第210話 リナの救出
「アーガ様、本当にあなたなのですね……」
アーガは足早にリナのそばへ駆け寄った。腕へ繋がれた管と、四肢を拘束する枷を見た瞬間、その眼差しが一気に冷たくなる。
「怖がらなくていい。迎えに来た」
アーガは低い声で告げた。
リナは起き上がろうとしたが、身体があまりにも弱っているうえ、枷にも動きを制限されているため、僅かに身じろぎすることしかできなかった。
「アーガ様、どうやってここへ……?」
「潜り込んだ」
答えながら、アーガは素早くリナの拘束具を確認した。先ほど気絶させた見張りから奪った鍵を取り出し、鍵穴へ差し込む。
カチッ。
最初の枷が外れ、リナの片手がようやく自由になった。アーガはすぐに腕の管も引き抜き、血が滲み続ける傷口へ布を押し当てた。
「痛むか?」
「大丈夫です」
リナは小さく首を振った。声はすでにひどく弱っていたが、それでも以前と同じように、アーガへ心配を掛けまいとしている。
その姿を見て、アーガの胸が強く痛んだ。
しかしリナは逆に、彼へ淡い笑みを向けた。
「アーガ様なら、きっと来てくださると思っていました」
アーガの手が一瞬止まったが、すぐに残りの枷を外す作業へ戻る。
「辛い思いをさせたな」
「アーガ様がご無事なら、それだけで十分です」
最後の鍵が開いた。
リナは石の寝台へ手をつき、立ち上がろうとした。しかし突然両脚から力が抜け、身体が横へ崩れ落ちる。
アーガはすぐに手を伸ばし、彼女を抱き止めた。
リナの身体には目立った外傷こそないものの、三日間にわたり血を抜かれ続けたことで、状態は酷く悪化していた。顔は青白く、指先は冷え切り、長時間枷によって抑え込まれていた魔力も大きく乱れている。
アーガは無理に歩かせようとはせず、リナへ背中を向け、石の寝台の前へしゃがみ込んだ。
「乗れ」
リナは僅かに目を見開いた。
「アーガ様、私は自分で……」
「乗れ」
声は静かだったが、相談する余地は一切なかった。
リナはしばらくその背中を見つめたあと、それ以上拒もうとはせず、慎重にアーガの背へ身体を預けた。
アーガは両手で彼女の膝裏を支え、そのまま立ち上がる。
リナは彼の肩へ顔を寄せ、低い声で言った。
「申し訳ありません、アーガ様」
「もう喋らなくていい」
アーガはリナを背負ったまま窓際へ向かい、窓を覆っていた分厚い布を捲り上げた。夜の冷たい風が一気に部屋へ吹き込み、遠くからは鉱山や山の下で続いている騒ぎの音が聞こえてくる。
残された時間は少ない。
アーガはリナの身体を背中の上で少し持ち上げた。
「しっかり掴まっていろ」
リナはすぐに腕へ力を込め、アーガの首へそっと回した。
指の間でカードが素早く反転し、窓辺へ激しい風が巻き起こる。アーガはリナを背負ったまま窓枠へ片足を掛けた。
リナは反射的に目を閉じた。
次の瞬間、二人は五階の窓から直接飛び出した。
アーガの足元へ風の流れが瞬時に広がる。赤カード4《風》の力で落下速度を抑えながら、リナを背負ったまま高塔の壁面に沿って急速に降下し、最後には塔の外に広がる最も深い影の中へ着地した。
部屋では、壊れた窓が夜風を受けて小さく揺れていた。
数呼吸ほど遅れて、廊下から慌ただしい足音が響いてくる。
「どうした?」
「誰かが逃げたぞ!」
「どこへ行った!」
『血祭』の者たちが部屋へ飛び込んできたときには、窓際にあった石の寝台はすでに空になっていた。
残されていたのは、引き抜かれた管と開かれた魔導拘束具、そして窓から絶え間なく吹き込む冷たい風だけだった。
◇ ◇ ◇
五階から降りたあとも、アーガは一瞬たりとも足を止めなかった。足元に生じた風が完全に消えるよりも先に、その残った力を利用して高塔の外にある暗がりへ駆け込んでいく。
リナは彼の背中へ伏せ、両腕をそっと首へ回していた。
その身体はあまりにも軽かった。
