第225話 氷
第二城区の通りは、すでに冷気に覆われていた。イタは崩れた石壁の前で片膝をつき、右手を地面へつきながら荒い呼吸を整えている。
先ほどまで続いたワイトの血鞭による連撃は、彼女の氷壁を砕いただけでなく、手首や脚へまとわりついて動きまで封じた。
あの血魔法は非常に厄介だった。遠距離から鞭のように叩くこともできれば、縄のように相手へ巻きつくこともできる。一度血液が身体へ貼りつけば、すぐに振り払うのは難しい。
ワイトは少し離れた場所に立ち、周囲へ数本の血鞭を浮かべていた。血液は生き物のように空中で蠢き、ときおり地面へ垂れて粘ついた音を立てる。
「どうした? さっきまでの威勢はどこへ行った?」
イタは答えず、自分の手首へ残った血の痕を見下ろした。先ほどの攻撃は確かに完全には防げなかった。
「何も言わないのか? 怖くなったか?」
ワイトが笑みを深くする中、イタはゆっくり立ち上がった。まだ脚は少し震えている。それでも瞳は驚くほど静かだった。
「私はもう、アーガ様に守られてばかりなのは嫌です」
ワイトが一瞬、目を瞬かせる。
「暮星城で、アーガ様が龍魔獣に追われていたとき、私は絶対にアーガ様を守れるようになるって決めました。だから今日、ここであなたを倒します」
「お前が?」
「はい。あなたたちはアーガ様をとても困らせています。だから、私が消します」
ワイトの笑みが消えた。
「馬鹿馬鹿しい」
腕を振ると、三本の血鞭が同時に放たれた。一本は首、一本は腰、最後の一本は地面すれすれを走って両脚を狙う。
イタは退かなかった。
片手を上げた瞬間、足元から冷気が一気に広がり、路面全体を白い霜が覆った。血鞭がその範囲へ入ると、僅かに速度が落ちる。
ワイトが眉を寄せた直後、イタの周囲で魔力が爆発的に膨れ上がった。
白と青の冷気が身体の内側から噴き出し、一瞬にして通り全体を呑み込む。崩れた壁、誰もいない家々、地面に残る血痕、そのすべてが白い霜へ覆われていった。
強烈な寒風で衣の裾が舞い上がり、周囲では小さな雪晶が次々に形成され、魔力の流れに乗って旋回し始める。身体の表面にも薄い氷晶が浮かび、肩や腕から細い氷の稜線が伸びていった。
「あり得ない……さっきまで俺に押されてたはずだろ。まだそんな魔力を隠してたのか?」
イタは指先へ落ちた一片の雪晶を見つめる。それは次の瞬間、白い冷気となって砕けた。
「暴雪形態」
髪の先が淡い霜白へ染まり、目尻の下には二本の薄青色の氷紋が浮かんだ。凍った涙の跡のような紋様だった。
イタが地面を蹴る。
速度そのものはそれほど速くない。だが暴雪形態となった今、この通り全体がすでに彼女の戦場だった。
ワイトの血鞭が振るわれると、周囲を舞う雪粒が瞬時に貼りつき、表面を凍らせた。動きが鈍くなる。
ワイトは強引に氷を砕く。
「血鞭縛殺!」
四本の血鞭が分裂し、半空から網のように広がった。
イタが手を上げると、地面から次々に太い氷槍が突き出した。ワイト本人ではなく、血鞭の軌道へ正確に割り込んでいく。
血鞭が氷槍を砕く。しかし砕けた氷片は地面へ落ちず、暴雪の中へ取り込まれて無数の細かな氷針へ変わった。
「雪弾」
雪霧の中から無数の雪弾が飛び出した。
ワイトは正面へ血幕を広げる。先ほどと同じように受け止めるつもりだった。
だが今回は違った。
氷針は血幕へ突き刺さった瞬間、内部で冷気を爆発させる。血幕そのものが内側から一気に凍りついた。
ワイトは慌てて後退した。
パキンッ。
血幕が暗赤色の氷塊となって砕け、地面へ散らばる。
「俺の血を……凍らせた?」
イタは答えず、そのまま距離を詰める。
ワイトもようやく彼女を侮るのをやめた。掌を裂き、さらに大量の血液を十数本の細い血鞭へ変える。それらはすぐにはイタを襲わず、壁、地面、折れた木材、周囲のあらゆるものへ貼りついた。
次の瞬間、一気に引く。
大量の瓦礫、木板、金属片が持ち上げられ、イタ目掛けて飛んだ。
これこそ、ワイトの最も厄介なところだった。血液そのものを武器にするだけではなく、周囲のあらゆる物体へ付着し、この通り全体を攻撃手段へ変えられる。
イタは両手を前へ押し出す。
一枚目の雪壁が瓦礫を止め、二枚目が木材を、三枚目が鉄器を受け止めた。
しかし数が多すぎる。
氷壁は次々に砕け、最後には巨大な石塊が防御を突き破った。イタは身体を横へ滑らせて直撃を避けたものの、肩を掠められて数歩押し戻される。
ワイトはその隙を逃さない。
血鞭が地面を這って背後へ回り込み、背中を強く打った。
イタは低く呻き、前へよろめく。
