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第200話 過去

木の扉が閉じた瞬間、追ってきた者たちの足音がすぐ近くまで迫った。


アーガは室内へ引き込まれ、身体を立て直すと、真っ先に振り返ってアイラとイータの姿を確認した。


二人もすでに中へ入っている。


背後にいた少女が、素早く木の扉を閉めた。


そこにあったのは、ごく普通の裏口だった。


扉の内側には古い木製の棚や布張りの箱が積まれ、外側もいくつかの大きな木箱に半分ほど隠されている。そのため夜の闇の中では、ほとんど目立たなかった。


室内には、すぐには明かりが点けられなかった。


暗闇の中で、一人の少女が人差し指を唇へ当て、声を出さないよう三人へ合図する。


アーガは動きを止めた。


アイラもすぐに息を潜め、イータは指先に集まりかけていた氷霜を黙って消した。


外にいる者たちは、すでに扉の前まで来ていた。


「こっちにはいるか?」


「いない。向こうも捜してみろ」


「分かった。絶対に逃がすなよ」


アイラは剣の柄を強く握り、僅かに身体を強張らせた。


イータもアーガの隣に立ち、いつでも戦えるよう構えている。


アーガは声を出さなかった。


扉の下の隙間から差し込む僅かな光を見つめ、外にいる者たちの位置を判断する。


もし扉が開けられれば、真っ先に外へ飛び出すつもりだった。


幸い、追手たちは住民の家の扉まで開けて調べようとはしなかった。


あるいは、夜の街で逃亡者を匿おうとする者などいないと、最初から思い込んでいるのかもしれない。


やがて、足音が少しずつ遠ざかっていった。


最後の物音が路地の先へ消えると、室内にいた少女はようやく長く息を吐いた。


それから手探りで、小さな灯りを点ける。


淡い黄色の光が、ゆっくりと室内を照らした。


アーガは目の前にいる少女の顔を見て、目を瞬かせた。


青い髪をした、まだ若い少女だった。


顔立ちは特別華やかというわけではないが、清潔感があり、見ていて飽きない。眉や目元には、相手の警戒心を自然と解いてしまうような親しみやすさがあった。


「君は……ティアか!」


アイラは少女を見たあと、アーガへ視線を向けた。


「アーガ様、この人を知っているの?」


アーガは頷いた。


「昼間、リナと一緒に化粧品店で会ったんだ」


「すごい偶然ね、アーガ」


「本当にな」


ティアはイータとアイラにも顔を向け、小さな声で名乗った。


「私はティアよ」


「アイラ」


「イータ」


そのとき、部屋の奥からもう一人の女性が姿を現した。


ティアよりも少し年上に見え、雰囲気も落ち着いている。


髪の色はティアとよく似ていたが、こちらは動きやすいようにきっちりと結ばれていた。その目には、長い間周囲を警戒し続けてきた者特有の慎重さが残っている。


「私はティル。ティアの姉よ」


彼女はアーガを見たあと、アイラとイータへも視線を向けた。


その声には僅かな驚きが混じっている。


「今でも吸血鬼側の人間に抵抗しようとする人がいるなんてね」


「本当に勇敢だわ」


アーガは灯りの下で姉妹の顔を見比べた。


「二人は本当によく似ているな」


「よく言われるわ」


ティルは小さく笑った。


アーガは二人を見つめ、尋ねる。


「この街で、一体何が起きているんだ?」


ティアは黙り込んだ。


アーガだと分かったことで僅かに浮かんでいた安堵も、すぐに彼女の顔から消えていく。


家の外は再び静まり返っていた。


ティアは小さな灯りを見つめたまま、長い間何も言わなかった。


やがて、静かに息を吐く。


「嵐湾城は、昔からこんな街だったわけじゃないの」


外の夜を刺激することを恐れているかのように、その声はとても小さかった。


「以前の嵐湾城は、とても発展した街だった。鉱脈があるだけじゃなくて、外から来る商隊や冒険者もたくさんいて、皆それなりに豊かな暮らしをしていたの」


「第一城区は賑やかで、第二城区は暮らしやすかった。第三城区には旅人が多くて、第四城区は鉱山とともに栄えていた」


「ここの水は、とても綺麗なのよ」


ティアの視線は、遠い過去を見ているようだった。


「昼間は湖面が光を反射して、夜になると街の灯りが水に映るの。昔は夜に湖の周りを散歩する人がたくさんいたし、船に乗って夜景を見る人もいた」


そこで、ティアの言葉が止まった。


「でも、そのあと吸血鬼が現れた」


アイラの顔色が変わる。


「吸血鬼?」


信じられないというように眉を寄せた。


「吸血鬼族は、二百年以上前にほとんど滅びたはずでしょう? 生き残りがいたとしても、百人にも満たないはずよ」


アイラはティアを見つめる。


「本当なの?」


隣に立つイータの顔色も、先ほどより少し白くなっていた。


普段は恐怖をほとんど表に出さない彼女も、「吸血鬼」という言葉を聞き、声を低くする。


「どういうことですか……」


ティアは頷いた。


「本当よ」


顔を上げ、三人を見た。


「私たちは実際に見たことがある」


室内が一瞬静まり返った。


ティアは続ける。


「それに、普通の吸血鬼だけではないかもしれないの」


アーガの目つきが僅かに変わる。


ティアは深く息を吸った。


まるで、自分自身でも信じたくない事実を口にしようとしているかのようだった。


