第29話 掌に残る温もり
食堂は、いつも以上に混雑していた。
料理を受け取る窓口からは絶えず白い湯気が立ち上り、焼きたてのパン、煮込み肉、温められた牛乳の香りが空気の中で混ざり合っている。
アーガが盆を持って空いている席を探していると、灰色の上着を着た男子生徒が突然手を振った。
「アーガ、ここが空いてるよ」
そのテーブルには、すでに四人が座っていた。
三人ほど見覚えはあるが、名前までは思い出せない。
アーガは一瞬だけ足を止めたものの、そのまま彼らの方へ向かった。
「ありがとう」
男子生徒は自分から椅子を引き、果汁の入った水差しもアーガの近くへ寄せてくれた。
「今日は早いんだね」
隣に座っていた茶色い髪の女子生徒が、笑顔で尋ねる。
「昨日、図書館にずいぶん長くいたんでしょう?」
「カードを選ぶのに、少し時間がかかっただけだよ」
アーガは煮込み肉を口へ運びながら、蠍座のことを自分から話そうとはしなかった。
「最後には見つかったの?」
男子生徒が、様子をうかがうように尋ねる。
アーガは果汁を一口飲み、答えなかった。
四人は互いに顔を見合わせたが、それ以上追及することはなかった。
その後の話題は、すぐに授業や食堂の味、午後の訓練へ移っていった。
アーガも時折短く答えながら朝食を終え、盆を手に立ち上がる。
「僕は先に教室へ行くよ」
「また午後に」
彼らは、ごく自然な様子で別れの挨拶をした。
食堂を出たアーガには、彼らがなぜ自分を席へ誘ったのか、よく分かっていた。
一枚の第四級カード。
それだけで、これまでほとんど接点のなかった者たちまで、彼へ近づく理由を探し始めるには十分だった。
初春の風は、冬の頃ほど肌を刺すような冷たさではなくなっていた。
それでも、まだはっきりとした寒さを残している。
アーガが石畳の道を通って校舎へ向かっていると、主校舎の側面にある角でノエルと出会った。
「ノエル」
アーガの方から、先に声をかけた。
ノエルは一度だけ彼を見たが、足を止めなかった。
口元が一瞬だけ固く引き結ばれる。
喉の奥から、ごく小さな鼻を鳴らす音を漏らしただけで、身体を横へずらし、アーガのそばを通り過ぎていった。
二人の肩が軽く触れ合う。
ノエルは振り返らなかった。
アーガはその場に立ち、彼の後ろ姿が遠ざかっていくのを見つめた。
(僕がいなければ、ノエルも今のようにはならなかったのかもしれない)
その考えは、すでに何度もアーガの胸に浮かんでいた。
自分にそのつもりがあったかどうかは関係ない。
かつてノエルへ向けられていた期待や関心の一部が、アーガの誕生によって変化したのは事実だった。
すべてが何もなかったことのように、目をそらすことはできない。
アーガは俯き、そのまま歩き始めた。
すぐに、背後から駆けてくる足音が聞こえる。
「アーガ、待って!」
振り返ると、男女二人の生徒が足早に追いかけてきていた。
男子生徒は細身で背が高く、金属製の縁を持つ眼鏡をかけている。
笑うと、一本の八重歯が見えた。
女子生徒はすっきりとした短髪で、耳たぶには銀色の耳飾りが一つ光っている。
二人とも同じクラスの生徒だった。
「エドウィン、クララ」
アーガは歩調を緩めた。
「おはよう」
「おはよう」
クララがアーガの隣へ追いつく。
「あなたも、この道を使うの?」
「教室へ行くなら、こっちの方が近いから」
エドウィンは眼鏡を押し上げると、すぐに本当に聞きたかったことを口にした。
「昨日、第四級カードに選ばれたって聞いたけど、本当?」
アーガは彼を一度見た。
「もうそんなに広まってるの?」
「当然でしょう」
クララが笑った。
「学院の図書館にある第四級カードなんて、もともと数が少ないもの」
「前に第四級カードから認められたのは、四年前に入学した学生だったらしいよ」
「その人も、去年卒業した」
エドウィンが続ける。
「だから今の君が注目されるのは、当然だと思う」
アーガは、自分のカードについて話を広げなかった。
代わりに二人へ尋ねる。
「二人は何を選んだの?」
「僕は第二級の《硬化》」
エドウィンが答えた。
「武器や盾へ魔力を流して、一時的に強化できる能力だ」
「維持できる時間は短いけど、戦闘ではかなり便利そうだよ」
クララも口を開く。
「私は同じく第二級の、タコの魔法」
三人は話しながら歩き、すぐに校舎前へ到着した。
教室へ入ると、アーガは多くの視線が自分へ向けられていることを、はっきりと感じた。
誰も、いつまでも露骨に見つめているわけではない。
一度だけ視線を向けると、すぐに顔をそらす。
しかし、教室にいるほとんど全員が同じような動きをすれば、その関心は嫌でも伝わってきた。
最初の授業は、魔法理論だった。
教師が説明しているのは、カードと使用者の間に魔力共鳴が生じる原理についてだ。
アーガは授業の前半を真剣に聞き、数行の内容をノートへ書き留めた。
だが後半になると、どうしても意識が自分の右手へ向いてしまう。
掌の表面には、何の変化もない。
それでも、あの温かな感覚は今も皮膚の奥に潜んでいた。
身体を丸め、目覚める瞬間を待っている生き物のようだった。
授業が終わると、アーガはほかの生徒たちと共に剣術訓練室へ向かった。
室内は温かく、乾燥している。
木製の床は丁寧に磨かれ、光を反射するほど滑らかだった。
