第30話 万法を映す鏡
屋内の大訓練場は、外に比べてずっと静かだった。
アーガが選んだのは、訓練場の最も奥にある一角だ。
入り口や窓から離れているため、普段から人通りはほとんどない。最初の数日間は、近くで訓練している生徒たちが、時折こちらへ視線を向けてきた。
アーガには、彼らが何を見ているのか分かっていた。
学年で二人しかいない、四級カードに認められた生徒。
好奇の目を向けられるのも、無理はない。
しかし、一週間も経つ頃には、そうした視線も少しずつ消えていった。
誰にでも、自分のカードを使いこなすための訓練がある。いつまでも他人ばかり見ている余裕などないのだ。
前々日の午後、アーガはセシを訪ねていた。
もう一度、磁力魔法を見せてほしい。
そう頼むと、セシは理由を尋ねることもなく羽根ペンを置き、研究院の外にある空き地へ連れていってくれた。
赤と青。
二つの磁極を示す印が、順番に宙へ浮かび上がった。
実演にかかった時間は、わずか三十秒にも満たない。
だがアーガは、その間に行われた魔力の流れを、一つ残らず記憶していた。
訓練場にいたアーガは、ゆっくりと目を開け、足元に転がる数個の小石を見下ろした。
右手を持ち上げる。
掌に魔力が集まり始めると、蠍座のカードもかすかに熱を帯びた。
指先に赤い光がわずかに灯る。
しかし、完全な形を作るよりも早く、光は空気へ溶けるように消えてしまった。
地面の小石は、少しも動かない。
アーガは落胆することなく、呼吸を整え直した。
二度目。
三度目。
四度目――。
何度試しても、魔力は途中で形を失ってしまう。
やがて額から汗が流れ、頬を伝って床へ落ちた。繰り返し魔力を送り込んだことで右手が痺れ始め、掌に集めた魔力もわずかに乱れている。
十一度目の失敗を終えたところで、アーガはようやく手を下ろした。
痛み始めた指を軽く振り、再び目を閉じる。
セシは、魔力を放出するときに焦っていなかった。
まず体内で魔力を安定させる。
そこから腕を通して、ゆっくりと外へ押し出していく。
その動きは、まるで重い扉を少しずつ押し開くようだった。
アーガはもう一度、右手を持ち上げた。
記憶の中にあるセシの動きをなぞりながら、同じ経路へ魔力を流し込んでいく。
今度は急がない。
力ずくで押し出すのではなく、形が崩れないよう慎重に前へ進める。
しばらくして、掌の上に小さな赤い光球が生まれた。
色は薄く、表面は絶えず揺れている。少しでも集中を乱せば、すぐに消えてしまいそうだった。
アーガは光球から目を離さず、できる限り魔力を安定させる。
そして、掌を地面の小石へ向けた。
赤い光球が、わずかに震えた。
次の瞬間、一つの小石が小さく揺れる。
小石はゆっくりと地面を転がり、やがてアーガの靴先にぶつかって止まった。
アーガは足元の小石を見下ろした。
少しずつ、口元に笑みが浮かぶ。
動いた方向は、予想していたものとは少しずれている。力も、ほとんど無視できるほど弱かった。
それでも、この動きが磁力魔法によるものであることは間違いない。
「まあ、早い方か」
アーガは小さな声で呟いた。
その声は広い訓練場へ溶けていき、自分以外の誰にも届かなかった。
それから二か月。
アーガは、ほとんど毎日のようにこの場所を訪れた。
他の生徒が使うカードを観察する。
魔力の流れを記憶する。
そして、自分の手で再現を試みる。
能力が複雑であるほど、習得するまでに必要な時間も長くなった。
それでも、アーガが新たな能力を身につける速度は、普通の人間とは比べものにならないほど速かった。
その後も、アーガは学院の授業を受けながら、空いた時間を使って新しい能力を探し続けた。
