第195話 化粧店
小さな広場を出たあと、二人は湖沿いの道をさらに先へ進んだ。
第二城区の南側は、楕円形をした小さな湖の下半分に面している。湖はそれほど大きくないが、水はとても澄んでいた。陽光が水面へ降り注ぎ、細かな光が波に合わせて静かに揺れている。
岸辺には背の低い木々が一列に植えられ、その下には何脚かの長椅子が置かれていた。腰を下ろし、のんびりと話をしている老人たちの姿も見える。
リナは湖のそばを、いつもよりずっとゆっくりと歩いていた。アーガも急かすことはなく、二人はしばらく静かに歩き続ける。
時折湖から風が吹き、リナの耳元にかかった髪をそっと持ち上げた。
「アーガ様、この湖には名前があるのですか?」
「確か《嵐の湖》だったはずだ。隣の第三城区にある湖は《湾の湖》と呼ばれている」
「随分と安直な名前ですね」
二人は揃って笑った。
リナは再び湖へ目を向け、先ほどよりも小さな声で言う。
「こうして皆で知らない街へ来て、何かを食べたり、面白いものを見たり……こういう暮らしは、本当にいいですね」
アーガはすぐには答えなかった。
彼は普段、そうしたことを真剣に考えることがほとんどない。アーガにとって穏やかすぎる日々は、港へ一時的に停泊している船のようなものだった。
次の波がいつ訪れ、再び沖へ押し流されるのか分からない。
だが今、湖面で揺れる光を眺め、風に吹かれるリナの髪へ目を向けていると、こうした時間も確かに悪くないと思えた。
「ああ、そうだな」
リナがアーガへ顔を向ける。
「もう少し面倒事が減ったら、またこういう場所を探してみましょう」
「まるで面倒事が勝手に減ってくれるような言い方だな」
アーガは真剣に考えた。
「なら、減るまで全部片づければいい」
いかにもアーガらしい答えだった。
リナは一瞬呆気に取られたあと、堪えきれずに笑い出した。
二人はそのまま湖沿いを歩き続け、ほどなくして一軒の化粧店の前を通りかかった。
店の入り口には淡い紫色の布が掛けられている。窓辺には小さな瓶や箱がいくつも並べられ、中には様々な色の粉や練り化粧、香油が入っていた。
店内からは淡い花の香りも漂ってくる。決して鼻につく匂いではなく、むしろ心地よく感じられた。
リナは何気なく店の中へ目を向けた。
そのとき、店内から荒々しい声が聞こえてきた。
「何だ、この化粧は!」
二人は同時に足を止めた。
店のカウンター前には、大柄な冒険者が立っている。その顔には不機嫌さがはっきりと浮かんでいた。
カウンターの奥にいるのは、まだ若い少女だった。十五歳ほどにしか見えず、背もあまり高くない。青い髪を簡単に後ろで結び、華やかな装飾品なども身につけていなかったが、整った清潔感のある顔立ちをしている。
「も、申し訳ありません。すぐにやり直しますので……」
「やり直すだと?」
冒険者は自分の顔を指差し、怒鳴りつけた。
「こんな顔にしておいて、まだやり直すつもりか! 俺はこのあと人に会わなきゃならないんだぞ。この顔のまま外へ出ろっていうのか!」
アーガは冒険者の顔を一度確認した。
実際のところ、それほど深刻な問題には見えない。
確かに化粧は少し妙だった。眉は高く整えられすぎており、頬の両側へ入れられた陰影も濃い。そのせいで元々荒々しかった顔立ちが、どこか滑稽に見えてしまっている。
だが結局のところ、似合っていないというだけだ。
一度落としてやり直せば済むだろう。
しかし冒険者は、それだけで終わらせるつもりがないらしい。
「金を払え!」
片手でカウンターを強く叩いた。
「代金を返すだけじゃ足りない。無駄にした時間の分まで賠償しろ!」
青髪の少女は肩を震わせた。
「で、ですが、お客様がもっと威厳のある顔にしてほしいと仰ったので、私は……」
「俺が悪いと言いたいのか?」
「ち、違います。そういう意味ではありません」
そばに立っていた二人の冒険者も笑い出した。
そのうちの一人が、わざとらしい口調で言う。
「お嬢ちゃん、まさか俺たちの顔で練習しているんじゃないだろうな?」
少女は俯いた。
手に持った化粧用の刷毛を強く握り締め、どう答えればよいのか分からない様子だった。
リナが眉を寄せる。
「入るか?」
