第226話 風
第三城区外側の通りで、エラは剣を握ったまま半空を飛ぶセルを見上げていた。
今のセルは、もう普通の吸血鬼とは呼べない姿になっている。背中から暗赤色の蝙蝠の翼が広がり、腕は長く伸び、指先は鋭い血爪へ変わっていた。顔からも理性がかなり失われ、瞳に残っているのは野獣のような興奮と殺意だけ。屋根と半空の間を何度も旋回し、その速度は暗赤色の影のようだった。
「どうした? さっきまであんなに剣を振り回してただろう?」
エラは一度息を整えた。肩の傷はまだ痛い。
本当に面倒な相手だった。空を飛べる。速い。力も強い。普通の風刃ではなかなか命中せず、風壁では血爪を防ぎきれない。攻撃を当てても、身体の表面を覆う血液が無理やり刃を止めてしまう。
そして何より厄介なのは、すでに理性を失いかけていることだ。
挑発しても大して反応せず、傷つくことも恐れない。
まるで本物の怪物が、夜空から襲いかかってきているようだった。
セルが突然急降下した。
血爪が空気を引き裂き、首へ迫る。
エラは剣を上げ、刃へ風をまとわせて真正面から受け止め、そのまま攻撃の軌道を逸らした。だがセルは翼を強く振り、半空で身体を捻る。もう片方の血爪が横から襲ってきた。
エラはすぐに後退する。
爪が袖を掠め、布の一部を引き裂いた。
「ちっ……」
エラは目を閉じ、深く息を吸った。
第三城区の夜風が、通りの反対側から吹いてくる。
本来なら冷たいはずの風。
だがエラへ近づくにつれて、その温度が少しずつ変わり始めた。
最初はほんの僅かな暖かさだった。昼間、日差しを浴びた石畳に残る熱のようなもの。
やがて周囲の空気が僅かに歪み始める。
小石、埃、砕けた木片。
それらがすべて見えない気流へ持ち上げられ、エラの周囲をゆっくりと回り始めた。髪も風へ持ち上げられ、毛先には淡い金色の光が浮かぶ。
目尻の下には二本の細い風紋。
暖かな陽光を思わせる薄い金色だった。
セルの身体から落ちた血液さえ、彼女の周囲へ近づいた瞬間に暖風で軌道を逸らされ、離れた地面へ落ちていく。
エラが目を開いた。
「暖風形態」
直後、魔力が一気に膨れ上がり、周囲の風が瞬時に加速した。
「今度は何だ、その訳の分からないものは?」
セルが苛立ったように睨む。
エラは剣を上げ、口元を吊り上げた。
「自分で味わえば分かるでしょ」
セルが咆哮し、翼を広げて再び急降下する。
先ほど以上の速度。
だが今回は、エラはすぐに剣を振らなかった。
ただ一歩、横へ動く。
血爪は本来なら肩へ直撃するはずだった。だがエラの周囲を流れる暖風の領域へ入った瞬間、気流によってほんの僅かに軌道が逸れる。
それで十分だった。
エラは致命傷を避け、返す刀で斬りつける。
風刃がセルの脇腹を掠め、先ほどより深い傷を刻んだ。
セルは一気に距離を取る。
「俺の攻撃の向きを変えたのか?」
「変えたってほどじゃないわ。ただ、少し狙いにくくしてるだけ」
セルの目が鋭くなった。
突然、高く飛び上がる。
傷口から溢れた血液が蝙蝠の翼の縁へまとわりつき、次の瞬間、翼を勢いよく振るった。
十数本の血色の風刃が上空から降り注ぐ。
エラは頭上の攻撃を見上げた。
暖風形態となった今、感覚は先ほどまでより遥かに鋭くなっている。
風がどこから吹くのか。攻撃がどこへ落ちるのか。どの位置で空気が切り裂かれたのか。
すべてが以前よりはっきり分かる。
地面を蹴った瞬間、暖風が身体を持ち上げ、速度が一気に上昇した。
血色の風刃が次々に石畳へ突き刺さる。
だがエラはすでに通りの反対側へ移動していた。
剣を地面へ突き刺し、両手を上げる。
「砂塵嵐――天災」
地面の埃が一斉に巻き上がった。
ただの土埃ではない。砕けた石の粉、木屑、乾いた砂。すべてが暖風へ引かれ、空へ巻き上げられていく。
瞬く間に通り全体が黄褐色の嵐へ変わった。
空にいるセルは本来なら広い視野を持つ。だが砂塵嵐が発生した瞬間、その利点は完全に消えた。目の前には渦巻く砂埃しかなく、エラの位置すら分からない。
「こんなもので俺を閉じ込められると思ってるのか!」
翼を強く振り、風嵐の外へ飛び出そうとする。
だが上へ飛んだ直後、砂塵嵐の回転方向が変わった。
四方から強烈な気流が押し寄せ、セルの身体を中心へ引き戻す。無数の砂粒が翼へ叩きつけられ、一つ一つの威力は小さくても飛行を絶えず邪魔した。
血翼の表面が削られ、飛行軌道が乱れていく。
「飛ぶのが好きなんでしょ?」
嵐の中からエラの声が響いた。
セルが勢いよく振り返る。
砂塵の向こうから鋭い風の槍が飛び出した。
「風之穿刺!」
セルは辛うじて身体を逸らしたが、完全には避けられない。
左翼の端が貫かれた。
「グアアッ!」
半空で大きく体勢を崩す。
エラはその隙を逃さず、砂嵐を突き破って飛び出した。
剣身には暖風がまとわりついている。
そのまま胸へ斬りつける。
セルは血爪で受け止めた。
凄まじい衝撃でエラの手首が痺れる。
だが次の瞬間、剣にまとわせていた暖風が一気に爆発し、セルの身体をさらに下へ押し込んだ。
「地面に落ちなさい!」
エラは近くの壁を蹴り、風の勢いを利用してもう一度加速した。
ついにセルは空中から押し落とされる。
身体が通りの中央へ激突し、石畳が砕け散った。
それでも砂塵嵐は止まらない。
瓦礫の中から立ち上がったセルは、完全に激昂していた。身体の表面で血液が激しく蠢き、半身を覆う。蝙蝠の翼もさらに禍々しく変化していた。
「殺す! お前を引き裂いてやる!」
野獣のように飛びかかる。
今度は飛行だけに頼らない。
自分の身体そのもので、強引に風嵐を突き破ってくる。
血爪が連続して気流を切り裂く。
エラは風壁を展開したが、一撃で破壊された。
余波で身体を押され、肩へさらに一本の傷が刻まれる。
やはり力そのものは強い。
暖風形態で攻撃の精度は落とせても、力任せの突進を完全には止められない。
エラは歯を食いしばり、足元で暖風を爆発させた。
身体を回転させながら次の一撃を避け、返す刀で風刃を放つ。
だがセルは血爪で真正面から叩き砕いた。
その勢いのまま懐へ飛び込み、腹部を狙う。
エラは剣を横へ構えた。
砰ッ!
