第224話 草
第一城区の大通りには、湖面を渡ってきた冷たい湿気が漂っていた。リナは石畳の上に片膝をつき、片手で地面を支えながら呼吸を整えている。先ほどまでのグルンとの戦いでは、ほとんど一方的に押され続けていた。
グルンは二本の血刀を引きずり、一歩ずつ近づいてくる。
リナは顔を伏せたまま、指先をそっと地面へ触れさせた。
その瞬間、グルンが目を細めた。周囲を流れる魔力が変わっている。
地面へ散らばっていた千切れた蔓が、少しずつ枯れ始めた。道端の雑草、壁の隙間から伸びる小さな植物、湖畔で風に揺れていた葦までもが同時に頭を垂れる。植物たちが最後に残された生命力を、すべてリナへ集めているかのようだった。
空気の中に、淡い緑色の光が浮かび始める。
「……何だ?」
グルンの足が止まった。
リナはゆっくり立ち上がる。風に髪を揺らしながらも、その目はこれまでにないほど静かだった。緑色の魔力が身体から溢れ、霧のように周囲を巡る。
やがて細い草、蔓の繊維、枯れ葉が絡み合い、緑色の魔力装束となって身体を包んだ。
「枯草形態」
草の衣が肩、腕、腰を覆う。裾からは細い花茎が次々に伸び、その表面の棘が冷たい光を放った。顔にも二本の緑色の紋様が浮かび、目尻から顎へと伸びていく。涙の跡にも、古い植物の紋印にも見える模様だった。
さらに、空から花びらが舞い落ち始めた。
一枚、二枚、三枚。
枯れ落ちた残花のようでありながら、一枚一枚が淡い魔力の光を帯び、夜の大通りへ静かな緑色の雨を降らせていく。
グルンの表情が初めて変わった。
「あり得ない……まだ魔力が残っていたのか?」
「余っていたわけではありません」
リナは一枚の花びらを指先へ受け止める。それはすぐに緑色の光となって消えた。
「これは、今まで本当の意味では使ってこなかった力です。私はずっと、アーガ様の戦い方を見てきました。この一年、どう戦えばもっと強くなれるのか、ずっと考えていたんです」
「ふざけるな。さっきまで倒れかけてただろうが」
「赤骸城を出て、外の世界を初めて見たあの日に決めました。私はアーガ様の戦力になります。ずっと守られているだけじゃなく、これから先もずっとアーガ様と一緒に歩いていけるように。だから、後ろに隠れているだけでは駄目なんです。ここで倒れるわけにもいきません」
グルンは歯を食いしばった。確かにリナの魔力は上昇している。虚勢ではない。
その緑色の力には、炎のような激しさも、氷のような鋭さもなかった。だがそれ以上に不気味な、貪欲な感覚がある。死にかけた草原が最後の瞬間に根を広げ、周囲のすべてを土の中へ引きずり込もうとしているようだった。
グルンは怒りのあまり笑った。
「いいだろう。その姿で俺の刀を何発受けられるか、試してやる!」
地面を蹴り、一筋の血の影となって突進する。二本の血刀が交差しながら振り下ろされ、首と胸を同時に狙った。
だが今回は、リナは退かなかった。
刃が身体へ届く寸前、肩、袖口、衣の裾から無数の細草が飛び出した。浮遊する小蛇の群れのように絡み合い、正面へ流動する草の幕を作る。
血刀が食い込んだ。
しかし、先ほどの蔓のようには切れない。無数の細草が一層ずつ刀へ巻きつき、衝撃を受け流し、力を削り、刃の速度を落としていく。
ガキンッ。
血刀はリナの顔まで半寸もないところで止まった。
「何だと?」
グルンが目を見開いた次の瞬間、さらに異変が起きた。血刀に宿る魔力が、急速に失われている。
柔らかく見える細草が、無数の根のように血魔法へ食い込み、その内部の魔力を吸い取っていた。鮮紅色だった血刀が少しずつ暗くなり、刃も不安定に震え始める。
グルンは勢いよく後退し、無理やり血刀を引き抜いた。だが刃の一部はすでに欠けている。
「この草……俺の魔力を吸ってるのか?」
リナが片手を上げると、浮かんでいた細草が再び身体へ戻っていった。
グルンは怒鳴り、血刀をさらに膨張させた。両腕から大量の血液が溢れ、分厚い刃の鎧となる。そのまま全速力で突進し、十数本の血色の軌跡を一瞬で作り出した。
リナは軽く一歩下がる。
一枚の花びらが落ちた。
背後の地面が裂け、数十本の枯黄色の蔓が一斉に飛び出す。先ほどのような鮮やかな緑ではない。乾き、鋭く、今にも朽ちそうな姿をしていた。
