第199話 アーガ到着
バネ魔法を使う男が、再び膝を曲げた。
限界まで押し縮められた鉄のバネのように身体を沈め、次の瞬間には勢いよく飛び出す。あまりの速さに、その姿はほとんど残像しか見えなかった。
狙いはアイラだった。
アイラは伸びてきた腕による側面からの攻撃を防いだばかりで、まだ足元の体勢を立て直せていない。歯を食いしばり、もう一度剣を持ち上げようとしたが、そのときにはすでに男が目の前まで迫っていた。
「アイラお姉ちゃん!」
イータはすぐに手を上げた。
「氷壁!」
氷青色の壁が瞬時に地面から立ち上がり、アイラの前を塞ぐ。
しかし男は止まらなかった。そのまま全身で氷壁へ激突する。
轟音とともに氷壁が砕け散った。
無数の氷片が飛び散る中、男の拳が氷の霧を突き抜け、アイラの胸元へ迫る。
まさに、その瞬間だった。
脇の暗闇から一つの影が飛び出した。
ドンッ!
重い衝突音が通りへ響き渡る。
バネ魔法の男は正面から強引に動きを止められ、両足を地面へつけたまま数歩後方へ滑った。靴底が石畳を削り、耳障りな音を響かせる。
アイラは呆然とした。
彼女の前にはアーガが立っていた。片腕を空中へ突き出し、男の攻撃を真正面から受け止めている。
夜風がアーガの服の裾を揺らした。
その表情は険しかった。
「アーガ様!」
アイラとイータが、ほとんど同時に声を上げる。
アーガは振り返らずに尋ねた。
「怪我は?」
アイラは剣を強く握り、首を振った。
「ないわ」
イータも小さな声で答える。
「まだ戦えます」
「ならよかった」
アーガは赤黒い服を着た二人の男へ目を向けた。その眼差しが冷たくなる。
「戍佐級が二人揃って、夜道で女の子二人を取り囲み、血を奪って吸血鬼様へ捧げるのか?」
声は決して大きくなかった。
しかし押し殺された怒りが、はっきりと込められていた。
伸縮魔法を使う男が僅かに眉を上げる。
「また余所者か?」
バネ魔法の男は、アーガに止められた手首を軽く動かした。先ほどまで浮かべていた余裕のある表情が、少し薄れている。
「なかなかの力だ」
アイラはすぐにアーガの左側へ立ち、剣身へ細い風をまとわせた。イータも右側へ移動し、足元から白い霜を広げていく。
二人の男は一度顔を見合わせた。
状況が変わったことは、彼らにも分かっていた。
二対二で戦っていたときは、アイラとイータを一方的に押すことができていた。しかしアーガが加わったことで、戦況は大きく変わっている。
「やれ」
最初に動いたのは、伸縮魔法を使う男だった。
右腕が一瞬で伸び、黒い鞭のように正面からアーガへ振り下ろされる。同時に左腕は横へ回り込み、死角からイータを掴もうとした。
アーガは一歩前へ踏み出した。
退くことはなかった。
掌を返すと、指の間で一枚のカードが輝く。
黄カード 1《棕熊》。
重厚な力が瞬時にアーガの腕を覆った。
伸びてきた男の腕を直接掴み、そのまま強く下へ引き落とす。
男の顔色が変わった。
「何だと?」
次の瞬間、アーガはもう一方の手を上げる。
赤カード 3《草》が輝いた。
赤い紋様を帯びた草葉の幻影が地面を這うように広がり、縄のように男の伸びた腕へ巻きついた。
アイラはその瞬間を逃さず、剣を横へ振り抜く。
「旋風斬!」
風の刃が地面すれすれを旋回しながら飛んでいく。
伸縮魔法の男はすぐに腕を縮め、赤い草の拘束を強引に振りほどいて後方へ退いた。
しかし着地した瞬間には、すでにイータの魔法が発動していた。
「氷錐突刺!」
何本もの氷錐が、男の足元から突き出した。
男は身体を横へ動かして避けたが、氷錐の先端が肩を掠め、細い傷を刻んだ。
血が地面へ滴り落ちる。
男の表情が、ようやく険しいものへ変わった。
一方、バネ魔法を使う男は再び高速で飛び回っていた。
壁を蹴ったかと思えば地面へ降り、次の瞬間には反対側の壁へ跳ぶ。街道の両側を何度も反射しながら移動する姿は、捉えることのできない影のようだった。
アイラはその軌道を追い、剣を振るう。
「風の穿刺!」
鋭い風の束が空中へ突き出された。
男は壁を蹴り、無理やり進行方向を変える。アイラの頭上を飛び越えたが、着地しようとした先では、すでにイータが手を上げていた。
「凍結球!」
氷青色の球体が空中で弾け、凍える冷気が一気に広がった。
バネ魔法の男の身体が僅かに止まる。着地したときには足首を霜で覆われ、動きが一瞬だけ遅くなっていた。
その隙に、アーガが距離を詰めた。
《棕熊》の力は、まだ消えていない。
アーガは拳を振り下ろした。
男は両腕を交差させ、攻撃を受け止める。
ドンッ!