身体が吹き飛び、壁へ背中を叩きつけられる。
口元から血が流れた。
セルは一歩ずつ近づき、喉の奥で低く笑う。
「お前の風じゃ、俺は止められない」
エラは剣を支えにして立ち上がり、口元の血を拭った。
「それはどうかな」
顔を上げる。
セルの足が止まった。
エラの周囲を流れる暖風が、突然さらに温度を上げ始めた。
少しずつではない。
風の領域全体が、急速に加熱されていく。
砂塵嵐の中で高速に擦れ合う砂粒、木屑、空気。すべてをエラの魔力が圧縮し、加速させ、さらに熱していく。
黄褐色だった風嵐が、少しずつ橙赤色へ染まり始めた。
まるで夜の中に巨大な炎の輪が生まれたようだった。
セルもようやく危険を察知し、翼を広げて逃げようとした。
だがエラが剣を上げると、風嵐の中心を流れる気流が一瞬で身体へ絡みついた。
「今さら逃げようとしても、遅いでしょ」
セルは叫びながら暴れ、血魔法を噴き出して周囲の風を引き裂こうとする。
だが砂塵嵐はすでに大きく収縮していた。
暖風は灼熱の旋流へ変わり、翼へまとわりつきながら激しく引き裂いていく。
エラは両手で剣を握り、剣先を空へ向けた。
「火龍巻――焚天!」
轟ッ!
橙赤色の旋風が地面から空へ噴き上がる。
砂塵、熱流、風刃。
すべてが絡み合い、巨大な炎色の竜巻へ変わった。
セルの身体が一瞬で巻き込まれる。
血翼が高熱の風に焼かれ、身体を覆っていた血魔法も高速回転する気流に次々と引き裂かれていく。
狂ったように血爪を振っても、攻撃はそのたび風によって軌道を逸らされ、エラへ届かない。
竜巻の外に立つエラは、これまでにないほど真剣な目でセルを見た。
「あなたたちのせいで、アーガ様はずっと忙しかった。私とイタを捕まえた。それにリナまで死にかけるほど傷つけた。全部まとめて、今日ここで返してもらう!」
火龍巻の中からセルの咆哮が響く。
最後の力を振り絞り、外へ飛び出そうとする。
その瞬間、エラが剣を振り下ろした。
火龍巻が一気に圧縮される。
熱風、砂塵、風刃。
すべてが一点――セルの身体へ集中した。
巨大な炎色の旋流が竜の顎のように食らいつき、地面から半空へ巻き上げ、そのまま通りの果てへ叩きつける。
轟ッ!!
第三城区外側に凄まじい爆音が響き、炎のような光が夜空へ立ち上がった。
やがてその火光も暖風に吹き散らされる。
嵐が少しずつ消えたあと、セルは砕けた地面の中に倒れていた。
蝙蝠の翼は焼け焦げ、無残に壊れている。身体を覆っていた血魔法も完全に崩壊していた。
何とか立ち上がろうとしたが、一度身体が僅かに動いただけで、再び地面へ倒れ込む。
エラは一歩ずつ近づいた。
暖風形態が徐々に解除され、周囲を流れていた熱気もゆっくりと薄れていく。髪の先に浮かんでいた淡い金色の輝きも、少しずつ元へ戻った。
身体には多くの傷があり、呼吸もかなり荒い。
それでも剣を握る手だけは、少しも震えていなかった。
セルが顔を上げる。
瞳にようやく僅かな理性が戻っていた。
「お前……」
エラは剣先を目の前へ突きつけた。
「もう『お前』とかいいから」
歯を食いしばりながら言う。
「私の勝ち」
夜風が第三城区外側の通りを吹き抜けた。
今度の風は、もう冷たくなかった。
僅かな余熱を含んだ暖かな風。
エラはその中でゆっくり息を吐き、遠くへ目を向けた。
「アーガ様の方も、そろそろ始まる頃かな」




