第194話 嵐湾城
通りには明るい陽射しが降り注ぎ、湖から吹く風が嵐湾城の広く賑やかな街道を駆け抜けていく。
遠くからは商人たちの呼び声と、時計塔の長い鐘の音が聞こえていた。
四人が宿を出たとき、その光景につられるように気持ちも少し軽くなった。
嵐湾城は巨大で栄えており、見るものすべてが新鮮に感じられる街だった。
アイラは一番前を歩き、振り返って笑いながら三人を急かす。
「早く来て!」
リナがそのあとを追い、イータも前へ歩き出した。
アーガは宿の入り口に立ったまま三人を見つめていたが、やがて胸の奥に残っていた僅かな不安をしまい込み、彼女たちのあとを追った。
◇ ◇ ◇
翌日の午前。
四人が宿を出る頃には、嵐湾城はすでに大勢の人々で賑わっていた。
第二城区は第一城区ほど華やかではない。
ここには嵐湾城で暮らす住民が多く、通りの両側には小さな店がいくつも並んでいた。
食べ物を売る店。
衣服を扱う店。
木彫りの置物や陶器を並べる店。
通りに直接露店を出している者も多く、店主たちは客へ声を掛けながら、時折顔見知りと楽しそうに話している。
空気の中には焼いた肉や糖蜜、果物の甘い香りが漂い、そこへ湖から吹く風の匂いが混ざっていた。
宿を出たアイラは、すぐに深く息を吸い込んだ。
「いい匂い」
イータも通りに並ぶ露店へ目を向ける。
何も言わなかったが、その目を見れば何を考えているのかは一目瞭然だった。
今日のリナも機嫌がよさそうだった。
歩きやすい淡い色の服へ着替え、髪も簡単に後ろでまとめている。いつもより少しだけ肩の力が抜け、穏やかな雰囲気に見えた。
アーガは彼女の隣を歩きながら通りを眺め、周囲に異変がないか注意を払っていた。
しかし、しばらく歩いても本当に何も起こらない。
自分たちを見張っている者はいない。
指名手配書もない。
守衛が突然近づいてくることもなかった。
「最初はどこへ行きますか?」
リナが尋ねた。
アイラはすぐに前方を指差す。
「あっち! さっき、色のついたお菓子を売っている人がいたの!」
ほとんど同時に、イータは反対側へ顔を向けた。
「あちらには、お肉があります」
アイラが振り返る。
「朝ご飯なら、さっき食べたばかりでしょう?」
イータは真剣な顔で答えた。
「あれは朝ご飯です」
「それで?」
「今は、別の物を食べられます」
アイラは何も言い返せなくなった。
アーガは少し離れた別の通りを見たあと、湖の方角へも目を向けた。
「第二城区も小さくないし、行きたい場所もそれぞれ違うみたいだな」
リナが微笑む。
「それなら、別れて見て回りませんか?」
「私は第一城区へ行ってみたい!」
アイラがすぐに言った。
「宿の女将さんが、第一城区には綺麗な物がたくさんあるって言っていたの。それに湖では船にも乗れるみたい」
イータは黙ってアイラを見つめた。
アイラは一度言葉を止め、慌てたように付け加える。
「もちろん、美味しい物も買えるわよ」
イータは素直に頷いた。
「行きます」
アーガはリナへ目を向ける。
「なら、俺たちは第二城区を適当に歩いてみるか?」
「はい」
こうして四人は自然に二組へ分かれた。
アイラとイータは第一城区へ続く橋を渡り、北側へ向かう。
アーガとリナはそのまま第二城区に残った。
別れる前に、アーガが二人へ念を押す。
「日が暮れる前には宿へ戻れよ」
アイラは片手を振った。
「分かってるわよ」
イータも頷く。
「分かりました」
「なら、行ってこい」
アーガが二人を見ると、四人は揃って笑った。
◇ ◇ ◇
第二城区の通りは、二人が思っていた以上に面白い場所だった。
最初は本当に、何となく歩いていただけだった。
しかしアーガと並んで通りを歩いているうちに、リナは遅れてあることへ気づいた。
アイラとイータは、すでに隣の第一城区へ行っている。
ここにいるのは、自分とアーガだけ。
二人きりで街を歩き。