アーガが尋ねた。
「はい」
二人が扉を開けて店へ入ると、入り口に取りつけられた小さな鈴が澄んだ音を立てた。
冒険者は振り返り、苛立った声を上げる。
「こっちは取り込み中だ。見れば分かるだろう!」
アーガはしばらく彼の顔を見つめた。
「確かに、問題があるな」
冒険者が眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
「いやあ」
アーガは至って真剣な顔で言った。
「どう見ても問題があるのはあんたの顔なのに、どうして全部この子の責任になるんだ?」
店内が一瞬で静まり返った。
青髪の少女は顔を上げ、呆然とアーガを見つめている。
リナは思わず笑いそうになったが、どうにか真剣な表情を保った。
冒険者の顔がみるみるうちに険しくなる。
「貴様、死にたいのか?」
「元々の顔立ちが違えば、同じ化粧をしても仕上がりが違うのは当然だろう」
アーガは平然と相手を見返した。
「あんたは威厳のある顔にしてほしいと言った。この子は十分頑張ったと思うぞ」
そばにいた二人の客は一瞬固まり、そのうちの一人が堪えきれずに吹き出した。
「おい、何を笑っている!」
冒険者はすぐさま振り返り、その男を睨みつける。
「な、何でもない」
リナはカウンターの前へ歩み寄り、穏やかな声で少女へ尋ねた。
「まず化粧落としの香油で、元の化粧を落とすことはできますか?」
少女は慌てて頷いた。
「できます」
リナは冒険者へ目を向ける。
「本当に急いで人と会う予定があるのなら、ここで言い争いを続けるより、先に顔を直した方がよいと思います」
口調はとても柔らかかったが、その言葉には相手を従わせるだけの明確さがあった。
「もう一度この子に化粧を直してもらい、私たちがそばで確認します。それでも上手くいかなかった場合は、そのとき改めて賠償について話し合えばよいでしょう」
冒険者はまだ怒鳴り続けようとしていた。
しかしリナの静かな目を見たあと、隣に立つアーガへも目を向ける。
最後には不満そうに鼻を鳴らした。
「いいだろう。次はどんな顔にするのか、見せてもらおうじゃないか」
青髪の少女は明らかに安堵した。
すぐに化粧落とし用の香油と布を取り出し、冒険者の顔から元の化粧を丁寧に拭き取っていく。
それから改めて眉の形と、頬に入れる陰影を整え始めた。
リナはそばに立ち、時折小さな声で助言する。
「陰影は、それほど濃くしなくても大丈夫です」
「眉尻もあまり高く上げない方がいいでしょう。高すぎると、少し不自然に見えてしまいます」
「色も、元の肌にもう少し近いものを使った方がよさそうです」
少女は物覚えがよかった。
刷毛を持つ手にはまだ僅かな震えが残っていたものの、動きは先ほどよりも明らかに安定している。
アーガはそばでしばらく眺めていたが、化粧というものが想像以上に複雑な作業であることへ気づいた。
眉の角度を僅かに変え、頬の陰影を薄くしただけで、冒険者の顔は本当に見違えるほどまともになっていた。
決して美男子になったわけではない。
それでも滑稽さは消え、代わりに荒々しさと精悍さが浮かび上がっている。
「できました」
青髪の少女は刷毛を置き、慎重に一歩後ろへ下がった。
冒険者は鏡を手に取り、自分の顔を確認する。
最初から文句をつけるつもりだったのだろう。
しかし鏡の中の自分をしばらく見つめるうちに、その表情は少しずつ気まずそうなものへ変わっていった。
そばにいた客の一人も鏡を覗き込み、冒険者の肩を叩く。
「今度はいいじゃないか。さっきよりずっとまともだぞ」
冒険者は鏡を置き、誤魔化すように咳払いをした。
「まあ、今度は悪くない」
「ありがとうございます」
少女の声は、まだとても小さかった。
冒険者は金を取り出し、カウンターへ置いた。
「最初からこうしておけばよかったんだ」
口の中で不満を呟きながら、二人の仲間を連れて店を出ていく。
三人の姿が消えると、店内にはようやく静けさが戻った。
青髪の少女は長く息を吐いたあと、慌ててアーガとリナの前へ歩み寄り、深々と頭を下げる。
「ありがとうございました。本当に、ありがとうございます!」
「気にしないで。怪我をしなかったのなら、それで十分よ」
