第21話 公演
半月後。
ラインハルト家の食卓には、最新号の『王都日報』が広げられていた。
一面の中央には、カードを手にしたアーガの写真が大きく掲載されている。
【グレイクリフ王国において、この五年間で最も注目を集める魔法系新入生――アーガ・ラインハルト、セント・ローラン中央広場にて公開演技を開催】
アイリーンは、その記事をすでに何度も読み返していた。
「王都へ行く準備は整ったの?」
「すでに手配してある」
アルドリックは手にしていた書類を閉じた。
「明日の朝一番に出発する。王都街道を通れば、午後までにはセント・ローランへ到着できるだろう」
アイリーンは、ティーカップの縁を指先でそっとなぞった。
「あの子、もう半月も帰ってきていないのね。最近、どうしているのかしら」
「グルバート家が住居と指導者を用意しているのだ。少なくとも、衣食に困ることはないだろう」
アルドリックは、そばに座っているノエルへ視線を向けた。
「本当に行かないのか?」
ティーカップを持つノエルの手が、わずかに止まった。
「学院は明後日から始まる。先に寮へ行って、荷物を整理しておきたいんだ」
「弟の初めての公開演技よ」
アイリーンが言った。
「本当に、見に行かなくていいの?」
ノエルはしばらく黙っていたが、やがて首を横に振った。
「もう友達と約束しているから」
そう言ってカップを置き、席を立って食堂を出ていった。
翌朝。
ラインハルト家の馬車は、すでに屋敷の中央へ停められていた。
厚手の外套を羽織ったアルドリックは、鉱山と領地の管理について家令へ指示を出している。
一方、アイリーンは用意した荷物を、侍女たちに馬車へ積ませていた。
道中、アイリーンはふと何かを思い出した。
「アーガの好きなクリームパンを持ってくるのを忘れたわ」
「王都で手に入らない物など、ほとんどないだろう」
アルドリックは、妻の手を軽く叩いた。
「着いたら、あの小僧自身に店まで案内させればいい」
窓の外へ目を向ける。
麦畑が、馬車の後方へ次々と流れていった。
「それより、あの子がこの半月で、どれほどのことを身につけたのか見てみたいものだ」
◇ ◇ ◇
セント・ローランの中央広場は、すでに大勢の人々で埋め尽くされていた。
多くの観客が『王都日報』を手にし、席を探しながらアーガの記事について話し合っている。
「まだ七歳なんだろ?」
「新聞には、もう十五枚の基礎カードを使えると書いてあったぞ」
「聖イース学院の生徒から聞いたんだが、入学試験では一人で百個の木製標的を破壊したらしい」
広場の中央には、巨大な円形舞台が設置されていた。
舞台の周囲には、さまざまな種類の標的が並べられている。
通常の木製標的だけではない。
空中を移動する浮遊標的や、魔法で強化された金属製の標的も用意されていた。
職員たちは、最後の点検を進めている。
舞台の外側では、数十人の護衛が警戒線を築いていた。
広場を囲む建物の窓にも、大勢の人々が集まっている。
屋上まで、臨時の観覧席として開放されていた。
ロイスは舞台の脇に立ち、人員と設備の配置を何度も確認していた。
その視線が、時折、貴賓席へ向けられる。
そこには王都の貴族や魔法協会の関係者だけでなく、素性の知れない数人の外国人も座っていた。
服装は目立たないものだったが、その雰囲気は明らかに一般の観客とは異なっている。
(やはり、近隣諸国の者も来たか)
今回の公演が集めた注目は、グルバート家の当初の予想を大きく上回っていた。
ロイスは、舞台裏を隠す幕を持ち上げた。
中では、アーガが自分のカードケースを確認している。
身につけているのは、グルバート家が用意した黒い訓練服だった。
布地の内部には、細かな魔法回路が織り込まれている。
