第219話 準備
そう言うと、アーガは窓の外へ目を向けた。
昼間の第三城区では、今日も人々が慌ただしく通りを行き交っている。
誰もが恐怖の中で暮らしていた。
吸血鬼女王が、いつ再び災いをもたらすか分からない。街の住民は皆、そう信じている。
だが、今夜を境にすべてが変わる。
「準備をしてくる。今夜、始めるぞ」
リナの表情が変わった。
「アーガ様、何をなさるおつもりですか?」
アーガは振り返り、三人を見た。
「この街の支配権を取り戻す」
その声は静かだった。
しかし、これまでにないほど強い決意が込められていた。
「吸血鬼を全員始末する」
ティアはその場で身体を硬直させた。
何かを言おうと口を開いたものの、すぐには声が出なかった。
アーガは彼女を見て、少しだけ口調を和らげた。
「ティア」
「うん?」
「ありがとう」
ティアは呆然と彼を見つめた。
「お前も一緒に来てくれ」
「私も?」
「ああ。お前は、自分の目で見届ける必要があると思う」
ティアの指先が僅かに震えた。
アーガが何を言いたいのか、彼女には分かっていた。
両親と姉を奪った者たちが、もはや高みから人々を見下ろす存在ではないこと。
この街は、永遠に悪夢の前で跪き続けるしかない場所ではないこと。
そのすべてを、自分の目で確かめなければならない。
ティアの目元が赤くなった。
そして力強く頷く。
「行く」
アーガは次に、医者へ目を向けた。
見つめられた医者は、僅かに身を強張らせた。
「な、何だ?」
「勇気のある人間を、何人集められる?」
「勇気のある人間?」
「ああ」
アーガは医者を見つめた。
「今夜、何人か俺と一緒に山へ来てほしい」
医者の顔色が変わった。
アーガは続ける。
「前に出て戦わせるつもりはない。死なせるために連れていくわけでもない」
「ただ、真実をその目で見届ける者が必要なんだ」
医者の表情が目まぐるしく変化した。
明らかに恐れている。
しかし「真実」という言葉を聞いた瞬間、その目が僅かに揺れた。
彼もまた、長い年月を吸血鬼女王の影に怯えながら生きてきた。
最初の災害では、両親も失っている。
本当に真実が存在するのなら。
この街に、まだ救われる可能性が残されているのなら。
医者は深く息を吸った。
「できる限り集めてみる」
「多いほどいい」
医者は窓の外へ目を向け、再びアーガを見た。
最後には歯を食いしばるようにして頷いた。
「探してくる」
アーガはそれ以上何も言わず、窓辺へ歩み寄った。
遠くの山にある第四城区を見つめる。
灰黒色の高塔は、今も変わらずそこに立っていた。
嵐湾城全体を押さえつける、巨大な影のようだった。
しかし今のアーガには、もう近づくことのできない場所とは思えない。
今夜、彼は答えを携えて山へ上る。
そして恐怖に埋められたこの街の真実を、自らの手で掘り起こす。
◇ ◇ ◇
夜が訪れると、アーガは大きな荷物を背負い、診療所から出てきた。
リナがその隣を歩いている。
身体はまだ完全には回復しておらず、顔色も普段より青白かったが、すでに普通に歩ける状態にはなっていた。
反対側にはティアが立っていた。
指先で服の裾を強く握り締めている。
その目には今も恐怖が残っていたが、退こうとはしなかった。
医者もやって来た。
後ろには十数人の人々が続いている。
老人もいれば、中年の者もいた。かつて鉱山で働いていたらしい男たちも数人混じっている。
彼らは武器をほとんど持っていなかった。
戦うために集められた者たちではない。
真実を見届けるために来た者たちだった。
アーガは振り返り、全員の顔を見た。
「このあと何が起きても、勝手に逃げ回るな」
「お前たちは、その場に立って見て、聞いていればいい」
医者は唾を飲み込んだ。
「本当に死なずに済むんだろうな?」
アーガは彼を見た。
「努力はする」
医者の顔色は、さらに悪くなった。
それでも列から離れようとはしなかった。
アーガは小さく笑った。
「安心しろ。誰かが死ぬとしたら、最初は俺だ」
一行は人目を避けることもなく、堂々と山上の第四城区へ向かった。
夜の山道は静まり返っている。
遠くの山頂には高塔がそびえ、暗闇へ打ち込まれた黒い杭のように見えた。
第四城区へ近づくほど、周囲の空気は重くなっていく。
同行した十数人の歩みも、次第に遅くなった。
すでに身体を震わせている者もいる。
何度も振り返り、逃げ出そうとする者もいた。
しかしアーガが一度も足を止めず、先頭を歩き続けている姿を見ると、最後には歯を食いしばってあとへ続いた。
一行が山の中腹まで来たとき、周囲に突然いくつもの火が灯った。
道の両側から、『血祭』の構成員たちが現れる。
赤と黒の服を身につけ、手には武器を持っていた。