リナは手を伸ばし、少女の身体を起こした。
少女が顔を上げる。
目元はまだ少し赤かったが、顔には笑みが戻り始めていた。
「私はティアといいます。この店で働いている店員です。先ほどお二人が来てくださらなかったら、本当にどうすればいいのか分からなくなっていたと思います」
「ティア?」
リナは小さくその名を繰り返した。
「とても可愛らしい名前ですね」
「ありがとうございます、お姉さん」
ティアは少し恥ずかしそうに笑った。
アーガはカウンターに並ぶ小瓶へ目を向ける。
「ずっとこの店で働いているのか? 随分幼く見えるけど」
「私はもう十五歳です」
ティアはすぐに答えた。
「この店の店主は私の姉なんです。ただ今日は第一城区まで仕入れに行っているので、店には私しかいませんでした。普段から私もお客様へ化粧をすることはあるのですが、先ほどのお客様の注文は少し……」
そこまで言ったところで、ティアは慌てて口を閉じた。
客のいないところで悪口を言うのはよくないと思ったらしい。
「少し無茶な注文だったんだろう」
アーガが代わりに言い切った。
ティアは俯いたまま小さく笑い、否定はしなかった。
リナは店内に並べられた品々を眺めたあと、不意に尋ねる。
「私にも少し試してもらえますか?」
ティアの目が一瞬で輝いた。
「もちろんです!」
アーガはリナへ顔を向ける。
「少し試してみるだけです。すぐに終わりますから」
リナは少し恥ずかしそうに説明した。
その間にもティアは淡い色の練り化粧をいくつか取り出し、楽しそうに話し始める。
「お姉さんは肌がとても綺麗なので、濃い化粧は必要ありません。ほんの少し顔色を明るくするだけで、とても綺麗になると思います。それに、その髪飾りには湖水色がよく似合いますから、目元にもごく薄く色を入れてみますね」
アーガには、ティアの話がほとんど理解できなかった。
湖水色の化粧と髪飾りにどのような関係があるのか、まったく分からない。
一方、鏡の前へ座ったリナはとても落ち着いて見えた。
ティアの手つきも、先ほどよりずっと安定している。
まずリナの耳元にある細かな髪を整え、それから目尻と唇へごく淡い色を加えていった。
化粧にかかった時間は、それほど長くなかった。
ティアが刷毛を置くと、リナは鏡へ目を向け、僅かに目を見開いた。
鏡に映る自分が別人になったわけではない。
ただ眉と瞳がいつもより明るく見え、唇の色も柔らかくなっていた。
髪に飾られた淡い青色の小石も、化粧によって引き立てられ、普段より透明感のある輝きを放っている。
「お姉さん、本当に綺麗です!」
ティアは自分のことのように喜んでいた。
「ありがとうございます」
リナの頬が僅かに赤くなる。
彼女はアーガへ顔を向けた。
その瞳には僅かな期待が浮かび、同時に少し緊張しているようにも見えた。
アーガはリナの顔を真剣に眺めた。
今回は化粧の値段について文句を言うこともなく、妙な感想を口にすることもなかった。
「よく似合っている。綺麗だ」
リナは一瞬固まった。
やがて顔を伏せ、静かに笑みを浮かべる。
そばに立っていたティアも何かを察したらしく、口元を押さえながらこっそり笑っていた。
アーガが代金を払おうとすると、ティアはどうしても多く受け取ろうとしなかった。
最も安い試し化粧の料金だけを受け取り、さらにカウンターの奥から淡い色の口紅が入った小箱を取り出して、リナへ差し出す。
「この色は、お姉さんにとてもよく似合うと思います」
ティアは真剣な表情で言った。
「先ほど助けていただいたお礼として、受け取ってください」
リナは何度か断ろうとしたが、ティアが引き下がらなかったため、最後には口紅を受け取った。
二人が化粧店を出るときも、ティアはずっと店の入り口に立っていた。
「また来てくださいね!」
力いっぱい手を振るティアへ、リナも振り返って手を振った。
店から少し離れたところで、アーガが不意に口を開く。
「あの子、なかなか面白いな」
「とても頑張り屋の子ですね」
「ただ、少し人にいじめられやすそうだ」
リナは静かな声で答えた。
「だからこそ、先ほど私たちが店へ入ってよかったです」
アーガは、その言葉を否定しなかった。




