第3話 六年後
アーガが目を覚ますと、窓の外から小鳥のさえずりが聞こえてきた。
朝の陽射しがカーテンの隙間から差し込み、床の上に細長い光を落としている。
アーガはベッドに横たわったまま、しばらく天井を眺めていた。
そこには細い亀裂が一本走っている。
物心がついた頃から、ずっと変わらずそこにあるものだった。
あれから、六年が過ぎた。
アーガは身体を起こし、まだ眠気の残る目をこすった。
六年前、アイランは森から連れ帰られた二人の赤ん坊を、どちらもラインハルト家に残すことを決めた。
本当にこの家の血を引いている子供には、ノエルという名前が与えられた。
そしてアーガは、ラインハルト家の三男として育てられることになった。
今に至るまで、二人のうちどちらがアイランの実の息子なのか、誰にも分かっていない。
もちろん、アーガ自身は知っていた。
自分は森の中で目を覚ました。
この世界のラインハルト家とは、血の繋がりなど何一つない。
だが、その事実を打ち明けるわけにはいかなかった。
生まれたばかりの赤ん坊が、自分が森で拾われたときの出来事を覚えているはずがない。
ましてや、前世の記憶や転生について説明できるはずもなかった。
何より、アーガはすでにこの家で六年も暮らしていた。
アイランは、素性が分からないからといって、アーガを差別したことなど一度もない。
食事も、服も、部屋も、すべてノエルと同じように与えてくれた。
病気になったときには、一晩中ベッドのそばにいて看病してくれたことさえある。
この家で過ごす時間が長くなるほど、アーガは何をどう話せばいいのか分からなくなっていった。
服を着替え、部屋の扉を開ける。
廊下の突き当たりにある窓は開け放たれていた。
そこから入り込んだ朝の風が、壁に飾られた絵を小さく揺らしている。
ノエルの部屋の前を通りかかると、中から布団を動かす音が聞こえてきた。
どうやら、まだ起きていないらしい。
アーガは足を止めず、木造の階段を下りて一階へ向かった。
掃除をしていた侍女が、テーブルを拭く手を止める。
「アーガ様、おはようございます」
「おはよう」
食堂には、すでに朝食が用意されていた。
アイランはテーブルのそばに座り、温かい粥をノエルの器へよそっている。
ノエルはどうやら起きたばかりらしい。
髪はまだ乱れたままで、手にしたフォークで皿の目玉焼きを何度もつついていた。
アーガが入ってくると、アイランはもう一つの器を彼の席へ押し出した。
「早く食べなさい」
粥には細かく刻んだドライフルーツが入っていた。
熱すぎないように、ちょうどいい温度まで冷ましてある。
アーガがスプーンですくい、一口飲んだところで、アイランが尋ねた。
「昨日は書斎から何冊持ち出したの?」
「六冊」
アイランはアーガを見た。
「全部読めるの?」
「読めるよ」
「夜更かしはしないようにね」
それ以上、止めることはなかった。
ただ一言注意すると、今度はノエルの跳ね上がった襟を直してやる。
「午後から執事が町へ買い出しに行くの。ついていきたいなら構わないけれど、勝手に走り回っては駄目よ」
ノエルがすぐに顔を上げた。
「僕も行く!」
「まずはきちんと座って、朝食を食べなさい」
ノエルは椅子へ座り直し、残っていた目玉焼きを二、三口で平らげた。
アーガはゆっくりと粥を食べ終えると、自室へ戻って本を持ってきた。
午前中、アーガはノエルに連れられ、屋敷の敷地内を一回りした。
最初に厩舎へ行き、馬番が馬の毛並みを整える様子を眺める。
次は庭の隅にしゃがみ込み、しばらく雌鶏を観察していた。
しかし、ノエルはすぐに飽きてしまった。
裏庭の古い木の下へ走っていき、落ちている枝を集め始める。
