第36話 彼女の前に立つ
リサは、逆立った硬羽を見上げた。
その顔から、瞬く間に血の気が引いていく。
アーガには、考えている時間などなかった。
蠍座の魔力を体内へ一気に巡らせ、ノエルの石化能力を強引に模倣する。
残された力のすべてを背中へ集中させた。
灰白色の硬い殻が肩から下へ広がり、瞬く間に背中全体を覆っていく。
翼竜が硬羽を放った、その瞬間。
アーガは二体の魔物の間を駆け抜け、身を翻してリサの前へ立った。
無数の硬羽が、石の殻へ激突する。
一本目は、表面へ亀裂を残しただけだった。
二本目は、殻の途中まで突き刺さった。
三本目は石の殻を完全に貫き、アーガの背中へ深く食い込んだ。
その後も、硬羽は次々と降り注いだ。
石の殻の表面には、瞬く間に亀裂が広がっていく。
隙間から血がにじみ出し、アーガの腰を伝って絶え間なく流れ落ちた。
何本もの硬羽が防御を突き破り、肩甲骨や背中の肉へ深々と突き刺さる。
「アーガ!」
リサの声が、完全に変わった。
彼を押しのけようと手を伸ばす。
しかし、掌が肩へ触れた瞬間、アーガの全身が震えていることに気づいた。
「退いてください! 早く退いて!」
アーガは動かなかった。
両手を地面について身体を支え、残った魔力を崩れかけた石の殻へ流し続ける。
灰白色の層が砕けるたび、わずかな部分だけが再び形成された。
しかし、修復する速度は、すでに破壊される速度へまったく追いついていない。
さらに一本の硬羽が、肩の骨の下へ突き刺さった。
アーガは低い呻き声を漏らした。
腕から力が抜け、額を地面へ強く打ちつける。
「アーガ……私を見てください」
リサは負傷した脚を引きずりながら、少しずつ前へ進んだ。
アーガの服の裾をつかむ。
その声にはすでに涙が混じっていたが、傷だらけの背中へ触れることはできなかった。
アーガから返事はない。
呼吸は浅く、激しくなっていた。
身体の下に広がる血だまりは、今も少しずつ大きくなっている。
背中を覆っていた石の殻も、端から一片ずつ剥がれ落ちた。
その下から、硬羽に貫かれた無数の傷口が現れる。
翼竜が、ゆっくりと前へ進んできた。
もう立ち上がることもできないアーガを見下ろす。
再び胸元の羽毛を逆立て、その先端をアーガの後頭部へ向けた。
リサはアーガの肩を強く抱え、どうにかその場から引きずろうとした。
しかし、地面へ固められた脚には力が入らない。
翼竜が次の攻撃を放とうとした、そのときだった。
通路の奥から、一つの声が聞こえた。
大きな声ではない。
それでも、洞窟の隅々まで、はっきりと響き渡った。
「たかがEランクの魔物が、私の大切な生徒に随分なことをしてくれたわね」
声が消えると同時に、暗闇の中で淡い青色の光が灯った。
光は瞬く間に洞窟全体を駆け抜ける。
三体の翼竜の身体が、同時に硬直した。
逆立っていた硬羽は空中で動きを止める。
低く下げられていた頭も、目に見えない力によって地面へ押さえつけられ、それ以上一歩も進めなくなった。
淡い青色の光は、今も外へ広がり続けていた。
三体の翼竜は、見えない巨大な山に押し潰されているかのように地面へ固定されている。
首の筋肉が限界まで張り詰めていた。
翼を何度も動かし、必死に抵抗する。
しかし、立ち上がった硬羽は、そのたびに押し戻された。
身体は、少しも動かない。
通路の奥から、足音が聞こえてくる。
靴底が小石を踏む音は、決して速くはなかった。
それでも、一歩ごとの音がはっきりと響いた。
最初に暗闇から現れたのは、杖の先端に灯る青い光だった。
続いて、深い青色のローブの裾が見える。
セシが通路から姿を現した。
白金色の長い髪が、背中へ垂れている。
その視線は数体の翼竜を通り過ぎ、すぐにアーガへ向けられた。
彼女は迷うことなく二人のもとへ歩み寄り、しゃがみ込んでアーガの傷を確認した。
背中を覆っていた石の殻は、すでに大半が砕けている。
何本もの硬羽が石の層を貫き、血肉へ深く突き刺さっていた。
流れ出した血によって、残っている灰白色の殻も暗褐色に染まっている。
セシの指が傷口の近くで一度止まった。
続いて、アーガの首筋へ手を当て、脈を確認する。
「何があったの?」
その声は静かで、はっきりとした感情は読み取れなかった。
リサは隣に膝をついたまま、かすれた声で早口に答えた。
「私を守ったんです」
「あの羽は、もともと私を狙っていました。それなのに、アーガが突然、前へ出て……」
セシは何も言わなかった。
アーガの瞳孔を簡単に確認し、すぐに命を落とす状態ではないと判断してから、再び立ち上がる。
別の通路から、慌ただしい足音が近づいてきた。
全身を埃と傷で汚したガヴィンが走ってくる。
地面へ倒れているアーガと、負傷したリサを目にした瞬間、彼の足が明らかに止まった。
「アーガ! リサ!」
「まだ生きているわ」
セシが告げる。
「背中に刺さった羽には、まだ触らないで」
ガヴィンは慌ててうなずき、アーガのそばへ駆け寄った。
そこでようやく、セシは三体の翼竜へ向き直った。
青い魔力が、杖を握る手からあふれ出す。
魔力は杖の表面を伝い、先端へ向かって集まり続けた。
今まで抵抗していた翼竜たちも、危険を察知したらしい。
動きは、さらに激しくなった。