術式を使用した際、身体へかかる負担をある程度軽減する装備だった。
「公演終了後には、我々の独占取材を受けていただきます」
ロイスが念を押した。
「覚えています」
アーガは深く息を吸った。
幕の向こうから、絶え間なく観客のざわめきが聞こえてくる。
「僕が失敗しないと、そんなに確信しているんですか?」
「確信はしていません」
ロイスは、あまりにもあっさりと答えた。
「ですが、何か問題が起きた場合に備え、別の対応策も準備しています」
アーガが振り返ると、ロイスは一言付け加えた。
「もちろん、今日は使う必要がないと信じていますが」
ロイスは懐中時計を取り出し、時刻を確認した。
「時間です」
舞台周辺の護衛たちへ向き直る。
「全員、警戒配置に就きなさい」
数十人の護衛が素早く散開した。
舞台と観客席の間が、完全に分断される。
広場に響いていた人々の声も、次第に一つの言葉へまとまっていった。
「アーガ!」
「アーガ!」
「アーガ!」
呼び声は波のように何度も押し寄せ、舞台裏の幕を震わせるほど大きくなっていく。
深紅色の幕が、ゆっくりと左右へ開かれた。
眩しい陽射しが、一気に舞台裏へ流れ込んでくる。
アーガは反射的に目を細めた。
光に目が慣れると、最初に見えたのは、果てが見えないほどの人波だった。
広場の隅々まで、観客で埋め尽くされている。
アーガは最前列の貴賓席へ視線を走らせた。
すぐに、見慣れた顔をいくつか見つける。
アルドリックが座っていた。
その大きな身体は、周囲の人々の中でもひときわ目立っている。
アイリーンはすでに立ち上がり、アーガへ向かって懸命に手を振っていた。
そして二人の隣には、ノエルも座っていた。
母親のように手を振ることはなかったが、その目はずっと舞台の中央へ向けられている。
(父さん、母さん……)
震えていたアーガの指先が、少しずつ落ち着きを取り戻した。
舞台裏から歩き出し、中央に描かれた魔法陣の上へ立つ。
司会者の声が拡声術式によって、広場全体へ響き渡った。
「ご来場の皆様!」
「本日はセント・ローラン中央広場へお越しいただき、誠にありがとうございます!」
「これより、グレイクリフ王国の新たな世代を担う魔導師による、初めての公開演技をご覧いただきます!」
アーガはカードケースを開き、中から一束のカードを取り出した。
カードの紋様に沿って、色の異なる魔力の光がゆっくりと輝き始める。
広場のざわめきが、次第に消えていった。
すべての視線が、アーガ一人へ集中する。
司会者は右手を高く掲げた。
「それでは、ただいまより――」
「公開演技を開始いたします!」
アーガは舞台中央に立っていた。
耳を打つような歓声が、薄い膜を一枚隔てた向こう側から聞こえてくるように感じられる。
指先は、まだわずかに震えていた。
しかし、その視線がもう一度貴賓席へ向かう。
アルドリックは背筋を伸ばし、両手を膝へ置いていた。
表情だけを見れば落ち着いている。
だが、その視線は一度も舞台から離れていなかった。
隣に座るアイリーンは両手を固く握り締め、期待と、隠しきれない不安を瞳に浮かべている。
(落ち着け……)
アーガはゆっくりと息を吸い、カードケースから緑の九《召喚》を引き抜いた。
青白い光が、カードの紋様に沿って輝き始める。
光はアーガの前へ集まり、次第に輪郭の曖昧な塊へ変わっていった。
それが地面へ落ちる。
光は半透明の猟犬の姿へ凝縮された。
アーガは右手を上げ、舞台の前方を指さした。
光の猟犬が、即座に駆け出す。
しかし、木製標的へ直接襲いかかることはなかった。
吊り下げられた標的の間を素早く走り抜け、その身体で下部の操作棒へ次々とぶつかっていく。
いくつかの標的が方向を変えた。
それまで不規則だった移動経路が、少しずつ舞台の中央へ集まっていく。
