第201話 吸血鬼
部屋の灯りは薄暗かった。
ティルが「ここは吸血鬼の街よ」と告げてから、長い間、誰も言葉を発しなかった。
アイラは顔を伏せたまま、剣の柄を握っている。
隣に立つイータの顔色も、決して良くはなかった。
二人は昼間、この嵐湾城が最も賑わっている姿を見たばかりだった。
湖の水は美しく、通りは大勢の人々で活気に満ちていた。店には様々な小物が並び、第二城区の菓子は甘く、第一城区の湖畔もとても綺麗だった。
しかし夜になった途端、この街はまるで別の姿へ変わってしまった。
通りから人影が完全に消え、代わりに『血祭』と呼ばれる崇拝者の組織が、街中を巡回している。
「本当なの」
ティアは目を伏せ、低い声で言った。
アーガが先ほど口にした「あり得ない」という言葉へ答えているようでもあり、もう一度この事実を受け入れるため、自分自身へ言い聞かせているようでもあった。
「吸血鬼は、本当に存在するわ」
ティルは机の上に置かれた小さな灯りを見つめ、静かに言った。
「私たちの両親も、吸血鬼に殺された」
一度言葉を止める。
「両親を殺したのは、ライドという吸血鬼よ」
部屋の空気が一気に重くなった。
アイラは僅かに目を見開き、イータも顔を上げた。
アーガは目の前にいる姉妹を見つめ、意外そうな表情を浮かべる。
「え?」
ティアの指が、服の裾を強く握った。
「最初の大規模な反抗が起きたとき、私たちの両親は犠牲になったの」
ティルは淡々と話した。
その声が最後まで平静だったからこそ、聞いている者には余計につらく感じられた。
ティアは俯いたまま、僅かに震える声で言った。
「あのとき、お姉ちゃんはずっと私の目を塞いで、見せないようにしてくれていた」
アイラの顔色がさらに険しくなる。
イータも何も言わず、黙り込んだ。
アーガは姉妹を見つめながら、すぐには言葉を出すことができなかった。
もともと人を慰めるのは得意ではない。
ましてや、このような出来事を前にしては、どんな言葉を口にしても軽く聞こえてしまう気がした。
室内に沈黙が流れる。
しばらくして、アーガはゆっくりと息を吐いた。
「それは、本当に……」
その先の言葉を続けることはできなかった。
少ししてから、アイラとイータへ顔を向ける。
「二人はここに残っていてくれ」
アイラはすぐに顔を上げた。
「アーガ様?」
「一度、宿へ戻らないといけない」
アーガは答えた。
「リナがまだあそこにいる」
リナの名前を聞き、アイラもすぐに事情を理解した。
先ほど自分たちは『血祭』の人間に追われ、アーガは助けるために宿を離れてきた。
今頃リナは一人で宿に残り、皆が帰ってくるのを待っているはずだ。
彼女の性格を考えれば、とっくに心配で落ち着かなくなっているだろう。
「私たちも一緒に戻りますか?」
イータが尋ねる。
「いや」
アーガは首を振った。
「外にはまだ『血祭』の連中がいる。二人はさっき奴らに顔を見られているから、一緒に出れば余計に見つかりやすくなる」
アイラは唇を噛んだ。
アーガを一人で行かせたくはなかった。
しかし、彼の言っていることが正しいのも分かっている。
「今外へ出るのは危険よ」
ティルが言った。
「分かっている」
「それでも戻るの?」
「ああ」
アーガは少し間を置き、続けた。
「少なくとも、俺たちが無事だとリナに知らせないといけない」
ティアはアーガを見つめた。
まだ止めようとしているようだったが、最後には小さな声で言う。
「それなら、絶対に気をつけて」
「ああ」
アーガは頷いた。
「さっきは助けてくれて、ありがとう」
「あなたたちも昼間、ティアを助けてくれたでしょう」
ティルが答える。
「それとは別だ」
アーガは懐から金袋を取り出し、中に入っていた金の一部を机の上へ置いた。
ティアは目を見開いた。
「これは要らないわ!」
ティルも眉を寄せる。
「私たちはお金のために助けたわけではない」
「分かっている」
アーガは金を二人の前へ押し出した。
「でも、二人がこの街で暮らし続けるのも楽じゃないだろう」
ティアは手を伸ばし、金を押し返そうとした。
しかしアーガはそれを直接持ち上げ、彼女の手へ押し込んだ。
「受け取ってくれ」
ティアの動きが止まる。