それでも、磁力による拘束から逃れることはできない。
「私の生徒を傷つけた以上……」
セシは法杖を持ち上げた。
菫色の瞳からは、すでに一切の笑みが消えていた。
「生きて帰れるとは思わないことね」
杖の先に、巨大な円形魔法陣が展開する。
複雑な術式の紋様が、一層ずつ光を放った。
大小の円環がゆっくりと回転を始める。
魔法陣の中心に集まる光は、次第に強さを増し、やがて直視できないほどまばゆく輝いた。
リサは顔を上げ、呆然と魔法陣を見つめていた。
それは通路の半分近くを埋め尽くすほど巨大だった。
学院で先生が高階魔法を使う姿なら、彼女も見たことがある。
しかし、これほどの魔力を間近で感じるのは初めてだった。
セシが杖を前へ向ける。
「電磁砲」
青白い光の柱が、魔法陣の中心から放たれた。
光は一瞬で、前方にいる翼竜たちを飲み込んだ。
凄まじい衝撃が地面を伝い、前方へ突き進む。
小石や岩の破片が空中へ巻き上げられ、周囲の岩壁も激しく震動した。
三体の翼竜は、完全な断末魔を上げることさえできなかった。
その身体は光の柱の中で、跡形もなく消滅した。
轟音は数秒間続き、ようやく少しずつ収まっていった。
光が消えたあと。
前方に残っていたのは、黒く焼け焦げた地面だけだった。
岩壁には外側へ向かって何本もの亀裂が走り、小石と灰が絶え間なく上から落ちてくる。
魔法陣の光も、ゆっくりと薄れていった。
最後に残った数本の青い魔力は、セシの杖へ吸い込まれるように戻っていく。
彼女の呼吸は、先ほどより少しだけ重くなっていた。
しかし、すぐに普段どおりの落ち着きを取り戻す。
ガヴィンはすでにアーガのそばへしゃがみ込んでいた。
「俺が背負います」
セシは最初に、アーガの背中へ簡単な治療魔法を施した。
今も出血している傷口を、一時的に塞いでいく。
それからガヴィンへ注意した。
「肩甲骨を直接押さえないで」
「中で折れている羽にも触れないこと。まず学院へ連れ帰ってから、医師に処置させるわ」
「分かりました」
ガヴィンは慎重にアーガの身体を持ち上げた。
背中の傷口をできるだけ避けながら、安定するように自分の背へ乗せる。
セシは出口へ向かって歩き始めた。
二歩ほど進んだところで立ち止まり、リサを振り返る。
「歩ける?」
リサは剣を地面へ突き立て、支えにしながら立ち上がった。
しかし、最初の一歩を踏み出した途端、傷ついた脚から力が抜ける。
身体は、危うく再び地面へ崩れ落ちそうになった。
「歩けます」
「無理をしないの」
セシはリサのそばへ戻り、自分の肩を貸した。
法杖の先端に灯った青い光が、前方の通路を照らす。
ガヴィンはアーガを背負い、二人の後ろを歩いた。
重さの異なる足音が、暗い通路に響いていく。
やがて、その音は地下城の闇の中へ消えていった。
————
アーガが目を覚ましたとき。
最初に感じたのは、薬品と薬草が混ざり合った匂いだった。
窓から差し込む陽射しがまぶしい。
彼は数秒間目を細め、少しずつ視界を慣らした。
白いシーツ。
薬瓶が並べられた棚。
そして、自分の身体に何重にも巻かれた包帯。
それらを見れば、すでに学院の医務室へ戻っていることが分かった。
(生きて戻れたのか?)
部屋の扉が開いた。
白い医療用ローブを着た女性医師が、記録板を持って入ってくる。
「目が覚めたのね。具合はどう?」
アーガは勢いよく起き上がろうとした。
その瞬間、背中と肋骨に激痛が走る。
彼は息を詰まらせたが、それでも焦った様子で尋ねた。
「リサは? ガヴィンさんは?」
「俺たちはどうやって戻ったんですか? 俺はどのくらい眠っていましたか?」
「慌てないで。一つずつ聞きなさい」
医師はベッドのそばへ来ると、アーガの身体を枕へ押し戻した。
「ガヴィンさんは第三層から出る通路を見つけたあと、近くにいた学院の先生へ知らせに行ったの」
「セシ先生が人を連れて救助へ向かい、あなたたちを見つけた。翼竜もすべて処理済みよ」
「リサは?」
「あなたより、ずっと軽傷です」
「高級回復薬がほとんどの傷を治しているから、数日休めば問題ありません」
医師は記録板を一枚めくった。
「あなたは背中に七か所の貫通傷があります」
「肩甲骨の近くに刺さった一本は、あと少しで骨を傷つけるところでした」
「石化魔法が威力の大半を防いでいなければ、今こうして話せていたかも分からないわ」
アーガは、自分の身体に巻かれた包帯を見下ろした。
「俺は、どのくらい眠っていたんですか?」
「三日間」
「三日?」
アーガは布団を持ち上げ、すぐにベッドから降りようとした。
医師は素早く彼の肩をつかむ。
「どこへ行くつもり?」
「リサの様子を見に行きます」
「あの子なら本当に大丈夫よ。今朝もあなたの状態を聞きに来たわ」
「分かっています」
アーガは床へ足をついた。
痛みで額に一気に冷や汗が浮かんだが、それでも立ち上がろうとする。
「でも、自分の目で確認したいんです」
医師はしばらく彼を見つめていた。
どう言ってもベッドへ戻るつもりがないと悟り、仕方なく廊下にいる看護師を呼んだ。
「この子を支えてあげて」
「絶対に一人では歩かせないこと。訓練場で様子を確認したら、すぐに連れ戻して」
「ありがとうございます、先生」