光の猟犬は何度か急激な方向転換を繰り返した。
その身体は、すでに最初よりもはるかに透き通っている。
この召喚術は、もともと長時間維持できるものではない。
アーガも無理に存在を保とうとはしなかった。
魔力の供給を止める。
光の猟犬は無数の青い光点となり、空気の中へ溶けるように消えていった。
続いて、アーガは左右の手で、それぞれ赤の一《火》と赤の二《水》を抜いた。
「火球術」
拳ほどの大きさしかない火球が、正面へ飛んでいく。
木製標的を粉々にするような威力はなかった。
最初の標的へぶつかり、その表面へ黒く焦げた痕を一つ残す。
アーガが指先をわずかに動かした。
火球は一つ目の標的へ触れた直後に方向を変える。
残った炎が近くの二つの木製標的をかすめ、それぞれ指定された場所へ、同じ大きさの焼け跡を残した。
三つの痕は、ほとんど一直線に並んでいる。
観客席から拍手が起こった。
基礎火球術の威力そのものは高くない。
だが、飛行中に何度も軌道を変えるには、極めて精密な制御が必要となる。
炎が完全に消えるより早く、アーガは水のカードへ切り替えていた。
「水槍術」
細長い水流が掌から放たれ、木製標的へ結びつけられていた色付きの円盤を撃ち抜く。
水流は木材を切断しなかった。
狙った円盤だけを、正確に弾き落とした。
最も手前にある青い円盤が地面へ落ちる。
同時に水槍は別の方向へ折れ曲がり、高さの異なる六つの標的へ連続して命中した。
どの円盤も、中心を正確に撃ち抜かれている。
記録を担当していた数人の魔導師が、小声で意見を交わし始めた。
「威力は、あくまで基礎水槍術の範囲だ」
「だが、制御にほとんど無駄な魔力を使っていない」
「魔力で強引に破壊力を高めているのではない」
「一度の攻撃を、可能な限り有効に利用しているのだ」
舞台の左右から、次の標的がせり上がってきた。
絶えず回転する木製の輪。
軌道の上を左右へ動き続ける小型標的。
さらに、十数個の色付きの布袋が空中へ吊り下げられている。
アーガは黄色の三を発動した。
一時的な力が両脚へ流れ込み、走る速度が上昇する。
効果が続いたのは、わずか数秒だった。
それでも、複数の木製標的の隙間を一気に駆け抜けるには十分だった。
走りながら、アーガはさらに青の七《活力湧出》を発動する。
淡い緑色の光が、身体の表面を覆った。
連続した術式の使用によって蓄積した疲労が和らぐ。
ただし、すでに失われた魔力そのものが回復するわけではない。
アーガは一時的な加速を利用して舞台の反対側へ到達した。
《チーター》の効果が切れる直前に、動きを止める。
次に輝いたのは、赤の九《光》だった。
目を焼くような白い光が、アーガの掌から一気に広がる。
その光は、標的を貫く攻撃には変化しなかった。
ただ一瞬、舞台全体を眩しく照らし出す。
移動標的を操作していた職員たちは、不意の光に目を眩ませた。
操作のリズムが、半拍だけ遅れる。
アーガはその隙を逃さなかった。
閉じようとしていた複数の木製標的の間を、素早く駆け抜ける。
ここまでに使用されたカードは、どれも基礎的な効果しか持っていなかった。
舞台を吹き飛ばすほどの強力な攻撃もない。
誰にも理解できないような高位術式も使われていない。
それでも、最初の召喚カードから現在に至るまで、すべての魔法が途切れることなくつながっていた。
一つ一つの能力は弱い。
しかし組み合わせることで、演技全体にはほとんど停滞が生まれていなかった。
やがて舞台の奥から、十体の大型木製人形がせり上がってきた。
それらは通常の標的より、はるかに重く作られている。
それでも、あくまで基礎的な力を測定するための人形だった。
完全に破壊する必要はない。