軽すぎることが、かえってアーガの胸を苦しくさせる。
彼は振り返らず、低い声で告げた。
「もう少しだけ耐えてくれ」
「はい……アーガ様」
リナは肩へ頬を寄せたまま答えた。声は弱々しかったが、そこには深い安堵が滲んでいた。
高塔の内部では、すでに大混乱が起きている。
「人が逃げたぞ!」
「五階の窓が壊されている!」
「早くライド様へ知らせろ!」
アーガの眼差しが鋭くなり、走る速度もさらに上がった。
ティアは、高塔の外にある放棄された石造りの小屋付近で待つと言っていた。その場所は塔から遠くないが、正面を守る見張りの視線からは外れている。ティアと合流することができれば、そのまま旧鉱道の方角へ撤退できるはずだった。
前方の石壁から、突然一人の少女が顔を覗かせた。
「アーガ!」
ティアだった。
緊張に満ちていた顔は、リナを背負ったアーガの姿を見た瞬間、ぱっと明るくなった。
「リナお姉ちゃんを助けられたの?」
「ああ」
ティアはようやく安堵の息を吐き、急いで反対側を指差した。
「こっちよ。旧鉱道はこの先にあるわ。大通りは使わないで。『血祭』の人たちは、もうそっちへ引きつけられているから」
アーガが足を踏み出そうとした、その瞬間。
ティアの表情が突然変わった。
アーガの背後へ視線を向け、その瞳が大きく収縮する。
「後ろ!」
アーガはほとんど考えることなく、身体を横へ逸らした。
直後、血色の長鞭が先ほどまで彼のいた場所を横薙ぎに通過し、そばの石壁へ激しく叩きつけられた。
轟音とともに石壁へ亀裂が走り、大量の破片が周囲へ飛び散る。
アーガはリナを背負ったまま連続して数歩後退し、その表情を一気に険しくした。
暗がりの中から、細長い人影がゆっくりと姿を現す。
蒼白な顔。
暗赤色の瞳。
そして口元には、どこか気怠げな笑みが浮かんでいた。
ライドだった。
彼はアーガを一度見たあと、その背中にいるリナへ視線を移し、さらに笑みを深くした。
「来ると思っていたぞ」
アーガは答えず、すでに指先をカードへ触れさせていた。
ライドがゆっくりと片手を上げる。指先から流れ出した血液は地面へ落ちることなく、空中で何本もの細い血の糸へ姿を変えた。
「三日も血を抜かれ続けた小娘一人のために、本当に高塔へ忍び込むとはな」
「なかなか勇気がある」
続いてリナを見る。
「だが、その娘の血は、お前が好き勝手に持ち去っていい物ではない」
リナの身体が僅かに震えた。顔を上げようとしたようだったが、すでにそれだけの力さえほとんど残されていなかった。
「動くな」
アーガが低い声で告げる。
「はい」
リナは小さく答えた。
少し離れた場所にいるティアの顔は、すでに青ざめていた。
「ライド……」
明らかに彼を恐れている。
アーガは一度ティアへ視線を向け、声を落とした。
「離れて隠れろ」
ティアは歯を食いしばり、近くの巨岩の後ろまで退いたが、そのまま逃げようとはしなかった。
アーガは再びライドへ意識を集中させる。
普段であれば、しばらくライドと渡り合うことはできたかもしれない。
ライドは戍衛級頂点に達した吸血鬼だが、アーガも変身とカードの力を使えば、ある程度は対抗できる。
しかし今の状況はまったく違う。
背中にはリナがいる。
身体は酷く衰弱しており、これ以上傷つけることはできない。激しい衝撃に耐えることさえ難しいだろう。
リナを守りながらライドと戦うことは、普段の戦闘とは難易度がまるで異なっていた。
ライドも当然、そのことへ気づいている。
「どうした?」
楽しそうに笑った。
「その娘を背負ったまま、俺と戦うつもりか?」
アーガは答えなかった。
ただゆっくりと息を吸う。
次の瞬間、魔力が激しく集まり、腰帯が手の中へ出現した。
赤カード4《風》。
黄カード2《チーター》。
青カード2《血怒化》。
緑カード2《穿刺》。