どうやら、枝で城を作るつもりらしい。
アーガは城作りにはあまり興味がなかった。
木陰に腰を下ろし、持ってきた『基礎魔法概論』を開く。
この世界の魔法は、カードと深く結びついている。
魔力を持つ者は、カードを通じてさまざまな能力を発動できる。
アーガは六年前、追跡魔法や加速魔法、そして剣から放たれる斬撃を、その目で見ていた。
いつか自分も本当の魔法を学べる日が来ることを、ずっと心待ちにしている。
本によると、子供が初めて魔力の検査を受けるのは、通常七歳前後らしい。
あと一年。
ノエルはしばらく枝を組み合わせていたが、やがてそれにも飽きたようだった。
池のそばへ行き、曲がった枝で水面を何度もつつき始める。
アーガはその様子を見て、地面から真っすぐな棒を一本拾った。
「こっちを使ったら? その方が魔法の杖らしく見えるよ」
ノエルは棒を受け取り、手の中で二度ほど振ってみた。
だが、すぐに地面へ放り出し、元の曲がった枝を拾い直す。
「僕はこれでいい」
それだけ言うと、ノエルは背を向けて歩いていった。
アーガはしばらくその後ろ姿を見つめた。
そして、自分が拾った棒も地面へ戻す。
ここ数か月、ノエルとの距離は少しずつ広がっていた。
二人は一度も、本気で喧嘩をしたことはない。
ただ、ノエルがアーガを見る目には、時折よく分からない感情が浮かんでいた。
不満そうに見えるときもあれば、アーガが何かを打ち明けるのを待っているように見えるときもある。
もしかすると、ノエルは何かに気づいているのかもしれない。
あるいは、周囲の人間の態度が原因なのだろうか。
屋敷の使用人たちは、よくアーガを褒めた。
頭がよく、聞き分けがあり、本を読むことが好きな子供だと。
町の住人たちも、アーガを見かければ進んで挨拶をしてくる。
一方で、やや短気なノエルが褒められる機会は、どうしても少なくなっていた。
アーガは、その違いに気づいていた。
だが、どうすればいいのかは分からなかった。
午後になり、執事が町へ向かう準備を始めたとき、同行したのはアーガだけだった。
ノエルは直前になって気が変わり、屋敷へ残って馬番から馬の世話を教わることにした。
馬車は土の道をゆっくりと進んでいく。
アーガは車内でも、『基礎魔法概論』へ目を落としていた。
車輪が小石を踏むたび、車体が小さく揺れる。
向かいに座る執事は、しばらくアーガの様子を眺めていた。
「アーガ様は、以前にも増して勉強熱心になられましたね」
アーガは本から顔を上げる。
「来年には、魔力の検査があるから」
執事は笑顔でうなずいた。
「そうですね。あと一年もすれば、アーガ様もノエル様も、学院の入学試験に備えなければなりません」
ノエルの名を聞き、アーガはそれ以上何も言わなかった。
ただ再び視線を落とし、本のページをめくる。
馬車は間もなく町へ到着した。
執事は日用品を買うため、雑貨店へ入っていった。
アーガは店の前で待っていたが、通りの向かいに古本を並べた露店があることに気づいた。
近づいてしばらく本を探し、最後にカードの歴史を紹介する小冊子を一冊選ぶ。
店主は代金を受け取ると、アーガを見て笑った。
「そんなに小さいのに本が好きだなんて、将来はきっと立派な人になるよ」
「ありがとうございます」
アーガは小冊子を胸元へしまい、馬車へ戻ろうとした。
路地の入り口を通りかかったとき、立ち話をしていた二人の女性が彼に気づく。
「あれ、ラインハルト家の三男坊じゃない?」
「本を読むのが大好きで、とても礼儀正しい子なんでしょう?」
「そうそう。それに比べると、次男の方は少しね……」
その先は、聞こえないように声を落としていた。
