第215話 失意のアーガ
翌日の早朝、アーガはティアを連れて第三城区へ向かった。
第三城区は、第一城区や第二城区とはまるで違っていた。
ここにはまだ人がいる。街全体を重苦しい空気が覆い、多くの店は扉を半分しか開けておらず、通行人も意識して声を潜めていた。それでも足音があり、馬車の走る音があり、慌ただしく買い物をする人々の姿もあった。
死のような静寂に包まれた第一城区や第二城区と比べると、第三城区の光景はかえって現実味がないほどだった。
アーガは通りで足を止めず、昨夜訪れた診療所へ真っ直ぐ向かった。診療所の扉は今も固く閉ざされている。
彼が扉を叩くと、しばらくして中から医者の緊張した声が聞こえてきた。
「誰だ?」
「俺だ」
扉の向こうが一瞬静かになったあと、医者は僅かに隙間を開けた。外に立っているのがアーガだと分かると、その顔を引きつらせ、慌てて扉を大きく開く。
「容体はもう安定している! 本当だ、安定しているぞ。決して手を抜いたわけじゃない!」
アーガは医者の慌てた様子を気に留めず、そのまま診療所へ入った。
リナは病床に横たわっていた。
すでに意識を取り戻している。顔色は今も青白く、身体も明らかに回復しきってはいなかったが、少なくとも目は開いており、呼吸も昨日より遥かに安定していた。
アーガが入ってきたことに気づくと、リナの瞳にすぐ喜びが浮かび、身体を起こそうとした。
「アーガ様」
アーガは急いでそばへ歩み寄り、肩を押さえた。
「動くな」
リナは僅かに目を見開いたが、すぐに大人しく横になった。ただアーガを見つめる目には、まだ心配の色が残っている。
「アーガ様は、ご無事なのですか?」
こうして普通に話すリナの姿を見て、アーガの心もようやく少し軽くなった。病床のそばへ腰を下ろし、彼女の額へ手を当てる。熱がないことを確認してから、僅かに安堵の息を吐いた。
「俺は大丈夫だ」
リナはアーガの傷を見つめた。明らかにその言葉を完全には信じていなかったが、すぐに指摘することはせず、低い声で言った。
「またアーガ様へご迷惑を掛けてしまいました」
「そんなことはない。目を覚ましてくれただけでいい」
そう答えたものの、アーガの表情からはすぐに安堵が消えていった。
リナもその変化に気づき、僅かに目を揺らした。
「アーガ様、何かあったのですか?」
アーガはしばらく黙った。
目を覚ましたばかりのリナに、これ以上心配を掛けたくはなかった。しかし隠し通せることでもない。
「アイラとイータが捕まった」
リナの顔色が一瞬で変わった。
「何ですって?」
アーガは声を落として説明した。
「昨日、二人は『血祭』の者たちを引きつける役目を引き受けた。そのあとから、ずっと戻ってきていない。まだ居場所は突き止めていないが、おそらく『血祭』か吸血鬼の手に落ちた」
リナは身体を支え、起き上がろうとした。
「それなら、私も――」
「今のお前は、どこにも行けない」
アーガは再び肩を押さえた。口調は強くなかったが、明確に拒絶していた。
「血を失いすぎて、ようやく状態が安定したばかりだ。医者も、今は自由に動かしてはいけないと言っている。お前は休んでいろ。残りは俺が方法を考える」
リナはアーガを見つめ、布団を掴む指へ少しずつ力を込めた。明らかに納得してはいなかったが、今の身体では何の役にも立てないことを、自分でも理解していた。
長い沈黙のあと、リナはようやく小さな声で言った。
「アーガ様、どうかお気をつけください」
「ああ」
アーガは立ち上がった。
ティアはずっと近くへ立ち、ほとんど口を開かなかった。リナが目を覚ましたことには安心したようだったが、ティルの死が今も心へ重くのしかかっており、その表情は沈んだままだった。
アーガは医者へ引き続きリナの世話をするよう念を押し、さらに少し金を渡した。
医者は慌てて何度も頷く。
「分かっている、分かっているとも! 必ずきちんと面倒を見る。無理に動きさえしなければ、回復も早くなるはずだ」
アーガは医者を一度見た。
「この子に何かあれば、またお前を訪ねる」
医者は顔を青ざめさせ、さらに激しく頷いた。
アーガはそれ以上何も言わず、診療所を出た。ティアも黙ってあとへ続く。
第三城区の通りには、大勢の人々が行き交っていた。
