮かんでいた。
しかし、その言葉にはわずかな冷たさが混じっている。
「多くの場合、恐怖は刃物よりも効果的に殺人を止めます」
「手を出そうと考えている者たちは、グルバート家に捕らえられれば、どのような末路を迎えるのかよく理解していますから」
会話を終えると、ウォーカーは大広間を離れ、結婚式の準備へ戻っていった。
アーガ、リサ、ロイスの三人は、広間の隅にある丸いテーブルへ腰を下ろした。
リサは水晶の杯を手に取り、からかうような笑みを浮かべてアーガを見る。
「普段あれほど多くの本を読んでいるのに、魔動儀すら知らなかったんですね」
「魔法装置に関する本は、あまり読まないんだ」
アーガは果汁を一口飲んだ。
「こういう物は、俺の生活から遠すぎる」
「それもそうですね」
リサは階段の後ろにある金属球へ目を向け、少し楽しそうに笑った。
「それなら、値段を当ててみてください」
アーガは改めて魔動儀を観察した。
「七百金貨?」
リサは首を横に振った。
「八百?」
アーガの表情が、次第に真剣なものへ変わる。
「これ以上はしないだろ。八百金貨でも、とんでもない額だぞ」
ロイスが思わず笑い声を漏らした。
「千百金貨です」
アーガは口に含んでいた果汁を、危うく吹き出しかけた。
どうにか飲み込み、声を抑えて言う。
「千百金貨?」
「それだけあれば、小さな屋敷を一つ買えるじゃないですか」
「花嫁の安全のためですから、仕方ありません」
ロイスは杯を軽く揺らした。
中の氷が器の壁へ当たり、澄んだ音を立てる。
アーガは彼を見た。
「でも、グルバート家にとっては、それほど大きな金額でもないんでしょう?」
ロイスは直接答えなかった。
ただ笑顔のまま、金縁の眼鏡を軽く押し上げた。