グルンは一刀で数本を切断したが、切れた部分から飛び散った草屑がそのまま血刀へ貼りつき、再び魔力を吸い始める。
戦えば戦うほど、グルンは苛立っていった。攻撃するたびリナを後退させることはできる。それでも決定的な傷を与えられない。まるで果てのない枯草原へ刀を振っているようだった。
切れば切るほど絡みつかれる。苛立てば苛立つほど、魔力を奪われていく。
「調子に乗るな!」
グルンは自分の手首へ噛みついた。大量の血が噴き出し、空中で巨大な血色の長刀へ変わる。
「血斬断骨!」
恐ろしい圧力とともに巨刀が振り下ろされた。
リナも表情を引き締める。この一撃だけはまともに受けるわけにはいかない。両手を振るうと、無数の花びらと細草が高速で回転し、枯黄色の紋様を持つ聖木の盾へ変化した。
血色の大刀が激突する。
石畳が一瞬で砕け、リナの身体は数メートル後ろへ押し流された。口元から再び血が滲む。
それでも盾は壊れない。
グルンの顔が変わった。
巨大な血刀が、薄くなっている。
聖木の盾に浮かんだ枯草の紋様が生き物のように刃へ這い広がり、血液に込められた魔力を一筋ずつ吸い取っていた。巨大だった刀は、目の前で一回り小さくなっていく。
「この化け物……!」
リナは口元の血を拭った。
「吸血鬼でも、力を吸われるのは怖いんですね」
その一言が、グルンの神経を逆撫でした。
完全に冷静さを失い、血刃を振り回しながら突進する。リナは連撃の中で少しずつ後退し、草の衣も何度も切り裂かれた。だがそのたび細草が絡み合い、すぐに編み直される。
身体への衝撃も、傷も増えていた。
しかしそれ以上の速さで、グルンの魔力が減っていく。血刃の色は暗くなり、動きも目に見えて鈍っていた。
対して、リナの周囲へ降る花びらは増え続ける。
第一城区の大通り全体に、緑と枯黄色の花雨が降っていた。
これ以上長引かせてはいけない。
グルンもようやく気づき、大きく後方へ跳んで両腕を広げた。体内に残る血の魔力が一気に噴き出し、目の前に数十本の血刀を作り出す。
「一撃で切り刻んでやる!」
すべての血刀が同時に放たれた。
リナはその場に立ったまま、ゆっくりと目を閉じる。
花びらが肩へ落ち、髪へ落ち、砕けた石畳へ落ちる。
そして目を開いた。
顔に浮かぶ二本の緑色の紋様が強く輝き、草の衣の裾が風もないのに大きく揺れた。
それまで静かに舞い落ちていた花びらが、一斉に空中で止まる。
「秋殺の令――葉落」
片手を上げた瞬間、すべての花びらが同時に向きを変えた。
もう柔らかな花ではない。
無数の鋭い枯葉の刃となり、緑色の魔力をまとって四方八方からグルンへ襲いかかった。
飛来する血刀は、リナへ届く前に次々と削り取られていく。一枚の葉が血刀を横切るたびに魔力を奪い、一枚の花びらがグルンの身体を掠めるたびに細長い傷を刻んだ。
「うおおおおっ!」
グルンは叫びながら血刀を振り回した。だが今や、大通りを埋め尽くす花びらすべてがリナの武器だった。
血刀が砕ける。血の鎧が引き裂かれる。腕、肩、胸へ次々と傷が増えていく。
包囲を突破しようとしたグルンの足が、突然止まった。いつの間にか地面から伸びた枯藤が根のように足首へ絡みついている。
「どけ!」
刀で切断するが、すぐにさらに多くの蔓が地面から這い出した。
その直後、無数の葉刃が一つへ集まる。
巨大な緑色の奔流となり、真正面からグルンへ激突した。
轟ッ!
身体が吹き飛び、通り沿いの石壁を突き破って瓦礫の中へ叩きつけられる。血刀は完全に崩壊し、身体に残っていた魔力もほとんど吸い尽くされていた。
立ち上がろうとした瞬間、数本の枯藤が首と手首を押さえつけ、再び地面へ叩きつける。
リナは大通りの中央に立っていた。
今も花びらが、ゆっくりと降り続けている。
草の衣は少しずつ身体から離れ、淡い緑色の光となって消えていった。顔色は先ほど以上に青白く、呼吸も少し乱れている。
それでも、その瞳は強く輝いていた。
「お前……どうして……」
瓦礫の中のグルンを見下ろし、リナは静かに答えた。
「自分自身に約束したからです。私は、アーガ様の力になるって」
夜風が吹き抜ける。
最後の一枚の花びらが、グルンの砕けかけた血刃へ落ちた。
触れた瞬間、血刃は完全に崩れ、暗赤色の光となって消えた。
リナの勝利だった。