「あるとき、山の上にある鉱山……第四城区で、とても大きな異変が起きたの」


「その夜、第四城区の鉱山灯がほとんど全部消えた。山の方から大きな音が聞こえて、山全体が揺れているようだった」


「そのあと、ある噂が広がったの」


ティアは一度言葉を止めた。


「吸血鬼の女王が現れたって」


アイラは大きく目を見開いた。


イータも顔を上げる。


アーガの表情にも、はっきりとした驚きが浮かんだ。


「吸血鬼の女王?」


声が低くなる。


「吸血鬼の女王は鎮国級の実力を持ち、すでに城主級を超えていたと聞いている」


「だが、何百年も前に死んだはずだ」


「どうして復活するんだ?」


ティアは首を振った。


「どうやって復活したのかは、私にも分からない」


「でも、確かに復活したの」


ティルが言葉を引き継いだ。


ティアよりも冷静な口調だったが、その声には同じような重苦しさがあった。


「この街では、これまでに二度の大規模な虐殺が起きた」


「一度目は第三城区よ」


「その夜、第三城区に住んでいた人の半分近くが殺された」


アイラが息を呑んだ。


イータの指にも僅かに力が入る。


ティルは続けた。


「二度目は第四城区。さっき話した鉱脈のある場所よ。そのとき、新しく赴任してきた城主も殺された」


「新しい城主が殺されたの?」


アイラは眉をひそめた。


「城主級下位だった人か?」


アーガは宿の従業員から聞いた話を思い出した。


ティルは頷いた。


「ええ」


部屋の空気が一気に重くなった。


アイラの顔からは、昼間街を楽しんでいたときの明るさが完全に消えている。


イータも黙り込み、目には僅かな不安が浮かんでいた。


アーガは小さな灯火を見つめながら呟く。


「それは、さすがに……」


一度言葉を止め、改めて尋ねた。


「その女王は、どんな姿をしているんだ?」


ティアは首を振った。


「私も見たことはないわ」


「女王を直接見た人は、全員死んだと言われているから」


アイラは思わず口にした。


「こんなに大きな街が、まさかこんなことになっているなんて……」


しかしアーガは、突然小さく笑った。


それは余裕から出た笑いではない。


あまりにも荒唐無稽な結論を、否定するような笑いだった。


「あり得ない」


アーガは顔を上げる。


「絶対にあり得ない」


「吸血鬼の女王が復活したなんて、そんなことがあるはずないだろう」


扉の向こうへ視線を向けた。


「さっき俺たちを追っていた連中も、吸血鬼ではなく人間だった」


ティルは頷く。


「彼らが人間なのは間違いないわ。でも、吸血鬼を崇拝する者たちなの」


「組織の名前は『血祭』」


アイラは眉を寄せた。


「崇拝者?」


「恐怖から生まれた崇拝者、と言った方が正しいかもしれない」


ティルは答えた。


「彼らは吸血鬼を恐れ、この組織を作った。一定期間ごとに自分の血を差し出せば、組織へ加入することができる」


「加入すれば、殺されずに済む」


ティアが補足した。


アーガたちを見ながら続ける。


「少なくとも、彼ら自身はそう信じているわ」


ティアは声を落とした。


「彼らは夜になると街を巡回して、まだ外に残っている人を捕まえるの」


「余所から来た人、忠告を聞かなかった人、家へ帰るのが間に合わなかった人。そういう人たちは皆、吸血鬼へ捧げる血として連れていかれる」


アイラは拳を握り締めた。


「だから、さっき一割の血を寄越せと言っていたのね……」


ティルは頷いた。


「本気よ」


「彼らはその場ですぐに人を殺すわけではない。でも血を抜かれたあと、生き残れるかどうかは運次第」


室内は再び沈黙に包まれた。


アーガが尋ねる。


「ほかの人たちはどうした?」


「副城主は?」


「力のある冒険者たちは?」


ティアは顔を伏せた。


「逃げたわ」


「多くの人が街から逃げていった」


ティルが続ける。


「最初は抵抗しようとした人たちもいた。街の守衛も、冒険者も、ギルドの人間も戦ったわ」


「でも、あるとき大勢の校尉級冒険者まで殺された」


「それ以来、抵抗しようとする人はほとんどいなくなった」


アイラはしばらく黙ったあと、尋ねた。


「聖ローラン城は、この問題を解決するために人を派遣しなかったの?」


ティルはアイラを一度見た。


「以前の城主は、十五か月前に前線を支援するため街を離れた」


「戦争が終わったあと、聖ローラン城も確かに城主級の人間を一人派遣してきたわ」


イータが口を開く。


「それが、新しく来た城主ですか?」


「ええ」


ティルは頷いた。


「でも、その人は殺された」


「今は王城もグルバート家の問題や、ほかの多くの事件への対応に追われている」


「だから今のところ、次の人間は派遣されていない」


ティアは小さな声で言った。


「外にいる人たちにとって、嵐湾城はただの厄介事なのかもしれない」


「でも私たちにとって、ここは故郷なの」


「ここを離れても、お金も行く場所もない」


ティアは窓の外へ目を向けた。


そこには何も見えない。


ただ、重く沈んだ夜の闇だけが広がっている。


ティルが、静かな声で最後の言葉を告げた。


「今のこの街は、もう昔の嵐湾城ではない」


「ここは、吸血鬼の街よ」


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