第42話 諦める必要はない
アイランが傷の処置を終えるまで、アルドリックは何も言わなかった。
やがて窓辺から振り返り、ヴィエンへ目を向ける。
「鉱山のことが原因なのか?」
ヴィエンはしばらく黙ったあと、小さくうなずいた。
「昨日も言ったはずだ。今すぐ決める必要はない」
「でも、いつかは決めなければなりません」
「だからといって、窓から逃げ出していい理由にはならない」
アルドリックの声は、決して大きくなかった。
それでも、その一言で居間全体が静まり返った。
ヴィエンはうつむいた。
「申し訳ありません」
「謝る相手は私ではない」
アルドリックは言った。
「お前の母親は、また誰かに連れ去られたのではないかと思っていた。騎士団も、お前を捜すためにほとんど総出で動いた」
「アーガが監視塔へ行ったと気づかなければ、今も雨の中で捜していたところだ」
ヴィエンは膝の上に置いていた指を、ゆっくりと握り締めた。
「分かっています」
「父さん」
アーガが口を開いた。
「兄さんも、もう自分が悪かったと分かってる」
アルドリックはアーガを一度見た。
それ以上ヴィエンを責めることはせず、椅子を引いて彼の正面へ腰を下ろす。
「お前は、本当はどうしたいんだ?」
ヴィエンは顔を上げた。
「まずは鉱山へ戻り、父さんを手伝いたいと思っています」
アイランが何かを言おうと口を開いたが、声には出さなかった。
「でも、高等学院を諦めるつもりはありません」
ヴィエンは続けた。
「最初の半年は父さんについて学び、鉱山の仕事を一通り理解します」
「そのうえで、来年の秋にはもう一度受験します」
「合格したら、どうする?」
アルドリックが尋ねた。
「進学します」
「鉱山は?」
「そのとき、また方法を考えます」
ヴィエンは答えた。
「学院にいる間も、空いた時間に依頼を受けることはできます。休暇中に戻って、仕事を手伝うこともできます」
「将来、魔法協会へ入ることができれば、家のためにできることも今より増えるはずです」
アルドリックは息子を見つめたまま、すぐには答えなかった。
隣に座っていたノエルが、突然口を開く。
「長男だからって、何でも最初に諦める必要はない」
ヴィエンは意外そうに彼を見た。
ノエルはすぐに顔をそらした。
「ただ、宮廷魔法師の方が、鉱山の管理人より役に立つと思っただけだ」
「それは慰めているのか?」
「違う」
ヴィエンは小さく笑った。
しかし、すぐに口元の傷が痛んだらしく、表情を引きつらせる。
アルドリックは長い間黙っていた。
やがて手を伸ばし、ヴィエンの肩を軽く叩いた。
「そこまで考えているのなら、お前の計画どおりにしなさい」
ヴィエンは目を瞬いた。
「認めてくれるんですか?」
「私は一度も、お前に受験を諦めろとは言っていない」
アルドリックは答えた。
「お前が何も話さず、勝手に全員の分まで決めてしまっただけだ」
その口調は依然として厳しかったが、先ほどよりも明らかに穏やかになっていた。
「鉱山なら、まだ私一人でも支えられる」
「お前が戻って手伝ってくれるのはありがたい。だが、そのために自分の一生を差し出す必要はない」
アイランはヴィエンの隣へ座り、包帯を巻かれた手を優しく握った。
「次から何か考えていることがあったら、直接私たちに話してちょうだい」
ヴィエンは、重ねられた両親の手を見下ろした。
しばらくしてから、静かにうなずく。
「分かりました」
ようやく居間の空気が和らいだ。
窓の外では、すでに黒い雲が消え始めている。
雨上がりの陽射しがガラス窓を通り、床へ淡い光を落としていた。
軒先にたまった水は、今も一滴ずつ落ちている。
しかし、その間隔は少しずつ長くなっていた。
アーガは椅子の背もたれへ身体を預け、ヴィエンの表情が落ち着いていくのを見つめた。
少なくとも今回は、家の状況を理由に、自分の進みたい道を完全に諦めずに済んだ。
————
監視塔での一件が片づいてから、アーガは珍しく数日間、平穏な生活を送っていた。
初春の夜は、まだ少し肌寒い。
九歳になったアーガは、屋敷の訓練場で一人、剣を振っていた。
樫の木の枝葉が風に揺れる。
木剣が何度も身体の前を通過し、そのたびに短い風切り音が響いた。
リサから教わった動きは、それほど複雑ではない。
しかし、実際に練習すると、足運び、重心、手首のどれか一つには必ず問題が出てしまう。
アーガは一度動きを止め、呼吸を整えた。
すぐに姿勢を取り直す。
「アーガ様!」
一人の侍女が、慌てた様子で訓練場へ駆け込んできた。
スカートの裾が草の上を通り、葉や草の欠片がいくつも付着している。
アーガは木剣を下ろした。
膝へ手をつき、息を切らしている彼女を見る。
「どうしたの?」
「リサ・ベルマン様がお越しです」
侍女は途切れ途切れに答えた。
「今、屋敷の門前にいらっしゃいます。アーガ様にお会いしたいと……」
アーガは動きを止めた。
手にしていた木剣が、そのまま地面へ落ちる。