誰かが声を潜めて第一城区と第二城区のことを話している。あちらにはもう近づけない、街中の人間が全員死んだらしいと囁く者もいた。第四城区について話す者もおり、『血祭』の者たちが今日は普段以上に荒れていて、逃げた何者かを捜しているらしいと言っていた。
そうした声がアーガのそばを流れていく。
確かに耳へは届いていたが、意識の中へはほとんど入ってこなかった。
ティアは彼の後ろをしばらく歩いたあと、ついに我慢できず尋ねた。
「アーガ、何か手掛かりはあるの?」
アーガは僅かに足を止めた。
前方の通りを見つめ、しばらくしてから答える。
「分からないな」
ティアは僅かに目を見開いた。
アーガは顔を伏せ、足元に落ちていた小石を軽く蹴った。石は何度か地面を転がり、壁際へぶつかって止まる。
「俺も少し、怖くなってきた」
その声は平静だった。
しかしティアには、それが何気なく口にした言葉ではないと分かった。
「今まで俺は、まるで自分なら必ず解決できるようなことを色々言ってきた。でも本当は、どうすればいいのかなんて俺にも分からない」
アーガは通りを歩く人々へ目を向けた。
今も必死に日々を生きようとしている者がいる。何も変わっていないふりをして、生活を続けようとしている者もいる。
しかし第一城区と第二城区はすでに死んだ。
リナは辛うじて死の淵から引き戻されたばかりで、アイラとイータがどこに囚われているのかも分からない。第四城区には『血祭』四鬼と吸血鬼女王までいる。
考えれば考えるほど、目の前には頂上さえ見えない巨大な壁が立ちはだかっているように感じられた。
「敵が一体どれだけいるのかさえ分からない」
アーガは低い声で続ける。
「あの吸血鬼女王が、一体どんな存在なのかも分からない」
「今、何をすればいいのかも分からない」
ティアは何も言わなかった。
ただアーガの隣に立ち、そのまま一緒に歩き始めた。
通りには今も大勢の人がいる。それでもアーガだけは、周囲の音との間を何かで隔てられているようだった。
時折足を止めて通行人たちの会話を聞き、また歩き出す。
『血祭』が今日は第三城区の外で、いつもより厳しい検問を行っているという話があった。第四城区へ新しい鉱夫たちが連行されたらしいという話も聞こえた。昨夜、第一城区と第二城区であまりにも多くの人が死んだため、第三城区からも逃げようとしている者がいるという噂もあった。
どの情報も断片的で、アイラとイータの救出へ直接繋がるものは一つもなかった。
しばらく歩いたところで、ティアが不意に一歩近づき、そっとアーガの手を握った。
アーガは僅かに驚き、彼女を見下ろした。
「どうした?」
ティアはアーガの顔を見ず、ただ手を握ったまま小さな声で答えた。
「アーガが……すごく落ち込んでいるように見えたから」
アーガは彼女を見つめた。
「そう見えるか?」
「見える」
ティアは頷いた。
「さっきからずっと前へ歩いているのに、目は道を見ていなかった」
アーガはしばらく黙った。
自分は大丈夫だと言おうとしたが、口に出す直前で、そんな嘘をつく必要もないと思った。
ティアもそれ以上何も尋ねなかった。ただアーガの手を握ったまま、その隣を歩き続ける。
アーガも手を振りほどかなかった。
二人はそのまま、長い間第三城区の通りを歩いた。
昼頃になり、ティアはようやく一軒の小さな食堂の前で足を止めた。
「少し何か食べよう」
アーガは店を見た。
「あまり腹は減っていない」
ティアは僅かに眉を寄せた。
「昨日怪我をしたうえ、リナお姉ちゃんに血も分けたでしょう。今朝だって、ほとんど何も食べていないじゃない」
アーガは大丈夫だと言おうとしたが、ティアはすでに手を引いて店の中へ入っていた。
食堂の客はそれほど多くなかった。
店主も街を覆う不安の影響を受けているようで、声を潜め、普段よりも素早く動いていた。まるで客を少しでも早く帰したいかのようだった。
ティアは温かいスープを二人分と、柔らかいパンを一皿注文した。
料理が運ばれてきても、アーガはスプーンを持ったまま、ほとんど口へ運ぼうとしなかった。視線を机の上へ落とし、また別のことを考えているようだった。
ティアはそんな彼を見つめ、少し迷ったあと、パンを一口分だけ千切った。温かいスープへ浸し、そのままアーガの口元へ差し出す。