四枚のカードが順番に腰帯へ差し込まれ、眩い光を放つ。
アーガの足元から狂風が巻き起こり、チーターの紋様が瞬く間に両脚を覆った。血色の気配が体表へ一瞬浮かび上がり、次の瞬間には無理やり身体の奥へ押し込められる。続いて青色の鎧が、アーガの全身を包み込んだ。
「融合変身、気流形態二二二号!」
それまで抑え込まれていたアーガの気配が、この瞬間に完全に解放された。
ライドが僅かに眉を上げる。
「ほう?」
アーガは余計な言葉を返さなかった。
片手でリナの身体を支え、もう一方の手には《穿刺》の力で形成された緑色の長刃を握る。
足元の風が爆発した。
アーガの姿がその場から一瞬で消える。
ライドは片手を上げ、血液を盾へ変えた。
轟音が響き、緑色の長刃が血の盾へ激突する。二つの力が同時に炸裂し、激しい衝撃が周囲へ広がった。
アーガは正面から力比べをしようとはせず、衝突による反動を利用して横へ滑るように移動した。
同時に黄カード2《チーター》の速度を解放し、リナを背負ったままライドの周囲を高速で駆け始める。
最初から、ライドを倒すつもりはなかった。
この場所から離れる。
それだけが目的だ。
戦いながら、包囲を突破できる機会を見つけなければならない。
ライドはすぐにその意図へ気づいた。
「逃げるつもりか?」
指を軽く弾く。
数十個の血の粒が一斉に放たれ、赤色の弾丸の雨となってアーガの進路を完全に塞いだ。
アーガの足元で風が激しく巻き上がり、進行方向を強引に変える。
身体を地面すれすれまで傾けて横へ駆け抜け、ほとんどの血弾を回避した。
しかし数個の血弾が、なおも軌道を変えながら追ってくる。
アーガは素早く身体を反転させ、手の外側へ《穿刺》の魔力で形成した硬質の殻を纏わせた。そのまま腕を横薙ぎに振るい、迫ってきた血弾を一つずつ打ち砕く。
血弾は空中で弾け、細かな血の霧へ変わった。
ライドが指先を僅かに動かす。
すると散った血霧が再び集まり、一本の細長い血の糸となって、リナの手首へ直接伸びてきた。
アーガの目が一気に冷たくなる。
身体を強く捻り、自分の腕を血の糸の前へ差し出した。
シュッ!
血の糸が一瞬で袖を切り裂き、腕へ深い傷を刻んだ。
アーガの身体が大きく震えたことに気づき、リナの声も不安に揺れる。
「アーガ様……」
「問題ない」
アーガは歯を食いしばり、腕から伝わる激痛を無理やり押さえ込んだ。
青カード2《血怒化》の力が、すでに傷口の周囲で激しく沸騰している。
強烈な痛みは動きを鈍らせるどころか、かえって速度と反応をさらに凶暴なものへ変えた。
アーガは足元の石板を踏み砕き、《チーター》の爆発的な加速力を利用して左側へ飛び出した。
しかしライドの姿が僅かに揺れたかと思うと、再びアーガの進路へ立ちはだかる。
「こちらは通行禁止だ」
アーガは足を止めなかった。
片手で《穿刺》の斬撃を放ち、ライドはすぐに血の刃で受け止める。
だが、アーガが最初から狙っていたのはライドではなかった。
その隣にある斜面へ並べられた鉱石運搬車だ。
緑色の長刃は途中で軌道を変え、数台の運搬車を繋いでいた固定部分を一気に切断した。
支えを失った運搬車は、大量の砕石を積んだまま斜面を高速で滑り始め、轟音を立ててライドへ突っ込んでいく。
ライドは眉を寄せた。
手元の血液を長鞭へ変え、迫ってくる運搬車へ立て続けに叩きつける。
ドンッ! ドンッ! ドンッ!
運搬車が次々に砕け散り、積まれていた無数の鉱石が周囲へ飛び散った。大量の埃と粉塵が巻き上がり、視界を完全に遮る。
その一瞬を利用し、アーガはリナを背負ったまま、飛び交う砕石と煙の中を一気に駆け抜けた。
ライドは反射的に片手を上げ、目元を覆う。
再び前方が見えるようになったときには、アーガの姿はすでに遥か遠くまで離れていた。
「くそっ!」