冷たい目でアーガたちを囲んでいる。
「止まれ」
先頭の男が一歩前へ出た。
「こんな夜中に、どこへ行くつもりだ?」
医者と十数人の住民たちの顔色が一瞬で変わった。
ティアも反射的にアーガへ近づく。
リナは片手を僅かに上げ、いつでも魔法を放てる姿勢を取った。
しかしアーガには、少しも慌てた様子がなかった。
それどころか、笑顔で片手を上げた。
「こんばんは」
『血祭』の者たちは、揃って目を瞬かせた。
「一つ頼みがある」
アーガは続ける。
「俺たちを山頂まで通してくれないか?」
周囲が静まり返った。
『血祭』の構成員たちでさえ、あまりに予想外の言葉に、どう反応すればよいのか分からない様子だった。
一人が眉を寄せる。
「何をふざけたことを言っている?」
「ふざけていない。本当に上へ行きたいだけだ」
アーガは周囲を取り囲む者たちを見回した。
「これだけ大勢で見張っていれば、俺たちが逃げることもできないだろう?」
「それに、俺たちが第四城区を攻めに来たように見えるか?」
アーガは大きな荷物を背負っている。
隣にいるのはリナとティア、医者、そして十数人の普通の住民だけだ。
どう見ても戦いに来た集団ではなかった。
むしろ自ら死にに来た者たちのようにさえ見える。
『血祭』の者たちは、互いに顔を見合わせた。
誰もが奇妙に思っているようだった。
先頭の男は長い間アーガを睨みつけ、最後に鼻を鳴らした。
「一体、何をするつもりだ?」
アーガは笑った。
「山頂へ着けば分かる」
先頭の男は、依然として警戒を解かなかった。
アーガはさらに言った。
「どうせ俺たちを捕らえたとしても、山頂の第四城区まで連行するんだろう?」
「今ここで通しても、結果は同じじゃないか?」
先頭の男は少し考えた。
確かに、その通りだった。
目の前の集団に脅威があるとは思えない。
それに、彼らが何を企んでいるのか、男自身も興味を抱いていた。
何より山頂には、吸血鬼たちがいる。
そこまで連れていけば、この者たちが逃げることなど絶対にできない。
やがて男は片手を振った。
「連れていけ」
医者の膝から力が抜けかけた。
同行していた十数人の住民たちも、一気に動揺し始める。
アーガはただ振り返り、彼らを見た。
「行くぞ」
一行は『血祭』の構成員たちに囲まれたまま、山頂へ向かって歩き続けた。
第四城区の城へ近づくと、周囲の雰囲気はさらに不気味になった。
灰黒色の高塔が、すぐ目の前にそびえている。
塔の壁には細長い窓がいくつか開けられ、中から暗い赤色の光が漏れていた。
鉱山では、まだ何人かの鉱夫たちが働いている。
これほど大勢の人間がやって来たことに気づくと、皆、作業の手を止め、遠くからこちらを窺い始めた。
やがて城の大扉が、ゆっくりと開いた。
中から十数人の吸血鬼が姿を現す。
先頭に立っていたのは、『血祭』四鬼だった。
ワイト。
グルン。
セル。
そしてライド。
アーガを見た瞬間、ライドの目つきが明らかに変わった。
「お前だったか」
その声が、次第に冷たくなる。
「よくも再び戻ってこられたものだな」
アーガは答えなかった。
懐から一発の信号弾を取り出し、迷うことなく作動させる。
轟音が響いた。
赤い光が一瞬で夜空へ駆け上がり、第四城区の上空で激しく炸裂した。
鉱山にいた者たちが一斉に騒ぎ始めた。
さらに多くの鉱夫や労働者、『血祭』の構成員たちが、こちらへ目を向ける。
恐怖から後ずさる者もいた。
一方で好奇心を抑えられず、少しずつ周囲へ集まってくる者もいた。
最初、監督役の者たちは人々を追い払おうとした。
しかし集まる人数は増え続け、やがて止めることができなくなった。
僅かな時間のうちに、城の前には大勢の人間が集まった。
ライドの顔が、次第に険しくなっていく。
「お前、一体何をするつもりだ?」
アーガは増え続ける群衆を見回し、使用済みの信号弾をゆっくりと下ろした。
「これで役者は揃った」
吸血鬼たちを見る。
次に周囲にいる『血祭』の構成員、鉱夫たち、そして医者が連れてきた生存者たちへ目を向けた。
「それでは、この巨大な陰謀を暴くとしよう」
その言葉が落ちた瞬間、周囲に激しいざわめきが広がった。
「陰謀?」
「今、何と言った?」
「吸血鬼女王の正体を暴くつもりなのか?」
「正気じゃない……」
医者が連れてきた十数人も、緊張で顔を青ざめさせていた。
それでも誰一人として後ろへ退かなかった。
ティアはアーガの隣に立ち、指を強く握り締めている。
その目だけは一度も逸らさず、真っ直ぐライドを見つめていた。
ライドの表情に、ついに僅かな動揺が浮かんだ。
その動揺はすぐに押し隠された。
しかしアーガは、確かに見逃さなかった。




