第208話 夜明け前の騒動
翌日、計画を実行に移す直前になって、アーガは迷いを見せた。
まだ完全に日が暮れていない頃、ティルの家では全員が準備を終えていた。
アイラは動きやすい服へ着替え、丁寧に磨いた長剣をすぐ手の届く場所へ置いている。イータは部屋の隅で身体をほぐしており、時折指先へ氷青色の光が浮かんでは、すぐに押し込められていた。
アーガは机のそばに立ち、地図へ記された複数の場所を見つめている。
しかし、その眉間から皺が消えることはなかった。
今回の計画は危険すぎる。
アイラは街の中で騒ぎを起こし、山の下を巡回している『血祭』の構成員を引きつける。
イータは鉱山付近へ向かい、第四城区の周囲にいる者たちを誘い出さなければならない。
そしてアーガは、その混乱に乗じて高塔へ潜入し、リナを救出する。
どの段階でも失敗は許されなかった。
だがアーガが本当に心配しているのは、自分が高塔へ入れるかどうかではない。
アイラとイータが危険な目に遭わないかということだった。
「イータ」
突然、アーガが声を掛けた。
イータが顔を上げる。
「アーガ様?」
アーガは彼女を見つめたまま、少し黙った。
「やはり、ほかの方法を考えた方がいいかもしれない」
アイラもアーガへ顔を向けた。
「二人が引きつける相手が普通の『血祭』の構成員だけならいい」
アーガは続ける。
「だが、強い奴が出てきたら危険だ。前回騒ぎが起きたあとだから、巡回に出る人間も増えているはずだ」
イータは真剣な目でアーガを見た。
すぐには答えなかった。
しばらくして白い耳が小さく動き、拳を握り締める。
「アーガ様、心配しないでください」
その声には強い自信が込められていた。
アーガは僅かに目を見開く。
イータの口調は普段と変わらず落ち着いていたが、そこには一切の迷いがなかった。
「一年が経って、私はとても強くなりました」
アーガはしばらく彼女を見つめた。
最後には片手を伸ばし、イータの頭を優しく撫でる。
イータは一瞬驚いたように目を瞬かせたあと、顔を上げて小さく微笑んだ。
「私も大丈夫です」
アイラは剣の柄を強く握り、僅かに顎を上げた。
「アーガ様はリナを助けることだけ考えてください。私たちが派手に騒ぎを起こしますから」
アーガは二人を見つめた。
胸の中にある不安が完全に消えたわけではない。
それでも今は、迷い続けている場合ではなかった。
「分かった」
アーガはゆっくりと頷いた。
「二人を信じる」
イータも真剣な表情で頷く。
アイラは小さく笑った。
「それでは、始めましょう」
計画が正式に動き出した。
最初に家を出たのはアイラだった。
彼女が向かうのは、第一城区と第二城区の境界付近だ。
あの辺りは道が複雑に入り組んでおり、湖畔には狭い路地も多い。騒ぎを起こしたあと、素早く撤退するには都合のよい場所だった。
続いてイータが出発した。
目標は第四城区にある鉱山の外側。
高塔からそれほど離れてはいないが、姿を見られた直後に逃げ道を塞がれるほど近くもない。
アーガは二人の後ろ姿が夜の中へ消えるまで、その場に立って見送っていた。
やがて机へ戻り、鉱夫へ変装するための古い服と道具袋を手に取る。
「旧鉱道から登れば、巡回している者をある程度避けられるわ」
扉のそばに立つティルが注意した。
「ああ」
ティアは用意していた包帯と薬瓶を、アーガの道具袋へ押し込んだ。
「これも持っていって」
アーガは荷物を受け取り、姉妹を一度見た。
この数日間、ティアとティルの助けがなければ、嵐湾城や第四城区の状況をこれほど早く把握することはできなかった。
鉱山へ無事に潜入することも不可能だったはずだ。
「この数日間、世話になったな」
アーガは笑った。
ティアが僅かに目を見開く。
アーガは道具袋を背負いながら続けた。
「また会う縁があれば、そのときに」
ティルは少し黙ったあと、静かに頷いた。
ティアも続いて頷いたが、その表情には明らかな迷いが残っていた。
アーガは背を向け、家を出ようとする。
しかし扉を押し開けた瞬間、後ろから服の裾を掴まれた。
アーガは足を止め、振り返る。
ティアが彼の服を強く握っていた。
大きな勇気を振り絞ったのか、その指先には力が入り、僅かに震えている。
「どうした?」
ティアは顔を上げた。
「私も行く」
アーガは眉をひそめた。
「駄目だ」
「塔の中には入らないし、勝手なこともしないわ」
ティアはすぐに説明を始めた。
声には僅かな焦りがあったが、それでも自分の考えをはっきり伝えようとしている。
「あなたが高塔へ入ったあと、私は外から周囲を見張る。何か異変が起きたら、あなたへ知らせる方法を考えるから」
「危険すぎる」
「分かっているわ」
ティアは唇を噛んだ。
「でも私は第四城区のことを知っている。どこに人が隠れられるのか、どの道なら迂回できるのか、それに警戒心の強い『血祭』の人間が誰なのかも少しは分かる」
「あなた一人で中へ入ったら、外で起きた変化に気づけないかもしれないでしょう?」
