第197話 異変
黄昏の最後の光が嵐湾城へ降り注いでいた。
湖面には金色の波紋が広がり、通り沿いの灯りが一つ、また一つと点されていく。商人たちは屋台を片づけ始め、遊んでいた子供たちも家族に呼ばれて帰っていった。遠くの時計塔からは、長く響く鐘の音が聞こえてくる。
すべてが穏やかに見えた。
しかし時間が経つにつれ、アーガは僅かな違和感を覚え始めた。
通りから人が減っている。
最初は何人かの店主が少し早めに屋台を畳んでいるだけだった。やがて通行人たちが急ぎ足で立ち去り始め、ついには通り沿いの商店まで次々と扉を閉めていく。
先ほどまで大勢の人で賑わっていた通りは、いつの間にか閑散としていた。まだ外に残っている者たちも足を速め、立ち止まろうとする様子はまったくない。
アーガとリナは湖沿いをゆっくり歩いていたが、異変へ気づくと次第に足を緩めた。
一人の男が慌ただしく家へ向かっているのを見つけ、アーガはすぐに声を掛ける。
「待ってくれ」
男は足を止め、二人を振り返った。
「一つ聞きたいんだが、どうして皆そんなに急いで帰っているんだ?」
男は二人を何度か見回し、驚いた表情を浮かべた。
「あんたたち、この街の人間じゃないのか?」
アーガは頷いた。
男の顔色が僅かに変わる。何かを言おうとしたようだったが、しばらく迷った末に首を振った。
「ああ、説明すると面倒なんだ。とにかく、あんたたちも早く帰った方がいい」
それだけ言うと男は歩調を速め、すぐに通りの向こうへ消えていった。
その後ろ姿を見つめながら、アーガは眉を寄せる。
「妙だな」
「普通のことではなさそうですね」
リナも男が去った方向を見ていた。
「ああ。ひとまず宿へ戻ろう」
すでに通りにはほとんど人が残っていない。このまま外にいても、新しい話を聞くのは難しそうだった。
「はい」
二人は来た道を戻り、宿へ向かった。
周囲で灯っている明かりは少しずつ減っていく。先ほどまで笑い声で満ちていた通りは、今では不自然なほど静かだった。
時折そばを通り過ぎる者がいても、俯いたまま急いで歩き、二人へ目を向けることさえない。
アーガの隣を歩きながら、リナは少しだけ残念に思っていた。
今日という一日は、あまりにも早く過ぎてしまった。
桂蜜糕を買い、大道芸を見て、湖畔を散歩した。たった一日の出来事なのに、これほど穏やかな時間を過ごしたのは随分久しぶりのように感じられる。
リナは髪に飾られた新しい装飾品へ触れ、それから地面に伸びる二人の影を見た。
できることなら、もう少しだけ一緒に歩いていたかった。
宿の建物が見え始めたところで、リナは小さな声で彼を呼び止める。
「アーガ様」
「どうした?」
アーガが振り返った。
リナはしばらく迷ってから、僅かに顔を伏せて尋ねた。
「もう一度……手を繋いでもいいですか?」
アーガは一瞬だけ目を瞬かせた。
俯いているリナの顔を見て、思わず小さく笑う。
「もちろんだ」
アーガはそのまま手を伸ばし、リナの指を握った。
二人の指がすぐに重なり合う。リナの頬は僅かに赤くなったが、手を離すことはなかった。むしろ自分から、アーガの手をそっと握り返す。
二人は手を繋いだまま、並んで宿へ戻った。
◇ ◇ ◇
通りの先に広がる暗闇。
一軒の家の窓の奥から、誰かが人影の消えた通りを黙って見つめていた。
しばらくして、窓を覆う布が勢いよく閉じられた。
◇ ◇ ◇
夜になると、嵐湾城は完全な静寂に包まれた。
街全体が異様なほど静かで、宿の広間にも薄暗い灯りが数個残されているだけだった。
アーガは部屋の中へ座り、窓の外に広がる暗い通りを眺めていた。
外には一人の通行人もいない。
物音も聞こえない。
巡回しているはずの守衛さえ、ほとんど見かけなかった。
それ以上に気になるのは、アイラとイータが今も戻っていないことだった。
リナも窓辺に立ち、僅かに眉を寄せている。
「アーガ様、二人がまだ戻ってきません」
アーガは時刻を確認した。
「ああ」
声は普段と変わらず落ち着いている。
それでもリナには、アーガがすでに心配し始めていることが分かった。
そのとき、突然部屋の扉が叩かれた。
宿の従業員が夕食を持って入ってくる。四人分の料理を、順番に机の上へ並べていった。
「お客様方、夕食をお持ちしました」
「ちょっといいか」
アーガが呼び止めると、従業員の手が止まった。
