第212話 吸血鬼女王
夕暮れの光が、少しずつ沈んでいった。
アーガはリナを背負い、ティアのあとを追って再び嵐湾城へ近づいていく。遠くには第一城区と第二城区が変わらず湖畔に立ち並び、湖面には暗い金色の残光が浮かんでいた。城壁や屋根、橋の影も水面へ映り込んでいる。
遠くから眺めるだけなら、この街は彼らが初めて訪れた日と何も変わらなかった。巨大で、静かで、美しい街だった。
しかし近づけば近づくほど、アーガは異変を感じた。
静かすぎる。
夜になり、人々が家へ戻ったあとに残る静けさではなかった。もっと深く、冷たく、空虚な死の静寂だった。
家々に灯されている明かりさえ、異常なほど少ない。
ティアの足取りも次第に遅くなった。街へ続く道の前で立ち止まり、人影のない通りを見つめるうちに、その顔から少しずつ血の気が引いていく。
「どうして……」
アーガも足を止めた。背中のリナは今も意識を失っており、呼吸は今にも消えてしまいそうなほど弱い。
アーガは第一城区を見たあと、第二城区へ顔を向けた。
通りには誰一人いなかった。
まだ完全に夜になったわけではない。本来なら店は開いているはずで、帰宅しようとしている者がいたとしても、全員が一瞬で姿を消すことなどあり得ない。
それなのに目の前の街からは、何者かによってすべての音が消し去られていた。
「アーガ……」
ティアは唾を呑み込み、震える声で呼びかけた。
「気をつけろ」
ティアは頷いた。
二人は大通りを避け、第二城区に近い細い道から慎重に街へ入っていった。
奥へ進むほど、不安はますます強くなった。
通りの露店はそのまま残され、中には商品を片づける途中だったと思われる店もある。果物を売っていた露店のそばでは籠が地面へ倒れ、転がった果実のいくつかが道端で無残に踏み潰されていた。
近くの木製の椅子も横倒しになっている。店主が慌てて立ち上がり、そのまま二度と戻らなかったかのようだった。
少し離れた場所では、一軒の家の扉が半分開いている。
通りを風が吹き抜け、扉がゆっくりと揺れた。
ギィ……。
突然響いた音に、ティアの身体がびくりと震えた。
アーガは扉の前まで歩き、片手で軽く叩いた。
「誰かいるか?」
返事はなかった。
もう一度叩いてみたが、家の中からは何の音も聞こえてこない。
アーガは眉を寄せ、ゆっくりと扉を押した。
鍵は掛かっていなかった。
家の中は薄暗い。
ティアは入り口に立ったまま、すぐには中へ入ろうとしなかった。
アーガはリナを背負ったまま、先に室内を覗き込む。
次の瞬間、その目が一気に険しくなった。
床に二人の人間が倒れていた。
一人は老人で、もう一人は中年の女だった。
二人は食卓のそばで倒れている。机の上には食べかけの夕食が残され、食器は床へ散乱していた。蝋燭の火はとっくに消え、固まった蝋だけが机の端から垂れている。
ティアも二人の姿を見つけた。
その顔から一瞬で血の気が失われる。
「あの人たち……」
アーガはリナを入り口のそばへ慎重に下ろし、壁へ寄りかからせた。それから足早に室内へ入り、二人のそばへしゃがみ込んで状態を確認する。
呼吸はない。
心臓も動いていなかった。
アーガは二人の身体を調べた。
目立った外傷はなく、服も大きく破れてはいない。しかし二人の顔は異様なほど青白く、皮膚は冷え切り、身体の中から何かを完全に吸い尽くされたように見えた。
アーガの視線が、中年の女の首筋で止まる。
そこには二つの小さな穴が開いていた。
傷は深く、鋭い牙を突き立てられたような形をしている。
アーガの指が止まった。
「噛まれている」
入り口に立つティアの身体は、抑えようとしても止められないほど震えていた。
アーガは老人の身体も確認した。
同じだった。
首筋には同じように二つの小さな穴が開いており、それ以外の傷はない。
身体中の血を、すべて吸い尽くされている。
アーガはゆっくりと立ち上がった。
その表情は、これ以上ないほど険しくなっていた。
「行くぞ」
しかしティアには聞こえていないようだった。室内にある二つの遺体を呆然と見つめ、唇を小さく震わせているが、声は出てこない。
アーガは彼女の前まで歩き、肩へ手を置いた。
「ティア」
ティアはそこでようやく我に返ったように顔を上げた。その目には、はっきりとした恐怖が浮かんでいる。
「違う……」
小さな声で呟いた。
「また、あれが起きたなんて……」
アーガは何も答えなかった。
リナを再び背負い、ティアとともに隣の家へ向かった。
その家の扉にも鍵は掛かっていなかった。
扉を開けても、中から声は聞こえない。
室内には三人が倒れていた。
一人の男は扉の前で倒れ、身体は外へ向かって這おうとした姿勢のまま止まっている。逃げ出そうとしたものの、扉を開くより先に力尽きたようだった。
壁際では、一人の女が子供を抱いたまま倒れている。
子供の手は、今も母親の服を強く掴んでいた。
ティアは片手で口を覆い、目から一気に涙を溢れさせた。
アーガは家へ入り、三人を確認した。
やはり同じだった。
目立つ傷はなく、顔は青白い。首筋には二つの小さな穴が残されている。
続いて三軒目へ向かった。
四軒目にも入った。
どの家も同じだった。
生きている者はいない。
ベッドのそばで倒れている者もいれば、机の下へ身を隠したまま死んでいる者もいた。戸棚の中へ逃げ込んだ者さえ、死から逃れることはできていなかった。
