第216話 嵐の湖
夕方、アーガは第三城区の通りに立ち、行き交う人々を長い間黙って見つめていた。ティアはずっと隣に立っていたが、急かすことはせず、ただ静かに付き添っていた。
アーガは彼女へ目を落とし、不意に声を掛けた。
「ティア」
「うん?」
少し疲れた様子の顔を見つめ、アーガは声を和らげた。
「ありがとう」
ティアは目を瞬かせた。
「何が?」
「今日一日、ずっとそばにいてくれただろう」
アーガは少し間を置いた。
「お前だって辛いはずなのに、それでも一日中付き合ってくれた」
ティアは顔を伏せ、指先で服の裾を軽く握った。
「私……人を慰めるのは、あまり得意じゃないから」
しばらくして、アーガは再び口を開いた。
「昨夜、お前は俺に力が欲しいと言った。あの問いにどう答えるべきか、まだ考えられていない」
「でも少なくとも今日は、お前の方が先に、俺へもう少し前へ進むための力をくれた」
ティアは顔を上げ、僅かに目を見開いた。
アーガは彼女へ笑いかけたが、その笑顔には疲労が滲んでいた。
ティアは彼を見つめるうちに、目元を赤くした。何も言わず一歩前へ出ると、アーガの肩へそっと腕を回す。
アーガは僅かに驚いた。
ティアは顔を彼の肩へ寄せ、小さな声で言った。
「アーガも悲しいんでしょう?」
「それなのに昨日は、先に私を慰めてくれた」
「どうすればアーガが元気になってくれるのか、私には分からなかったから……ただ、そばにいることしかできなかったの」
アーガは彼女へ目を落とした。
その瞬間、ずっと胸の奥へ重くのしかかっていた感情が、ようやく少しだけ緩んだように感じられた。
小さく笑う。
しかし同時に、目から涙が零れ落ちた。
ティアは片手を上げ、慎重にその涙を拭った。
「大丈夫だよ」
アーガは一度目を閉じ、ゆっくりと感情を整えた。
「ああ。大丈夫だ」
再び顔を上げ、遠くの通りを見つめる。
これまで、いくつもの困難を乗り越えてきた。
今回も同じだ。
ここで立ち止まるわけにはいかない。すべてを、このまま終わらせることもできない。
今、自分が諦めてしまえば、本当にすべてがここで終わってしまう。
アーガは深く息を吸い、もう一度第三城区の周辺を歩き始めた。ティアは何も尋ねず、そのまま隣についていく。
しばらく歩くうちに、アーガの眼差しは少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「行こう」
「どこへ?」
「もう一度、第二城区を調べる」
ティアの顔から僅かに血の気が引いた。
彼女にとって、第二城区はすでに悪夢そのもののような場所だった。
それでも一瞬足を止めただけで、静かに頷いた。
「うん」
二人は再び第二城区へ戻った。
ここには相変わらず何の音もなかった。通りは空っぽで、家々の扉は開いたままのものもあれば、閉ざされたものもある。死者たちは今も室内へ残され、空気にはすでに薄い腐敗臭が混じり始めていた。
道中、ティアの顔色はずっと悪かった。
アーガは彼女を家の中へ入れず、通りで待つように言い、自分だけで室内を調べた。
最初のうちは、特に新しい異変は見つからなかった。遺体の状態も以前と変わらず、目立った外傷はない。街の外側や通りの入り口付近で死んでいた者の多くには、首筋へ二つの血の穴が残っていた。
しかし二人がさらに街の奥へ進むにつれ、アーガはある変化に気づいた。
第二城区の中心部へ近づくほど、遺体の首筋に残された血の穴が少なくなっている。
さらに奥では、吸血鬼に噛まれた痕跡がまったく見当たらない者まで増えていた。
「酷い……動物まで死んでいる」
ティアは一軒の家の外に置かれた鳥籠を見つめ、無意識にアーガの袖を掴んだ。
籠の底には、すでに硬くなった小鳥が倒れている。その身体にも、傷らしいものは一切なかった。
アーガは一度それを見て、僅かに首を振った。それからさらに先へ進み、何軒かの家の扉を開けた。
結果はどこも同じだった。
アーガは一軒の入り口に立ち、周囲の住宅街を見回した。
近くに並んでいるのは、ほとんどが背の低い家ばかりだった。高くても二階建てで、一階ごとの高さもそれほどない。
「どうして、この辺りにはもっと高い建物がないんだ?」
「前に泊まった宿も同じだった」
「昔はあったの」
ティアが答えた。
「でも吸血鬼がこの街を支配するようになってから、住民も旅人もどんどん減っていった。それで高い建物の多くは取り壊されたの」