「何でしょう?」
「どうしてこの街は、夜になると外から人がいなくなるんだ?」
従業員はアーガの視線を追い、窓の外を見た。
その身体が明らかに強張る。
しばらくしてから、低い声で尋ねた。
「お客様方は、この街の人ではありませんよね?」
アーガは頷いた。
「それなら、知らないのも無理はありません」
従業員は深く息を吐いた。
「この街の者は、夜になると誰も外へ出ようとしないんです」
「なぜですか?」
リナが尋ねた。
従業員は最初に扉を見た。
続いて廊下へ視線を向け、近くに誰もいないことを確認してから声を潜める。
「吸血鬼がいるからです」
部屋の中が一瞬静まり返った。
「吸血鬼?」
アーガは少し意外そうな顔をした。
「吸血鬼も一つの種族にすぎないだろう。街中から人が消えるほど恐れる必要があるのか?」
アーガにとって吸血鬼は特殊な種族ではあるが、理解できない存在ではなかった。
この世界には強大な力を持つ種族が数多くいる。本当に恐れるべきものはその者の力や行動であり、種族そのものではないはずだ。
しかし従業員は、アーガの言葉を聞いて複雑な表情を浮かべた。
「やはり、何も知らないんですね」
「つまり皆は、吸血鬼が夜に人を襲うことを恐れているのか?」
「そうです。ただし、吸血鬼だけではありません。奴らを信奉する者も大勢います」
アーガはさらに首を傾げた。
「はあ? どうして吸血鬼が街を支配しているんだ? 城主はどうした? 副城主は?」
従業員はしばらく黙っていたが、最後には口を開いた。
「以前の城主は二年前、前線の戦いを支援するために街を離れました。その後、新しい城主が赴任してきたのですが、就任して間もなく……」
そこで言葉を止める。
「どうなった?」
アーガが尋ねた。
従業員の声はさらに小さくなった。
「死にました」
リナの表情が僅かに変わる。
「死んだ?」
アーガも眉をひそめた。
「はい。吸血鬼に殺されたんです」
アーガはしばらく黙ったあと、続けて尋ねる。
「その城主の実力は?」
従業員はアーガを一度見た。
「城主級下位です」
部屋の中が再び静まり返った。
アーガの表情が、ようやく本気のものへ変わる。
「何だと?」
吸血鬼が街を支配していると聞いたとき、アーガは数が多いか、何らかの特殊な手段を使っているのだと思っていた。
しかし城主級下位の強者が殺されたとなれば、これは普通の問題ではない。
「何があったんだ?」
アーガはさらに問いかけた。
しかし従業員は首を振った。
「これ以上は聞かないでください。お客様方が知るべきことではありません」
従業員は再び窓の外を見た。
その顔には先ほどよりも明らかな不安が浮かんでいる。
「とにかく夜は外へ出ないでください。明日の朝になったら、できるだけ早くこの街を離れた方がいい」
そう言い残すと、従業員はそれ以上部屋に留まらず、急いで外へ出ていった。
扉が閉じられ、周囲は再び静かになる。
アーガは机の上に並べられた夕食へ目を向けた。
料理は四人分用意されている。
そのうち二人分は、まだ戻っていないアイラとイータのものだった。
リナも彼の視線を追い、すぐに考えていることを察した。
「アーガ様……」
アーガは立ち上がった。
「二人を探してくる」
「私も行きます」
「いや」
アーガは首を振った。
「リナはここに残ってくれ」
リナは僅かに目を見開く。
「ですが……」
「二人が道に迷っただけなら、すぐ自分たちで戻ってくる」
アーガは穏やかな声で続けた。
「もし本当に何かが起きているなら、一人の方が動きやすい」
リナはすぐには答えなかった。
アーガの言うことが正しいのは分かっている。
それでも、あまりにも静かな外の通りを思うと、不安を抑えることができなかった。
「アーガ様……」
アーガは手を伸ばし、リナの頭を軽く撫でた。
「心配するな」
「必ず二人を連れて戻る」
リナはアーガを見つめたあと、最後には静かに頷いた。
「はい」
アーガは外套を手に取り、部屋の扉を開けた。
外の廊下には物音一つない。
階段を下りて一階へ向かい、宿の扉を押し開ける。
冷たい夜風が、すぐに正面から吹きつけた。
通りには誰もいなかった。
先ほどまで人々の笑い声で満ちていた嵐湾城は、今ではまるで別の街のようだった。
アーガは暗い通りの中央に立ち、遠くへ一度目を向ける。
そして一人で夜の街へ歩き出した。