家の中に激しく争った痕跡はなく、大規模な戦闘による破壊も見当たらない。
まるで何者かが音もなく一軒ずつ家へ侵入し、中にいた者たちの命を簡単に奪っていったかのようだった。
第二城区全体が、一夜のうちに死んでしまったように見えた。
ティアはついに耐えられなくなった。
誰もいない通りの中央で両手を頭へ当て、胸が引き裂かれるような声で叫んだ。
「吸血鬼女王がまた来た!」
その声は、通りの間を何度も反響した。
しかし誰も答えない。
窓を開ける者もいなければ、静かにしろと注意する者もいなかった。
この街からは、すでにすべての音が失われていた。
ティアはその場へ膝をつき、涙を流し続けた。
「どうして……」
「どうして、またこんなことを……」
「もうあんなに大勢死んだのに……」
「どうして、また来るの……」
アーガは彼女のそばに立っていた。
背中のリナは、今にも枯れ落ちそうな一枚の葉のように軽い。
口を開いたが、何を言えばよいのか分からなかった。
目の前で起きていることは、数言の慰めで和らげられるようなものではない。
そのとき、アーガは昨夜、旧鉱道の外まで追ってきたライドが口にした言葉を思い出した。
『吸血鬼女王様を怒らせないように気をつけるんだな。そのときは、お前たち全員をまとめて殺してやる』
アーガの指へ少しずつ力が入った。
あれは、ただの脅しではなかったのか。
突然、何かを思い出したようにティアの身体が硬直した。
「お姉ちゃん……」
顔を上げる。
その顔色は、先ほどよりもさらに青白くなっていた。
「お姉ちゃんが、まだ家にいる!」
そう叫ぶと、ティアはよろめきながら立ち上がり、自宅の方角へ向かって走り出した。
アーガの胸も一気に沈んだ。
「ティア!」
リナを背負ったまま、すぐにあとを追う。
二人は人の消えた通りを駆け抜けた。道沿いの家々はどれも恐ろしいほど静まり返っている。
ティアは次第に速度を上げ、途中で何度も躓きかけたが、一度も足を止めなかった。
やがて、見慣れた小さな家へ辿り着く。
扉は閉じていた。
鍵も掛けられたままだった。
それを見た瞬間、ティアの目に僅かな希望が浮かんだ。
「お姉ちゃん……」
扉の前へ駆け寄り、力いっぱい叩く。
「お姉ちゃん! 私よ!」
返事はない。
ティアは続けて何度も扉を叩いた。
「お姉ちゃん、開けて!」
それでも家の中は死んだように静かだった。
一瞬だけ浮かんだ希望が、冷水を浴びせられたように消えていく。
ティアの手が震え始めた。
慌てて鍵を取り出したが、何度試しても鍵穴へ差し込むことができない。
「違う……」
「違うよね。お姉ちゃんは絶対に無事だから……」
「待っているって、約束してくれたから……」
アーガは彼女の後ろに立っていた。
その顔も険しく曇っている。
手を貸そうとした瞬間、ティアはようやく鍵を鍵穴へ差し込んだ。
カチッ。
鍵が開いた。
ティアは勢いよく扉を押し開け、家の中へ飛び込んだ。
「お姉ちゃん!」
室内は暗かった。
机の灯りは消えており、空気には薄い冷気が混じっている。
ティアは足早に奥の部屋へ向かった。
次の瞬間、その身体が入り口で止まった。
アーガもリナを背負ったまま、あとに続いた。
そして彼も見た。
ティルはベッドの上に横たわり、微動だにしなかった。
服装は以前と変わらず整っている。
しかしその顔からは、すべての血の気が失われていた。
身体には、どこにも傷が見当たらない。
ティアはその場へ立ち尽くした。
呼吸の仕方さえ忘れてしまったようだった。
何秒もの時間が過ぎてから、少しずつベッドへ近づいていく。
「お姉ちゃん……」
声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。
ティアはベッドのそばへ膝をつき、片手を伸ばした。
触れることを恐れているようでもあり、触れた瞬間に受け入れられない事実を確かめてしまうことを恐れているようでもあった。
それでも最後には、ティルの冷たい手を握った。
その瞬間、ティアの心は完全に崩れた。
「お姉ちゃあああん!」
ベッドへ縋りつき、胸を引き裂くような声で泣き叫ぶ。
「目を覚ましてよ!」
「私だよ、ティアだよ!」
「帰ってくるまで待っているって言ったでしょう!」
「お姉ちゃん!」
アーガは部屋の入り口に立ち、意識を失ったリナを背負ったまま、長い間動くことができなかった。
生気を失ったティルの顔を見つめる。
しかし脳裏には、つい先ほど彼女が扉のそばに立ち、「生きて帰ってきて」と告げたときの姿が浮かんでいた。
ティアの泣き声が、部屋の中へ何度も響いた。
家の外では、第一城区も第二城区も変わらず静まり返っている。
まるで街全体が、彼女とともに死んでしまったかのような静けさだった。
アーガはゆっくりと顔を伏せた。
リナの膝裏を支える指に強い力が入り、指の関節が白くなる。
その瞬間、胸の中へ今まで感じたことのない冷たい怒りが湧き上がった。
炎のように激しく燃え上がる怒りではない。
一本の刃が、ゆっくりと重く振り下ろされていくような怒りだった。
吸血鬼女王。
『血祭』。
第四城区。
この街の闇に隠れている、すべての存在。
アーガはそのすべてを決して忘れない。
ティアは今もベッドへ縋りつき、声が枯れるまで泣き続けていた。
しかしティルが、彼女へ答えることは二度となかった。