アーガは考え事に集中していた。
その行動が何を意味するのかさえ意識せず、ごく自然に顔を下げてパンを食べた。
今度はティアが動きを止めた。
少しでも食べさせようと試してみただけだったのに、アーガが本当に、しかもあまりにも自然に食べたからだ。
ティアの頬が僅かに赤くなった。
しかしアーガが依然として思い詰めた様子をしているのを見ると、すぐに胸が苦しくなった。
彼女はもう一切れパンを手に取った。
「もう少し食べて」
そこでアーガはようやく我に返ったように、ティアへ目を向けた。
ティアはパンを差し出した姿勢のまま、手を空中で止めている。引っ込めるべきか、そのまま食べさせるべきか分からない様子だった。
アーガはしばらく彼女を見たあと、再び顔を寄せてパンを食べた。
「ありがとう」
ティアは小さく安堵の息を吐いた。
それ以上何も言わず、パンを食べやすい大きさへ千切り、一つずつアーガへ差し出していく。
アーガが食べた量は決して多くなかったが、それでも先ほどまでよりはましだった。
食堂の外では、第三城区の人々が今も慌ただしく行き交っていた。
街を出る準備のために保存食を買い込む者がいる。街角では友人同士が、嵐湾城から逃げるべきかどうか声を潜めて言い争っていた。母親に手を引かれた子供が一度アーガたちを振り返ったが、すぐに連れていかれた。
ティアはそんな人々を見つめ、不意に小さな声で言った。
「第三城区は、まだ生きている」
アーガが目を上げた。
ティアは顔を伏せたまま、静かに続ける。
「第一城区と第二城区は、もうなくなってしまった。でも第三城区はまだ生きている。リナお姉ちゃんも生きている。アイラとイータだって、きっと生きているよ」
アーガは何も言わなかった。
「今こんなことを言っても、あまり意味はないかもしれないけど……まだ生きている人がいるなら、全部が終わったわけじゃないよね」
アーガはしばらくティアを見つめたあと、静かに頷いた。
「ああ」
「まだ終わっていない」
食事を終えたあと、二人は午後も第三城区を歩き続けた。
明確な目的地があったわけではない。
アーガはより多くの情報を集めると同時に、『血祭』が第三城区でも活動している痕跡がないか確かめようとしていた。ティアはずっと彼のそばにおり、時折店主へ代わりに質問し、人通りの少ない道や、湖沿いから巡回を避けやすい場所を教えた。
アーガは相変わらず、ほとんど口を開かなかった。
それでもティアは離れなかった。
ただずっと隣を歩き続けた。
昨夜、恐怖で眠れなかったティアを、アーガが一人にしなかったように。
今度はアーガが失意の中で進むべき道を見失っていたから、ティアも彼を一人で歩かせなかった。
夕方になると、第三城区の通りにも緊張が広がり始めた。
人々は次々と家へ急ぎ、店も一軒ずつ扉を閉ざしていく。
それでもここには人の声があった。
扉を閉める音があり、大人が子供へ早く家に入るよう促す声も聞こえていた。
ティアはアーガの隣に立ち、通りが少しずつ暗くなっていく様子を見つめた。
「夜は第二城区へ戻るの?」
アーガはしばらく黙った。
第二城区には、もう生きている者はいない。
あそこにあるのは、ティルの遺体と、空っぽになった家々、そして昨夜二人の胸を押し潰しそうになった死の静寂だけだった。
それでもティルは、まだそこにいる。
ティアの家も、そこにある。
アーガは低い声で答えた。
「まず診療所へ戻って、リナの様子を見よう」
ティアは頷いた。
「うん」
二人は向きを変え、診療所の方角へ歩き始めた。
琥珀長湖の方角から夕日が差し込み、通りを淡い金色へ染めている。
アーガが前を歩き、ティアはそのすぐ隣を歩いていた。
もう手を繋いではいなかった。
それでも二人の距離は、朝よりも少し近くなっていた。
アーガは今も、どうすればアイラとイータを救えるのか分からない。
吸血鬼女王と、どう向き合えばよいのかも分からなかった。
それでも少なくとも今日一日、ティアはずっと彼のそばにいた。
最も落ち込んでいるときに、無理に事情を聞こうとも、今すぐ立ち直れとも言わなかった。
ただ静かに第三城区の通りを一緒に歩き、一緒に食事をして、夕方が訪れるまで隣にいてくれた。