「ティア」
ティルが眉を寄せた。
ティアは姉を振り返り、少しずつ声を落とした。
「お姉ちゃん、無茶をしたいわけじゃないの」
「私はただ……」
一度言葉を止める。
「私も、何かしたいの」
部屋の中が静まり返った。
ティルは妹を見つめたまま、すぐには何も言わなかった。
アーガも黙っている。
「足手まといにはならない」
ティアは続けた。
「遠くから見張っているだけ。何かおかしいことが起きたら、あなたへ知らせるわ」
アーガはすぐには許可しなかった。
だがティアの言っていることにも、一理ある。
アーガは第四城区の地形に詳しくない。
ティアなら周辺の道や、『血祭』の構成員たちが普段どのように行動しているのかを知っている。
何よりも、その眼差しからは一時的な衝動が感じられなかった。
本気で力になりたいと思っているのだ。
二人はしばらく向かい合っていた。
最後にはアーガが小さく息を吐く。
「分かった」
ティアの目が一気に明るくなった。
「ただし、必ず俺の指示に従ってくれ」
アーガはすぐに条件を付け加えた。
「高塔には近づかないこと」
「『血祭』の人間とは戦わないこと」
「俺が逃げろと言ったら、迷わずその場を離れること」
ティアは力強く頷いた。
「うん!」
ティルは二人を見比べ、最後には低い声で言うしかなかった。
「気をつけて」
ティアは姉の前へ歩み寄り、その身体を抱き締めた。
「お姉ちゃん、必ず戻ってくるから」
ティルは何も言わず、妹の背中を優しく叩いた。
間もなく、アーガとティアも家を出た。
夜は次第に深まり、嵐湾城は再び静寂に包まれていった。
◇
第四城区にある鉱山の夜は、山の下よりもさらに息苦しかった。
普通の人々は夜を恐れていたが、鉱山の作業が日没と同時に完全に止まるわけではない。
一部の鉱夫は外へ残され、鉱石の整理や、昼間に坑道から掘り出された砕石の運搬を強制されていた。
高塔の前に置かれた火鉢が、暗赤色の光を放っている。
その周囲では『血祭』の構成員たちが何度も行き来し、周辺を巡回していた。
鉱山の中央では、ライドが鉱石の山のそばに立っている。
血祭の四鬼の一人。
そして、あの日リナを連れ去った吸血鬼の一人でもあった。
今夜のライドは高塔の中ではなく、鉱山の外側へ出て、働かされている者たちを監視していた。
細身で背が高く、肌は異様なほど白い。
その両目には、吸血鬼族特有の暗赤色が宿っていた。
普通の『血祭』の構成員とは違い、ライドは大声で怒鳴る必要さえない。
ただ立っているだけで、周囲にいる者たちは無意識に彼を避けていた。
一人の鉱夫が荷車を押し、ライドのそばを通り過ぎようとした。
しかし突然足元がふらついた。
車輪が砕けた石へ乗り上げ、荷車が大きく傾く。
積み上げられていた鉱石が一斉に地面へ転がり落ちた。
ガラガラッ。
ライドがゆっくりと顔を向ける。
鉱夫の顔から一瞬で血の気が引いた。
慌てて地面へ膝をつき、散らばった鉱石を一つずつ拾い始める。
「も、申し訳ありません。すぐに片づけます……」
ライドは一歩ずつ男へ近づいた。
「これで五回目だったか?」
鉱夫の全身が震える。
「ライド様、今日はもう力が残っていません。私は一日中、休むこともできず――」
ライドの表情が一気に陰った。
「それで?」
鉱夫は顔を上げた。
その目には強い恐怖が浮かんでいる。
「もう一度だけ機会をください。今度こそ必ず……」
男が言い終えるより先に、ライドは片手を上げた。
指先から血色の光が飛び出す。
粘り気を持つ縄のように伸びた血液が、そばにあった巨大な岩へ瞬時に巻きついた。
その岩はライドの身体よりも、数十倍は大きかった。
次の瞬間。
あまりにも重い岩が、力ずくで引きずられ始めた。
周囲の鉱夫たちは一斉に顔色を変え、慌てて後方へ退く。
「早く逃げろ!」
「近づくな!」
鉱夫の命乞いが突然止まった。
巨岩が激しく落下する。
ドンッ!
重く鈍い音が、鉱山全体へ響き渡った。
周囲の人々は全員顔を伏せ、二度とそちらを見ようとはしなかった。
近くにいた『血祭』の構成員たちさえ何も言わない。
この状況でライドの注意を引くことを恐れていた。
ライドは僅かに眉を寄せただけだった。
まるで、目障りな虫を何気なく踏み潰しただけのような反応だった。
「役立たずだな」
片手を軽く振る。
再び血液が伸び、すでに暗い色へ染まった巨岩へ巻きついた。
そして汚れた物を捨てるように岩を持ち上げ、山の下にある《嵐の湖》へ向けて勢いよく投げ飛ばした。
巨岩は鉱山の上空を通過し、暗い夜空の中へ消えていく。
しばらくして、山の下から低い水音が響いた。
ドオオオン!
鉱山全体が、完全な静寂に包まれた。
誰も声を発しようとしなかった。
ライドは手を軽く振り、退屈そうな表情を浮かべる。
「作業を続けろ」
鉱夫たちはすぐに再び動き始めた。
両手が震えたままでも、立ち止まろうとする者は一人もいなかった。