一緒に食べ物を買い。
通りの賑わいを眺めている。
その考えが浮かんだ瞬間、リナの足が僅かに止まった。
これは、まるで……。
デートではないだろうか。
耳の根元が一気に熱くなる。
リナは慌てて通りの露店へ視線を移し、商品を見ているふりをした。
しかし意識すればするほど、隣を歩くアーガの存在が気になってしまう。
アーガは何も気づいていないようだった。
通りの両側へ目を向けながら、どこが安全なのか、どこに人が集まっているのか、どの店の値段が高すぎるのかを確認しているように見える。
リナはそっと横顔を盗み見たあと、すぐに視線を戻した。
ただ二人で歩いているだけ。
心の中で何度もそう言い聞かせる。
それでも頬の熱は、なかなか引いてくれなかった。
しばらく歩くと、リナは道端にある蒸し菓子の露店へ目を奪われた。
丸い木製の蒸籠の中に、白く柔らかそうな菓子が並べられている。
店主が蓋を開けた瞬間、真っ白な湯気がまとまって立ち上り、淡い米の香りと花蜜の甘い匂いが周囲へ広がった。
湯気が風に流されると、空気まで少し甘くなったように感じられる。
店主はふくよかな中年の女性だった。
笑うと両目が細い線のようになる。
「お嬢さん、一つ食べてみないかい? 第二城区の桂蜜糕は、とっても甘くて美味しいよ」
リナが答えるより先に、アーガは値札へ目を向けた。
「一つ銅貨三枚?」
店主はすぐに言い返す。
「お兄さん、値段だけ見ちゃいけないよ。桂花の蜜だけじゃなく、湖の近くで採れた白米の粉も使っているんだからね。高い物には高い理由があるのさ」
アーガは明らかに信じていなかった。
しかしリナは、すでに甘い香りへ惹かれている。
「二つ買いましょう」
アーガはリナを一度見たものの、それ以上何も言わず素直に代金を払った。
受け取った桂蜜糕は、まだ触れた指が熱くなるほど温かい。
リナは慎重に息を吹きかけ、少し冷ましてから小さくかじった。
柔らかな米の食感と、花蜜の上品な甘さが口の中へ広がる。
リナの目が一気に輝いた。
「とても美味しいです」
アーガも自分の桂蜜糕を一口食べた。
甘さはそれほど強くなく、柔らかな米の生地の中へ僅かに花蜜が練り込まれている。
確かに、思っていたより美味しかった。
店主が得意そうに笑う。
「どうだい? 嘘じゃなかっただろう?」
アーガは飲み込んだあと、真剣な顔で答えた。
「味は悪くない」
店主が笑顔を浮かべようとした瞬間、アーガは言葉を続けた。
「でも、銅貨三枚はやっぱり高い」
店主は黙り込んだ。
「……」
リナは我慢できずに笑い声を漏らした。
手に持った桂蜜糕へ目を落とすと、先ほど頭に浮かんだデートという言葉を思い出し、胸の奥がまたふわりと軽くなった。
湯気に当てられたせいなのか。
それとも別の理由なのか。
頬の熱は、今も下がっていなかった。
数歩進んだところで、リナはアーガを見た。
それから自分が一口かじった桂蜜糕へ目を落とす。
そのとき、ほんの少しだけ大胆な考えが浮かんだ。
自分でも驚いてしまうほど、小さくて大胆な考えだった。
「アーガ様~」
リナはわざと軽い調子を作り、自分の桂蜜糕を自然な動作で差し出した。
「こちらの味も、食べてみますか?」
アーガは桂蜜糕へ目を向ける。
「美味しいんだろ?」
「はい」
リナはできる限り平静な声を出した。
「美味しいので、アーガ様にも食べていただこうと思って」
本当は、少しからかってみたかっただけだった。
自分がすでにかじった場所を差し出している。
アーガなら一瞬戸惑うか、少なくとも意味に気づき、「いや、いい」などと言うと思っていた。
しかしアーガは何の迷いもなく顔を近づけ、そのままリナが差し出した場所へかじりついた。
リナの身体が固まった。
アーガは二度ほど噛み、真剣な顔で感想を口にする。
「おっ、こっちはいいな。俺のより少し甘い」
「えっ!?」
本当に食べた。