凄まじい力に押され、男は三歩後方へ退いた。
顔を上げたその目に、初めて驚きが浮かぶ。
「これほど若いのに、戍佐級下位だと?」
伸縮魔法の男もアーガへ目を向けた。
最初は何らかの特殊な能力を使い、一時的に攻撃を受け止めただけだと思っていた。
しかし一度交戦したことで、相手の階級をはっきりと感じ取っていた。
戍佐級下位。
それも、下位へ上がったばかりの者が持つ不安定な気配ではない。
アーガの力は安定していた。
年齢からは考えられないほど、揺るぎなく安定している。
三人が連携すれば、正面にいる二人を完全に抑えることができた。
伸縮魔法の男は肩から流れる血を拭い、不意に笑みを浮かべた。
「下位か」
「どうりで夜の街を平然と歩けるわけだ」
バネ魔法の男も痺れの残る腕を振り、冷たい声で言った。
「このまま戦っても構わないぞ」
伸縮魔法の男はアーガを見たあと、アイラとイータへも目を向ける。
「だが、二対三は確かに少し面倒だな」
その言葉を聞いた瞬間、アーガの胸に嫌な予感が走った。
次の瞬間、伸縮魔法の男は懐から小さな赤い石片を取り出し、その場で握り潰した。
カチッ。
石片が砕け、細い赤色の光が夜空へ向かって伸びた。
決して強い光ではなかったが、暗闇に包まれた街の中では異様なほど目立っている。
アーガの目つきが変わった。
「合図か」
遠くから、すぐに足音が聞こえてきた。
それは複数の方向から響いている。
まるで、この街を覆う夜そのものが動き始めたようだった。
アイラは剣を握り直す。
「アーガ様、まだ戦う?」
アーガは一瞬も迷わなかった。
「逃げるぞ」
アイラとイータはすぐに背を向け、三人は一斉にその場から離れた。
背後にいた二人の男もすぐに反応する。
「追え!」
「逃がすな!」
夜の嵐湾城は、巨大な黒い網のようだった。
アーガはアイラとイータを連れ、次々と細い路地を駆け抜けていく。
両側の石壁が素早く後方へ流れ、三人の足音が狭い路地の中で何度も反響した。
アイラは走りながら背後を振り返る。
「追いつかれる!」
イータは後方へ手を向け、冷気を放った。
「氷晶千針!」
密集した氷針が路地の入り口を塞ぐ。
しかし次の瞬間、伸縮魔法の男の腕が横の壁を回り込み、蛇のように氷針の隙間を抜けてイータの肩へ伸びてきた。
アーガは反射的にイータの身体を引き寄せた。
伸びた手は空を掴み、そのまま勢いよく石壁へ激突する。
砕けた石片が地面へ落ちた。
反対側の屋根からは、バネ魔法の男が勢いよく飛び降りてくる。二人との距離は少しずつ縮まっていた。
アーガは眉を寄せる。
相手は街の道を知り尽くしている。
このまま大きな路地を走り続ければ、いずれ前後から囲まれるだろう。
そのとき、前方に木箱が大量に積み上げられた細い路地が見えた。
箱は人の背丈よりも高く積まれ、その横には暗い影へ呑み込まれかけた壁がある。
アーガは足を止めなかった。
「中へ入れ」
三人はすぐに木箱の隙間へ潜り込んだ。
積み上げられた木箱が外からの視線をほとんど遮っている。中は狭く、三人がどうにか身体を収められる程度の空間しかなかった。
アイラは息を殺した。
イータも魔力の気配を限界まで抑える。
外から聞こえる足音が次第に近づいてきた。
「どこへ行った?」
「確かにこっちへ入ったはずだ」
「捜せ」
声はすぐそばから聞こえていた。
木箱の外側から、手で板を叩く音が響く。
ドン。
ドン。
音は一度ごとに近づいてくる。
アーガは拳を強く握り、いつでも戦えるように構えていた。
しかし今ここで動けば、外にいる者たちが一斉に集まってくる。狭い場所で退路を塞がれれば、完全に追い詰められてしまう。
アイラの指がゆっくりと剣の柄へ触れた。
イータの周囲にも薄い霜が浮かび始める。
一番手前にある木箱へ、誰かの手が掛けられた。
今にも箱が動かされようとした、その瞬間。
背後の暗闇から、とても小さな音が聞こえた。
カチャッ。
三人の後ろにあった扉が突然開かれた。
アーガは勢いよく振り返る。
相手の姿を確認するよりも早く、扉の中から伸びてきた手が正確にアーガの手首を掴み、強い力で室内へ引き込んだ。
アーガの目が鋭くなる。
本能的に反撃しようとした。
しかし次の瞬間、声を限界まで抑えた女の声が耳元で響く。
「声を出さないで」
「生きたいなら、中へ入って」
アーガの動きが止まった。
もう迷うことはなかった。
引かれる力に従って扉の中へ入り、同時に後ろへ手を伸ばしてアイラとイータも引き込んだ。