「こんな時間に?」
月はすでに木々の上まで昇っていた。
遠くからは、夜の巡回をする騎士たちの馬蹄の音も聞こえている。
アーガは考えている暇もなく、袖で顔の汗を拭った。
訓練場の脇に掛けていた上着をつかんで羽織り、屋敷の正門へ向かって走り出す。
リサは門の外に立っていた。
今夜の彼女は学院の制服を着ておらず、剣も持っていない。
代わりに、銀白色の礼装を身につけていた。
長い金髪も丁寧に整えられ、夜風に合わせて静かに揺れている。
背後には、華やかな装飾を施された馬車が停まっていた。
その両側を十数名の完全武装した護衛が固めている。
まるで、これから重要な式典に出席するかのような物々しさだった。
アーガは彼女の前まで走り、少し乱れた呼吸のまま尋ねた。
「こんな夜遅くに、何をしに来たんだ?」
リサは説明もせず、いきなり彼の手首をつかんだ。
「馬車に乗ってください」
「馬車に?」
アーガは訳が分からないまま、彼女を見た。
「どこへ行くんだ?」
「グルバート家の宴です」
リサは答えた。
「明日はヴィルヘ・グルバートの娘の結婚式です。ベルマン家も招待されています」
「あなたも一緒に来てください」
「どうして俺なんだ?」
アーガは目を見開いた。
「それに、今から出発したら、夜通し馬車に乗って王都へ行くことになるだろ?」
リサは小さく首を傾げた。
その口調は、あまりにも自然だった。
「前に訓練場で約束したでしょう? 休暇に入ったら、あなたに会いに行くと」
「あのとき、あなたは断りませんでした」
「剣の練習をしに来るんだと思ってたんだ」
アーガは片手で額を押さえた。
「夜中に突然、人を結婚式へ連れていく奴がどこにいるんだよ」
「今、目の前にいるでしょう?」
二人が話しているところへ、ラインハルト家の執事が門の内側から歩いてきた。
「リサ様、アーガ様」
執事は丁寧に一礼した。
「すでに奥様へ事情をご説明しました。奥様も、アーガ様が同行されることを許可なさいました」
リサはすぐに満足そうな笑みを浮かべた。
「それなら、何も問題ありませんね。行きましょう」
彼女はアーガを引っ張り、馬車へ向かって歩き始めた。
「ちょっと待って」
アーガは引きずられるように数歩進んだ。
「せめて、荷物を用意させてくれ」
「何を用意する必要があるんですか?」
リサは振り返ろうともせずに答えた。
「足りない物は、王都に着いてから用意すればいいでしょう」
馬車の中は、アーガが想像していた以上に広かった。
柔らかな天鵞絨の座席が左右に並んでいる。
腰を下ろすと、身体が沈み込みそうなほど柔らかい。
中央の小さなテーブルには、洗った果物や菓子、何種類もの飲み物が用意されていた。
馬車が屋敷を離れると、フランの明かりはすぐに後方へ流れていった。
アーガは窓際へ寄り、遠ざかっていく通りを眺めた。
「まだ、どうして俺を連れていくのか説明してないだろ」
「グルバート家とは、もう長いこと連絡を取っていないんだ」
「一つ目の理由は、私が退屈だからです」
リサは髪を留めていた銀色の髪飾りを外した。
長い金髪が、肩から背中へ広がる。
彼女は手で軽く整えながら、話を続けた。
「私は、こういう宴会へあまり出席しません」
「中にいる人たちは、顔を知っていても、まともに話せる相手がほとんどいないんです」
「だから、知り合いにそばにいてほしいと思いました」
月明かりが車窓から差し込む。
そこでアーガは初めて、今夜のリサが薄化粧をしていることに気づいた。
普段よりも睫毛がはっきりと見え、いつもの鋭さも少しだけ薄れていた。
「もう一つは、あなたにグルバート家の人たちを紹介したかったからです」
リサは言った。
「グルバート家は、王都で大きな影響力を持っています」
「将来、ラインハルト家に何か問題が起きたときのためにも、知り合いは多い方がいいでしょう」
アーガは少し考えた。
確かに、彼女の言うことにも一理ある。
「分かった。それなら、一度行ってみるよ」
リサは嬉しそうに笑った。
「宴会に着いたら、ちょうどおいしい物を食べさせてあげます」
「あなた、この十日余りは家で訓練ばかりして、きっと食事もまともに――」
彼女の言葉が、途中で止まった。
アーガは、すでに窓へ寄りかかったまま眠っていた。
羽織っている上着には、訓練後の汗の匂いがまだ残っている。
襟元からは、完全に消えていない古い傷痕も何本か見えていた。
リサはしばらく彼を見つめた。
やがて手を伸ばし、額に残っていた汗をそっと拭う。
それから向かい側の席へ戻り、柔らかな背もたれへ身体を預けて目を閉じた。
馬車は、そのまま夜の道を走り続けた。
外から聞こえる護衛たちの馬蹄の音が、車輪の立てる音と重なっている。
眠っているアーガが眉をひそめ、曖昧な声で呟いた。
「次からは、昼間に来て……夜は疲れてるから……」
リサの口元が、わずかに緩んだ。
しかし、何も答えなかった。