何の躊躇もなく、そのまま食べてしまった。
しかも何か特別な意味があるとは、まったく気づいていないように見える。
リナはゆっくりと手を引き戻し、二人が同じ場所をかじった桂蜜糕を見つめた。
耳まで先ほど以上に赤くなっていく。
ただ少し、からかってみたかっただけだった。
本当に食べるとは思っていなかった。
それも、一切迷うことなく。
突然黙り込んだリナを見て、アーガが尋ねる。
「どうした?」
リナは二人の歯形が残った桂蜜糕を呆然と見つめていた。
頬が少しずつ赤くなり、言葉まで上手く出てこない。
「アーガ様……」
その声はとても小さかった。
周囲の者に聞かれることを恐れているようでもあり、自分自身でもこの状況をどう受け止めればよいのか分かっていないようでもある。
「本当に、食べたんですね……」
そんなリナを見つめるアーガの目に、僅かな笑みが浮かんだ。
すぐには何も言わず、片手を伸ばしてリナの頭を優しく撫でる。
リナの身体が僅かに強張り、頬の赤みがさらに深くなった。
アーガの声は落ち着いていたが、どこか意図的な優しさが含まれている。
「もう一口、食べようか?」
リナはほとんど反射的に首を振った。
「いりません……」
慌てて桂蜜糕を引き戻し、顔を伏せたまま前へ歩き出す。
そして自分の動揺を隠すように、もう一度小さく桂蜜糕をかじった。
アーガもあとを追う。
歩いているうちに、リナの身体の横へ下ろされていた手が、アーガの手の甲へそっと触れた。
本当に僅かな接触だった。
ただ偶然ぶつかっただけのようにも思える。
それでも、長い間迷った末にようやく勇気を出した、小さな歩み寄りのようにも感じられた。
アーガも、その感触へ気づいた。
しかし手を離すことはなかった。
次の瞬間、アーガはリナの手を掴んだ。
そのまま彼女の指の間へ自分の指を入れ、しっかりと手を繋ぐ。
リナの歩みが一瞬だけ遅くなった。
顔を伏せたまま指先へ僅かに力を込める。
緊張している。
それでも、手を離したくないのだろう。
一方のアーガの胸にも、様々な思いが浮かんでいた。
(リナも、この数年は大変だったよな)
(俺のせいで、随分苦労をかけた気がする)
アーガは握る力を少しだけ緩めた。
それでも手を離すことはなかった。
しばらく歩いたあと、リナが小さな声で呼びかける。
「アーガ様……」
「何だ?」
「ずるいです」
アーガは小さく笑った。
否定はしなかった。
リナの手を引いたまま歩き続け、先ほどよりも柔らかな声で言う。
「今日は何も考えず、思いきり楽しもう」
◇ ◇ ◇
二人がさらに通りを進むと、何人かの大道芸人が芸を披露していた。
高い帽子を被った男は、袖の中から色鮮やかな布を次々と取り出していく。
赤。
青。
黄色。
何本もの布が男の手の中へ集まったかと思うと、最後には翼を動かす一羽の紙の鳥へ姿を変えた。
その隣では、若い少女が大きな木の球へ乗っている。
足元の球は前後へ何度も転がっていたが、少女は一度も体勢を崩さない。
時折両手を大きく広げるたびに、周囲の子供たちから驚きの声が上がった。
芸人が危険そうな動きを見せるたび、人々の間から大きな歓声が響く。
リナも真剣な表情で芸を見つめていた。
その瞳は明るく輝き、唇にはずっと笑みが浮かんでいる。
先ほど甘い物を食べたからかもしれない。
今日の陽射しが心地よいからかもしれない。
それとも、ただアーガが隣にいるからなのか。
リナは、この瞬間がとても穏やかに感じられた。
アーガも最初はリナに付き合って見ているだけだったが、やがて紙の鳥を作る芸へ興味を惹かれていった。
男の手のひらから飛び立った紙の鳥は、空中を一周する。
そして最後には、一人の少女の肩へそっと降り立った。
少女は驚きと喜びに目を見開き、両手で口元を覆う。
周囲から一斉に拍手が湧き起こった。
リナも笑みを浮かべながら、静かに手を叩いた。