「でも……」
「俺たちがしばらくここへ滞在するための代金だと思えばいい」
ティルはアーガを見つめた。
しばらく黙っていたが、最後にはそれ以上拒まなかった。
ティアは手の中にある金を見つめ、複雑な表情を浮かべる。
「ありがとう」
アーガは軽く手を振った。
「すぐに戻る」
そう言って、扉へ向かった。
「大通りは通らないで」
ティルがすぐに注意する。
「『血祭』の人間は、大通りと橋の入り口を巡回しているから」
「分かった」
アーガは扉を開け、すぐに夜の闇へ姿を消した。
◇ ◇ ◇
アーガはティルに教えられた細い道を進み、できるだけ広い通りを避けた。
時折、少し離れた場所から足音が聞こえてくる。
『血祭』の者たちは、今も周辺を巡回していた。
彼らが身につけている赤黒い服は、夜の中ではそれほど目立たない。
しかし胸元の印が灯りに照らされると、暗赤色の光を反射した。
まだ乾いていない血痕のように見える。
アーガは石壁の陰で足を止め、数人の『血祭』の構成員が通りの角を歩いていく様子を見た。
彼らは短剣や鉤縄を手に持ち、歩きながら低い声で話している。
「さっきの余所者たちは、どこへ逃げた?」
「まだ第二城区にいるはずだ」
「見つけたら、そのまま連れて帰れ。今夜はちょうど吸血鬼様が新鮮な血を必要としている」
「女が二人いたんだろう?」
「余計なことは考えるな。まずは血を捧げるんだ」
話し声は次第に遠ざかっていった。
石壁の後ろに立つアーガの目が冷たくなる。
しかし追いかけることはしなかった。
今最も重要なのは、彼らと争うことではない。
できるだけ早く宿へ戻り、リナの安全を確認する。その後、全員を連れて嵐湾城を離れる方法を考えなければならない。
アーガはさらにいくつかの路地を抜けた。
やがて、宿のある通りが前方に見えてくる。
宿の正面扉はすでに閉ざされていたが、二階にはまだ灯りの点いた窓が一つあった。
アーガは顔を上げる。
リナが窓辺に立っていた。
おそらく、ずっとそこで待っていたのだろう。
アーガが通りへ姿を現した瞬間、リナの顔には明らかな安堵が浮かんだ。
すぐに片手を上げ、窓越しに振る。
「アーガ様!」
声は抑えられていたが、はっきりとした喜びが込められていた。
「ようやく戻ってきたんですね」
アーガも彼女を見上げ、胸の緊張が僅かに緩んだ。
同じように手を上げ、リナへ応える。
「待たせたな」
アーガは笑みを浮かべた。
「怖かったか?」
二階にいるリナが答えるよりも早く、アーガの背後から声が聞こえた。
「怖かったよ」
アーガの顔には、まだ笑みが残っていた。
しかし次の瞬間、異変に気づく。
今の声は上から聞こえたものではない。
リナの声でもなかった。
声の主は、彼の背後にいる。
アーガの動きがゆっくりと止まった。
少しずつ顔を後ろへ向ける。
通りの端に広がる影の中に、いつの間にか一人の男が立っていた。
いや、人間と呼ぶには僅かに違和感がある。
背は高く、身体は細い。
肌は血の気がまったく感じられないほど白く、黒い長髪が肩へ垂れている。
暗い夜の中で、両目だけが暗赤色の光を放っていた。
口元には薄い笑みが浮かび、唇の隙間から鋭い犬歯が僅かに覗いている。
アーガの瞳が細くなった。
「おお……」
相手を見つめる顔には、隠しきれない驚きが浮かんでいた。
「本当に吸血鬼がいるのか」
二階のリナも男の姿に気づいた。
顔色が一瞬で青ざめる。
「アーガ様!」
吸血鬼は窓辺にいるリナを一度見上げたあと、再びアーガへ視線を戻した。
「余所者か」
「夜の街を勝手に歩き回ると、どうなるか知っているのか?」
アーガは半歩後ろへ下がった。
指先はすでに懐のカードへ触れている。
「今の俺からは、走り回ったあとの汗の臭いしかしないと思うぞ」
吸血鬼は笑った。
「俺はライド。吸血鬼族だ」
「よく覚えておけ」
次の瞬間、ライドは片手を上げた。
指先に小さな傷が開く。
傷口から滲み出た血は下へ落ちず、空中で小さな血の粒へ凝縮された。
アーガの目つきが変わる。
血の粒が突然放たれた。
弾丸のような速度だった。
アーガは即座に身体を横へ倒す。
血弾は頬を掠め、そのまま背後にある木の扉を貫いた。
パンッ!