アーガにはすべて聞き取れなかった。
だが、何を話しているのかは想像できる。
彼は立ち止まらなかった。
きっとノエルも、同じような話を何度も耳にしてきたのだろう。
そこでようやく、アーガは気づいた。
なぜノエルが、自分のそばにいたがらなくなったのか。
ノエルが何をしても、周囲の人間は必ず二人を並べて比べる。
そして否定されるのは、いつもノエルの方だった。
その夜、アーガは買ったばかりの小冊子を枕元へ置き、ベッドに横たわった。
窓の外では、風の音が鳴っている。
薄暗い天井を見つめながら、長い間考え続けた。
それでも、ノエルに何と言えばいいのかは分からなかった。
◇ ◇ ◇
ある日の午後。
アーガが池のそばで本を読んでいると、屋敷の外から馬車の近づく音が聞こえてきた。
車輪が土の道を進む音は次第に大きくなり、やがて門の前で止まる。
アーガは本を閉じ、立ち上がった。
ちょうどそのとき、一人の黒髪の少年が馬車から飛び降りる。
少年はアーガより頭一つ分ほど背が高かった。
身体つきはやや細いものの、背筋は真っすぐに伸びている。
手には、角が白く擦れた古い革鞄を提げていた。
ヴィエン・ラインハルト。
ラインハルト家の長男である。
今年で八歳。
王都セント・ローランにある聖イース学院へ通い始めて、すでに二年が経っていた。
普段はほとんど屋敷へ帰ってこない。
ヴィエンは出迎えた使用人へ革鞄を預けた。
そこでアーガの姿に気づき、近づいて肩を軽く叩く。
「また背が伸びたな」
アーガは笑顔を浮かべた。
「兄さん」
その言葉が終わるよりも早く、ノエルが屋敷の中から飛び出してきた。
勢いよくヴィエンの前まで走り、危うく身体へぶつかりそうになる。
「兄さん、僕たちに何か持ってきてくれた?」
ヴィエンは、最初からそう聞かれると分かっていたらしい。
ポケットから灰色の石を取り出し、ノエルへ渡した。
一見すると、どこにでもありそうな石だった。
しかし、その表面には淡い光がかすかに浮かんでいる。
ノエルはすぐに顔の前まで持ち上げ、興味深そうに眺めた。
「これは何?」
「夜光石だ。夜になると光る」
ノエルの目が輝いた。
石を持ったまま屋敷の中へ駆け込み、暗い場所を探しに行く。
ヴィエンはその背中を見送り、困ったように笑った。
それから革鞄を持ち直し、アーガとともに屋敷へ入った。
その日の夜。
三人の兄弟は、久しぶりに同じ食卓を囲んでいた。
アイランがヴィエンの器へスープをよそいながら尋ねる。
「再来年には学院を卒業するのでしょう? そのあとは、どうするつもりなの?」
ヴィエンは皿の煮込み肉を切りながら、少し考えた。
「騎士団に入りたいと思っています」
ノエルが顔を上げる。
「どうして魔導師にならないの?」
「僕は魔法を使うのがあまり得意じゃないからね」
ヴィエンは笑った。
「剣を使う方が向いていると思う。まあ、まだ決めたわけじゃないけど」
そう言って、向かい側に座る二人の弟を見る。
「お前たち、もうすぐ家庭教師について勉強を始めるんだって?」
ノエルがすぐに答えた。
「母さんから聞いたよ」
「だったら、真面目に勉強しておけ」
ヴィエンは二人へ言い聞かせるように続けた。
「来年、学院の入学試験を受けるなら、読み書きと算術、それからカードの基礎知識が必要になる」
少しだけ声を厳しくする。
「一次試験すら通れなかったら、次の年まで待たなきゃいけないからな」
「心配しなくていいよ」
アーガが答えた。
ノエルも続いて力強くうなずく。
「僕は絶対に合格する」
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