壁際には練習用の木剣が整然と並び、先に到着した生徒たちは靴紐を締め直したり、手首を回したりしている。
リサは訓練場の中央に立っていた。
手には一本の木剣が握られている。
重心と握りの位置を確かめ、剣先を床へ向けたまま、軽く手首を回していた。
その動きには、少しの淀みもない。
アーガも壁際から木剣を一本取り、訓練場の反対側へ向かった。
半分ほど離れた場所から、二人は一度だけ視線を交わす。
周囲にいた数人の生徒はそれに気づき、自ら端へ下がって場所を空けた。
この一年間、アーガは毎週欠かさず剣術訓練へ参加してきた。
魔力を身体へ満たす方法も、少しずつ身につけている。
脚へ流せば、足運びを安定させられる。
腕と肩へ流せば、剣を振る力が増す。
戦士と魔導師の違いは、魔力を使うかどうかではない。
体内へより多く留めるのか。
それとも身体の外へ放ち、術式として形成するのか。
その違いにすぎなかった。
もっとも、今のアーガは、まだその運用に慣れているとは言い難い。
一方のリサは、魔力を四肢へ流す動作が、すでに呼吸するように自然だった。
身体を動かすたび、意識しているとは思えないほど滑らかに、必要な場所へ魔力が行き渡っている。
先に動いたのはリサだった。
一歩踏み込むと同時に、体内の魔力が両脚へ流れ込む。
瞬間的に速度を上げ、剣先をまっすぐアーガの右肩へ突き出した。
速く、無駄のない攻撃だった。
アーガは身体を横へずらしてかわしながら、魔力を腕へ流す。
木剣を下から上へ跳ね上げ、リサの攻撃の軌道をそらそうとした。
二本の木剣がぶつかり、乾いた音を立てる。
リサはすぐに手首を返した。
剣同士が衝突した力を利用して軌道を変え、そのまま反対側からアーガへ斬りつける。
アーガは技を切り替える余裕がなく、半歩後退しながら、木剣を横へ構えた。
ガンッ!
剣身から伝わった衝撃で、手の付け根が痺れる。
この一年間、アーガは剣術の授業を一度も休まなかった。
空いた時間には、訓練用の木杭を相手に斬撃や突きを繰り返した。
入学したばかりの頃と比べれば、動きは格段に滑らかになっている。
足元も、簡単には崩れなくなった。
それでも、リサの方が速かった。
彼女は体内の魔力を操ることに慣れている。
踏み込み、身体の回転、剣を振る動き。
その一つ一つに合わせて、必要な筋肉や関節へ魔力が流れ込んでいた。
アーガがようやく姿勢を整えたときには、次の剣がすでに迫っていた。
何度か続く攻撃を防ぎ、アーガは隙を見つけて前へ出た。
木剣を身体の中心線に沿って突き出す。
リサは横へかわした。
アーガはすぐに技を変え、横薙ぎへ移る。
リサは剣を上げて受け止めた。
二本の木剣が、短い間押し合う。
アーガは肩と腕へ魔力を流し込み、力で押し切ろうとした。
リサの足が、半歩だけ後ろへ動く。
だが、すぐに姿勢を立て直した。
三合。
五合。
十合。
木剣がぶつかる音は、次第に間隔を狭めていった。
アーガの額には汗が浮かび、呼吸も速くなっていく。
一撃ごとに力を増しているにもかかわらず、リサの守りを崩すことができない。
しかし、リサの顔からも、最初の余裕が少しずつ消えていた。
意識を完全にアーガへ集中させている。
肩、手首、足元。
その動きを観察し、次にどの方向から攻撃が来るのかを読み取っていた。
さらに数度、剣が交わる。
ついにアーガの呼吸が乱れた。
直前までの攻撃を急ぎすぎたせいで、体内を流れる魔力にも一瞬の乱れが生じている。
左手が剣の柄を十分に握り込めず、守りにわずかな隙ができた。
リサは、それを見逃さなかった。
一気に前へ踏み込む。
横から振られた木剣がアーガの防御を弾き、剣先が彼の肩の手前で止まった。
訓練場が静かになった。
アーガはその場に立ち、胸を大きく上下させていた。
顎から落ちた汗が、木製の床へ一つの黒い点を作る。
リサは木剣を引いた。
「この一年で、少しは上達したようね」
軽く鼻を鳴らす。
「でも、私と比べるにはまだ遠いわ」
アーガは、痺れている右手を何度か振った。
「最初から学んできた内容も違うし、教えてくれた先生も違うんだから、比べる方がおかしいだろ」
そう言いながら、心の中で付け加える。
(それに剣が重すぎる。少しくらい手加減してくれてもいいのに)
リサはその不満を無視し、木剣を持ったまま場外へ歩いていった。
アーガは彼女の後ろ姿を眺め、ふと疑問を覚えた。
(この一年、ずっと僕をからかってくる)
(自分から話しかけてくることもあれば、まったく関わりたくないような態度を取ることもある)
(本当に変な奴だな)
だが、よく考えれば、二人はまだ八歳にすぎない。
自分の感情や考えを、自分自身でも完全に理解できているとは限らない。
まして、それをきちんと言葉や態度で表すことなど、簡単ではなかった。
アーガは木剣を壁際へ戻した。
柄に巻かれた粗い布が指先をこすり、はっきりとした感触を残す。
その場でしばらく呼吸を整えてから、訓練室を出た。
扉を開けた瞬間、外の冷たい風が一気に流れ込んでくる。
汗の残る背中へ風が当たり、アーガは思わず短く息を吸った。
そのまま廊下を歩いていく。
右手は、もう剣を握っていない。
それでも掌の奥には、蠍座のものと思われる温もりが、今も確かに残っていた。
静かで、安定していて。
そして、どこまでも鮮明だった。