扉の板に小さな穴が開く。
アーガの頬にも、浅い傷が一本浮かんでいた。
指先でそこへ触れる。
「これは少し面倒だな」
「動かない方がいい」
ライドは微笑んだ。
「お前の血を地面へ無駄にこぼしたくないからな」
アーガは答えなかった。
指の間でカードを反転させる。
瞬時に炎が燃え上がり、腕に沿って前方へ噴き出した。
巨大な火柱が、正面からライドへ襲いかかる。
ライドはその場から動かなかった。
片手を僅かに持ち上げる。
大量の血液が掌から溢れ出し、瞬く間に血色の盾へ変化した。
轟音が響く。
炎が血の盾へ衝突し、耳障りな蒸発音が周囲へ広がった。
盾の表面を覆う血液はすぐに黒く焼け焦げたが、それでも盾全体が崩れることはなかった。
アーガはその隙に距離を詰めた。
緑色の光が手の中へ集まり、鋭い突刺へ変化する。
狙いはライドの胸だった。
しかしライドは身体を横へ動かし、簡単に攻撃を避けた。
その動きは、目で捉えることすら難しいほど速い。
次の瞬間、ライドの背後から何本もの血の線が広がった。
それぞれが細長い赤色の槍へ変わり、異なる方向からアーガを狙う。
アーガはすぐに攻撃を引き戻した。
周囲に強い風を巻き起こし、血槍の軌道を強引に変える。
ドンッ! ドンッ! ドンッ!
血の槍が次々と地面へ突き刺さった。
硬い石畳が一瞬で砕け散る。
アーガは風の流れを利用して素早く後退し、数歩離れた場所へ着地した。
呼吸が僅かに重くなる。
強い。
先ほど戦った『血祭』の二人とは、まるで比較にならない。
実力は、おそらく戍佐級上位に達している。
ライドはアーガを見つめた。
暗赤色の瞳には、僅かな興味が浮かんでいる。
「戍佐級下位か」
「その若さなら、確かに悪くない」
周囲の空気が、一瞬で重くなったように感じられた。
アーガの眼差しはさらに鋭くなる。
二階から見守っているリナの顔色も、ますます悪くなっていた。
ライドは考える時間を与えなかった。
片手を振る。
空中の血液が急速に形を変えた。
最初は長剣へ。
続いて短槍へ。
最後には突然分裂し、無数の小さな血の粒となった。
すべての血弾が、本物の弾丸のように同時にアーガへ放たれる。
アーガはすぐに風を操り、距離を取った。
しかし血弾の速度はあまりにも速かった。
大半は避けたものの、そのうちの一発が肩を掠める。
傷口から鮮血が滲み出した。
空気に混じった血の臭いを嗅ぎ取った瞬間、ライドの目に宿る赤い光が一層強くなった。
「いい匂いだ」
アーガは歯を食いしばり、もう一度炎を発動する。
火の光が、通り全体を一瞬で明るく照らした。
だが次の瞬間には、ライドがすでにアーガの側面へ移動していた。
ライドの手の中で血液が細長い刀へ変わり、そのままアーガへ振り下ろされる。
アーガは咄嗟に腕を上げ、攻撃を防ぐしかなかった。
ドンッ!
凄まじい力が正面から叩きつけられる。
アーガの身体は後方へ押し飛ばされ、背中から石壁へ激突した。
胸の奥に、重い衝撃が広がる。
体勢を立て直すより早く、血液で作られた鎖が両手首へ伸びてきた。
アーガはすぐに風刃を放ち、そのうち何本かを強引に切断する。
しかし残った血の鎖は腕を掠め、細長い傷を何本も残した。
力の差が大きすぎる。
速度も、力も、魔法を操る技術も、ライドの方が明らかに上だった。
アーガは通りの中央へ立っていた。
その肩と腕からは、すでに血が流れていた。