春が終わり、学院に夏が訪れる。
いくつもの授業と試験、訓練を繰り返しているうちに季節は巡り、再び冬がやってきた。
気づけば、二年生として過ごす時間も終わりに近づいていた。
————
学期の終了を間近に控えたある日。
担任教師は、一束の羊皮紙を抱えて教室へ入ってきた。
普段よりも険しい表情を浮かべている。
羊皮紙を教卓へ置くと、指の関節で机を二度叩いた。
「静かに」
教室を満たしていた話し声が、少しずつ収まっていく。
「間もなく二年生の課程が終了する。聖イース学院の慣例に従い、お前たちには休暇へ入る前に、一度校外実習へ参加してもらう」
教室のあちこちから、興奮した声が上がった。
実習先を予想する者もいれば、早くも隣の生徒と誰を仲間にするか相談し始める者もいる。
担任教師は焦らすことなく、そのまま実習先を告げた。
「今回向かうのは、王都の北東に位置する『灰燼の道』ダンジョンだ」
「ダンジョン?」
「魔物がいるって聞いたことがあるぞ」
「本当に俺たちが入っていいの?」
再び騒がしくなった生徒たちを、担任教師が片手で制する。
「お前たちが活動するのは地下第一層のみだ。学院はすでに王都の冒険者ギルドと協力関係を結んでいる。当日は正規の冒険者と学院の教師が周辺に配置される」
そこで一度言葉を切り、生徒たちを見回した。
「ただし、全員が参加できるわけではない」
担任教師は、手元の羊皮紙を広げた。
「ダンジョンへ入る前に、学院が実力判定を行う。学徒級下位に到達している者だけが、今回の実習に参加できる」
先ほどまでの興奮した空気に、わずかな緊張が混じった。
「試験に合格した者は三人一組で行動する。各班は指定された区域から出てはならない。また、許可なく仲間と離れることも禁止する」
一人の生徒が手を挙げた。
「先生、実力は何を基準に判定するんですか?」
「魔力の総量、制御能力、それから肉体が魔力に耐えられる限界だ」
担任教師はすぐに答えた。
「魔法使いと戦士では、魔力の使い方が異なる。魔法使いは魔力を体外へ放出し、術式を形成する。戦士は魔力を肉体へ巡らせ、筋力や速度、骨格、感覚を強化する」
「だが、どちらも同じ等級で評価される。どの道を選んだかではなく、最終的に発揮できる総合的な力が基準となる」
担任教師は振り返り、黒板へ七つの名称を書き並べた。
学徒級。
遊侠級。
戍佐級。
校尉級。
城主級。
鎮国級。
帝王級。
「それぞれの等級は、さらに下位、中位、上位の三段階に分けられる」
担任教師は最初に書いた名称を指した。
「学徒級は、魔法と戦闘の世界へ正式に足を踏み入れた者の出発点だ。この学院の卒業生であっても、中位に届く者はごくわずかしかいない」
続いて、二つ目の名称へ指を動かす。
「遊侠級になれば、簡単な冒険者の依頼を単独でこなせるようになる。下級の魔物であれば、一人で対処することも可能だ」
「戍佐級は、冒険者の小隊を率いる資格を持つ。一人でも戍佐級が所属していれば、その小隊は難度の高い依頼を受けられるようになる」
「校尉級ならば、王都護衛隊の隊長を務めることができる。副城主の選抜へ参加する資格も与えられる」
担任教師の指が、城主級の文字で止まった。
「城主級は、各地の城主に求められる最低限の実力だ。学院でも、特に優秀な教師たちはこの等級に達している」
生徒たちの間から、わずかなどよめきが起きる。
「たとえばセシ先生は、現在、城主級下位だ」
アーガは思わず目を細めた。
セシが強いことは分かっていた。
だが、その実力が各地の城主に並ぶほどだとは知らなかった。