「今は二階建てが一番高くて、それもかなり低いものばかりよ」
アーガは頷き、夕日が窓から差し込む光を頼りに、もう一度ベッドの上の遺体を見た。
すぐに違和感へ気づく。
「顔色が暗い紫色だ」
ティアも入り口から室内を覗いた。
「本当だ……」
アーガは、身体に血の穴がない死者たちを見つめた。
「白くない」
「昨日は暗すぎて、まったく分からなかった」
ティアも眉を寄せる。
「今見てみると、本当に白くないね」
アーガは再び考え込んだ。
本当に吸血鬼女王が自ら街を皆殺しにしたのなら、なぜ第一城区と第二城区だけを襲ったのか。
なぜ第三城区には、何の被害もなかったのか。
彼は第二城区の湖畔に沿って、ゆっくりと歩き始めた。
しばらく進んだところで、不意に足を止める。
ティアも続けて立ち止まった。
「どうしたの?」
アーガはすぐには答えず、目の前に広がる湖を見つめていた。
第二城区は、楕円形の小湖の南側に面している。昼間なら、ここから美しい水面の景色が見えるはずだった。
しかし今の湖面は暗いだけでなく、酷く濁っていた。
水際には湿った泥の岸が広く露出し、本来なら水中へ沈んでいるはずの場所まで、すべて空気に晒されている。
アーガはゆっくりと眉を寄せた。
初めて嵐湾城へ来たとき、湖はこんな状態ではなかった。
「ティア」
「うん?」
アーガは湖岸を指差した。
「湖の水位は、元からこの高さだったのか?」
ティアは指差された方角へ視線を向けた。
最初は何を聞かれているのか分からない様子だったが、しばらく岸辺を見つめているうちに、その顔色が少しずつ変わっていった。
「違う」
急いで岸へ近づき、露出した地面を注意深く見る。
「元はこんな状態じゃなかった」
「どれくらい違う?」
ティアは記憶を辿り、苔に覆われた石段の一つを指差した。
「前は、あそこまで水があったはず」
「今より少なくとも二メートル以上は高かった」
アーガの目つきが一瞬で変わった。
「二メートル以上?」
「うん。それに元の湖水は澄んでいた。こんなに濁ってはいなかったよ」
アーガはその場へしゃがみ込み、岸辺の泥へ手を触れた。
泥は今も濡れている。
まるで湖水が引いたばかりのようだった。
続いて水面を見る。
濁った水の中には細かな黒い沈殿物が混ざり、湖底全体が何かに激しく掻き回されたように見えた。
アーガはゆっくりと立ち上がった。
まず目の前にある楕円形の小湖を見つめ、次に第三城区の方角へ顔を向ける。
第三城区は琥珀長湖の左側にあり、第一城区や第二城区との間には、それほど高くない小山が横たわっている。
そして第一城区と第二城区は、目の前にある楕円形の小湖によって南北へ分けられていた。
アーガの目に、次第に強い光が戻ってくる。
嵐湾城の地形が、頭の中で改めて組み上がっていった。
山の上にある第四城区。
山の下にある小山。
楕円形の小湖。
第一城区、第二城区、第三城区は、一見すると湖や山によって自然に隔てられているように見える。
しかし湖の水位が、突然二メートル以上も下がったのだとすれば――
そこまで考えた瞬間、アーガの瞳に宿る光がさらに強くなった。
不意に笑みを浮かべる。
ティアは驚いたように彼を見た。
「アーガ?」
アーガは湖面を見つめ、続いて第三城区を隔てる小山へ目を向けた。
その口元が、少しずつ持ち上がっていく。
喜びから浮かべた笑みではない。
ようやく手掛かりを掴んだ者の笑みだった。
「ティア」
「うん?」
アーガは低い声で言った。
「もしかすると、吸血鬼女王なんて最初から存在しないのかもしれない」
ティアは大きく目を見開いた。
「え?」
アーガは明らかに水位が下がった湖を見つめた。
その目は、すでに完全な冷静さを取り戻していた。
「少なくとも、奴らが話しているような吸血鬼女王ではない」
顔を上げ、小山と湖が接する遠くの暗がりへ目を向ける。
「これは吸血鬼女王の仕業じゃない」
「少なくとも、今回の皆殺しはまったく別の原因で起きた」
ティアは僅かに息を呑んだ。
アーガは続ける。
「吸血鬼女王という存在そのものが、『血祭』と吸血鬼たちによって作り上げられた恐怖なのかもしれない」
ティアは彼の隣に立ち、長い間何も言わなかった。
湖面から風が吹きつけ、濁った水が露出した泥の岸へ絶え間なく打ち寄せている。
アーガは目の前に広がる湖を見つめた。
一度深く沈んでいた心が、ようやく再び動き始めていた。