「その姿になって強くなったのは認めてやる。でも、まだ甘い。戦いってのは、ただその場で魔力を放ってればいいわけじゃない」
再び血鞭が飛び、今度は右腕へ直接絡みついた。
ワイトが強く引く。
だがイタは、先ほどのように倒れなかった。
その場に立ったまま、血鞭の表面へ霜を広げる。
凍結が腕から血鞭を逆流するように、猛烈な速度でワイトへ向かっていった。
「っ!」
ワイトは即座に血鞭を切断する。
イタは顔を上げた。
「さっきので、あなたの攻撃方法は分かりました。身体から離れた血液は鞭にもできるし、物にも貼りつけられる。でも、十分に冷やせば動きが鈍くなって、硬くなって、使えなくなる」
「それがどうした? 一、二本なら凍らせられるだろう。全部を凍らせられるのか?」
ワイトが両手を広げる。
背後から大量の血液が噴き出し、数十本もの細い血鞭へ分裂した。交差する血鞭が通りを埋め尽くし、逃げ道を完全に塞ぐ。
「血網百縛!」
無数の血鞭が空を覆うように降り注いだ。
イタは頭上の赤い線を見つめたまま、一歩前へ出る。
その瞬間、周囲の吹雪がさらに激しくなった。
通りの両端から寒風が逆巻き、雪粒は前さえ見えないほど密度を増していく。
血鞭が暴雪へ突入した。
最初は勢いを保っていたが、すぐに表面へ白い霜が浮かび、動きが少しずつ鈍くなる。ワイトが魔力を注いで強引に氷を破っても、一層砕くたびにさらに多くの雪晶が貼りついていった。
その吹雪の中を、イタは歩き続ける。
一歩、二歩、三歩。
腕、頬、肩へ血鞭が触れ、傷が増えていく。それでも止まらない。血鞭が近づくたび、暴雪によって勢いを削られる。ワイトが血を貼りつけようとするたび、接触した瞬間から凍結が始まる。
ついにワイトが焦った。
「来るな!」
すべての血液を一本へ集める。
巨大な血鞭が、赤い大蛇のような姿となった。
猛烈な勢いで振り下ろされる。
イタは両手を上げ、正面へ巨大な氷鏡を作った。
血の大蛇が激突する。
轟音。
しかし氷鏡に入ったのは、僅かな一本の亀裂だけだった。
イタはその瞬間を逃さない。
右手を前へ出し、強く握り込む。
「凍結」
パキパキパキッ!
血の大蛇が頭から尾まで一気に凍りついた。
ワイトは慌てて魔力の繋がりを切ろうとしたが、もう遅い。イタの足元から氷が猛烈な速度で伸び、凍りついた巨大な血鞭そのものを二人を結ぶ氷橋へ変えた。
その上をイタが駆ける。
「くそっ!」
ワイトは後退しながら血幕を作ろうとした。
だが暴雪はもう目の前まで迫っている。
周囲の温度は、ワイト自身の血液まで鈍らせるほど低下していた。魔力の流れさえ思うように動かない。
イタが片手を上げる。
背後に無数の雪晶が集まり、巨大な白青色の嵐を形成した。
ワイトの目に、ついに恐怖が浮かぶ。
「待て――!」
「あなたたちは、アーガ様をとても困らせています」
イタの声が暴雪を抜け、はっきりとワイトの耳へ届いた。
「だから、私が消します」
ワイトは残された魔力をすべて振り絞り、分厚い血盾を作った。
イタは両手を前へ出す。
「暴風雪――湮滅」
周囲の暴雪が一瞬にして極限まで圧縮された。
次の瞬間、白青色の大嵐が爆発する。
第二城区の大通り全体が猛烈な吹雪に呑み込まれた。
血盾は僅かな時間しか持たなかった。外側から凍結し、亀裂が広がり、無数の氷晶によって一気に引き裂かれる。
ワイトの身体が嵐の中心へ呑み込まれた。
血魔法が溢れ出すたび、身体から離れた瞬間に凍りついていく。逃げようとしても、足元はすでに厚い氷へ固定されていた。
嵐がさらに収縮する。
雪晶、氷刃、寒霧。
すべてが一点へ集まった。
轟ッ!
ワイトの身体が吹き飛び、石壁を突き破る。そのまま後を追う氷に四肢を封じられ、瓦礫の中へ縫いつけられた。
暴雪はゆっくりと止んでいった。
地面も、壁も、屋根も、分厚い白霜に覆われている。
イタは通りの中央に立っていた。
暴雪形態が少しずつ解除され、身体を覆っていた氷晶の衣が淡い冷気となって消えていく。顔色は青白く、呼吸も乱れていた。今の一撃でかなりの魔力を消耗したことは明らかだった。
それでも倒れなかった。
「お前……どうして……」
完全に氷漬けとなったワイトを見つめ、イタは静かに答えた。
「もう決めたからです。私はずっとアーガ様に守られているだけではいません。今回は、私がアーガ様の代わりに厄介事を片づけます」
片手を上げる。
最後の一筋の冷気が落ち、ワイトを完全に氷の中へ封じ込めた。
第二城区の暴雪は止んだ。
イタの勝利だった。