「鎮国級は、一国の軍を率いることのできる力だ。その存在一人で、大規模な戦争の行方すら変えられる」
最後に、担任教師は黒板の一番下へ視線を落とした。
「帝王級については……」
ほんの少しだけ間を置く。
「この等級へ到達した者は、歴史上でも極めて少ない。今のお前たちが考える必要はないだろう」
教室の生徒たちは、先ほどまでとは違い、誰一人として私語を挟まずに話を聞いていた。
しばらくして、別の生徒が手を挙げる。
「試験はいつ行うんですか?」
「今夜だ」
担任教師は羊皮紙をまとめ、教卓の上へ置いた。
「学徒級下位へ到達していれば、合格とする」
————
夕方。
学院の訓練場は、実力判定のための会場へと姿を変えていた。
数台の魔法灯が中央へ集められ、地面に明るい円を描いている。
その中心には、人間の腰ほどの高さがある巨大な水晶球が置かれていた。
透明な球体の中を、七色の霧がゆっくりと流れている。
三十人の生徒たちは、水晶球を囲むように半円を作って並んでいた。
服の裾を強く握り締めている者。
何度も足の位置を直し、落ち着かない様子で姿勢を変えている者。
周囲の空気には、隠しきれない緊張が漂っていた。
担任教師は水晶球のそばに立ち、名簿を開いた。
「名前を呼ばれた者は前へ出ろ。右手を水晶球に置き、そのまま十秒間動かさないこと」
「この水晶は、魔力の総量、安定性、そして肉体の耐久力を同時に測定する」
最初の生徒が前へ出た。
掌が水晶の表面に触れた瞬間、球体の内部に弱い白色の光が灯る。
担任教師は数秒間それを観察し、名簿へ結果を書き込んだ。
「学徒級下位。合格だ。右側へ並べ」
続く二人目の生徒も、問題なく合格した。
三人目の女子生徒が手を置くと、水晶は一度だけ弱く明滅した。
しかし、すぐに光を失ってしまう。
担任教師は首を横に振った。
「学徒級下位には届いていない。左側だ」
女子生徒はうつむき、何も言わずに左側へ歩いていった。
その後も、試験は淡々と進められた。
合格者は右側。
基準に届かなかった者は左側。
中央の列が短くなるにつれ、左右に並ぶ生徒の数が増えていく。
「ミロ」
名前を呼ばれたミロは、大きく息を吸った。
緊張した足取りで水晶球の前まで進み、掌を球面へ押し当てる。
やがて、内部に安定した白い光が灯った。
決して強い光ではない。
しかし、十秒が過ぎるまで明るさは均一に保たれ、大きく揺らぐこともなかった。
「学徒級下位。合格」
ミロは明らかに安堵した表情を浮かべ、足早に右側へ移動した。
人混みの向こうから、アーガへ視線を向ける。
アーガは小さくうなずいて返した。
「カイミ」
カイミの足取りは、ミロよりも落ち着いていた。
彼女が水晶へ手を置くと、白い光が素早く球体の半分以上へ広がった。
その輪郭には、ごく薄い青色の光も浮かんでいる。
「学徒級下位。合格」
続いて試験を受けたクララとエドウィンも、問題なく学徒級下位へ到達していた。
「ノエル・ラインハルト」
アーガの視線が、自然とノエルへ向かう。
ノエルは表情を変えることなく前へ出て、水晶球へ掌を置いた。
白い光がゆっくりと広がっていく。
ミロのものよりわずかに弱い。
だが光は安定しており、十秒間、一度も消えることはなかった。
「学徒級下位。合格」
ノエルが水晶から手を離す。
固く結ばれていた口元が、ほんの一瞬だけ緩んだように見えた。
彼は右側の列へ歩いていく。
アーガの方を見ることはなかった。
「アーガ・ラインハルト」
名前を呼ばれ、アーガは一歩前へ出た。
その瞬間。
背後に残っていた生徒たちの間から、小さな囁き声が聞こえてきた。




