第193話 前夜
馬車は、今もゆっくりと道を進んでいた。
車輪が平坦とは言い難い土の道を踏み、一定の間隔で小さな軋みを上げる。道の両側に並ぶ木々の影は風に揺れ、枝葉の間から差し込む陽光が車内へ入り、四人の服へ斑模様を描いていた。
嵐湾城までは、もうそれほど遠くない。
アイラは車内の片側へ座り、自分のカードを両手で大切そうに持っていた。先ほどからカードについて次々と質問を投げかけ、アーガも一つずつ根気よく答えている。
馬車はそのまま進み続けた。
しばらくして、何かを思い出したようにアイラが尋ねる。
「そういえば、アーガ様。どうして私たちは、嵐湾城へ行かなければならないの?」
リナもアーガへ目を向けた。
その疑問は、以前から三人とも抱いていた。ただ道中では様々なことがあり、落ち着いて尋ねる機会がなかったのだ。
イータも顔を上げる。
アーガは車内の壁へ背中を預け、落ち着いた声で答えた。
「嵐湾城の近くに、小さな鉱脈があるからだ」
「鉱脈?」
アイラの目が輝いた。
「宝石がたくさん採れるの?」
「普通の宝石じゃない」
アーガは言った。
「あそこでは魔晶石が採れる」
魔晶石という言葉を聞き、リナの表情が僅かに動く。
イータが尋ねた。
「アーガ様は、上等な魔晶石が欲しいんですか?」
アーガは頷いた。
「買えるなら、それが一番いい。買えなければ、ほかの方法を考える。できれば数個は手に入れたい」
◇
馬車が林道を抜けると、目の前の景色が一気に開けた。
今日はよく晴れていた。
遠くの空は澄み渡り、淡い雲が地平線に沿って広がっている。降り注ぐ陽光が、街道や木々、湖面、そして遠方の城壁まで明るく照らしていた。
窓の外から吹き込む風には、僅かな水気が含まれている。
山の岩と草木が混ざったような匂いもした。
最初に窓から顔を出したのはアイラだった。
「もう着くの?」
御者が外から笑って答える。
「お客さん方、前に見えるのが嵐湾城ですよ」
その言葉を聞き、車内にいた全員が外を見た。
最初に目へ入ったのは、一つの城壁に囲まれた完全な都市ではなかった。
湖と丘、何本もの街道によって分けられた、広大な市街地だった。
嵐湾城は、一般的な都市のように、一枚の城壁だけで囲まれているわけではない。
むしろ、四つの小都市が集まり、一つの大きな街を形成しているように見えた。
最も北側、山麓と湖の入り江に挟まれた市街地が、嵐湾城の第一城区だった。
嵐湾城全体の中で、最も栄えている場所でもある。
道は広く、商店が密集し、行き交う馬車や人の数も多い。遠くからでも、商会の旗や高くそびえる時計塔の尖塔が見えた。
第一城区の南側には、楕円形の小さな湖があった。
それほど広い湖ではない。
しかし、街の中へ埋め込まれた青い宝石のように、北側と南側を分けている。
その楕円湖の南にあるのが、第二城区だった。
第一城区と比べると少し静かで、建物も低い。住宅や倉庫、小規模な工房が多く並んでいた。
さらに西へ目を向けると、南北へ細長く伸びる湖が見える。
陽光を受けた湖面は琥珀色に輝き、遠くから見ると、地面へ細長い琥珀を埋め込んだようだった。
その長湖は、西側の市街地と東側の小高い山を隔てている。
長湖の西、小山の左側に広がる市街地が、第三城区だった。
中心部からは少し外れているが、外部へ続く街道に近い。城門付近には多くの荷馬車が集まり、商品の集積地や旅人の宿泊地として使われているようだった。
東側の小山を越え、山道に沿って登った先には、斜面へ張りつくように造られた第四の市街地が見えた。
そこが第四城区だった。
第四城区は鉱脈に近く、嵐湾城の中でも最も特殊な場所だ。
山の下にある三つの城区と比べると、建物は密集し、石造りの壁が多い。道幅も狭かった。
遠くには、山道をゆっくり移動する鉱車が見える。山腹には鉱山の入り口らしき場所や、そこを守る兵士たちの姿もあった。
二つの湖と一つの小山によって、嵐湾城全体は自然に四つの区域へ分けられていた。
アイラは窓際へ身を寄せたまま、呆然と景色を見つめている。
「大きすぎない……?」
リナも思わず小声を漏らした。
「普通の鉱山都市だと思っていたけれど、こんなに多くの区域へ分かれているのね。全部合わせれば、赤骸城や暮星城よりも大きいわ」
イータは山上の第四城区を見つめた。
「鉱脈の近くには、守衛がたくさんいます」
アーガは頷いた。
第四城区から視線を外し、最も栄えている第一城区へ目を向ける。
「いきなり鉱脈へ近づく必要はない」
彼は言った。
「まずは街で情報を集める」
馬車は大通りを進み、間もなく第三城区の外側にある入り口へ近づいた。
城門付近には多くの人が集まっていた。
商隊、旅人、傭兵、鉱夫。それに様々な長衣を着た商会の者たちが行き交っている。
門の両側には守衛が立ち、街へ入る者や荷物を確認していた。
アーガは襟元を整えたあと、荷物から帽子を取り出した。
頭へ被り、つばを下げて顔の一部を隠す。
それを見たアイラも、すぐに自分の帽子を取り出した。
被りながら、小声で尋ねる。
「目立たないようにした方がいい?」
「ああ」
アーガは答えた。
「嵐湾城は人も多いし、色々な噂が集まる。最初は目立たない方がいい」
アイラは真剣に頷き、帽子のつばを深く下げた。
その姿を見たリナが、思わず注意する。
「そこまで深く被ると、逆に怪しく見えるわよ」
アイラの動きが止まった。
黙って帽子のつばを少し上げる。
やがて、馬車がゆっくりと停車した。
御者が振り返る。
「お客さん方、嵐湾城に着きましたよ」
アーガは車内の幕を上げ、最初に馬車を降りた。
アイラがすぐ後ろから飛び降り、リナとイータも順番に外へ出る。
四人は城門の前へ立ち、人の波が流れ込んでいく巨大な街を見上げた。
耳へ届くのは、商人の呼び声、車輪の音、馬の蹄の音、そして遠くから響く鐘の音だった。
湖から吹く風には、淡い湿り気が含まれている。
アイラは街の中心へ伸びる広い道を見つめ、それから湖や丘の向こうにある別の城区へ視線を移した。
再び感嘆の声を漏らす。
「この街……本当に大きいわね」
リナも静かに頷いた。
イータの視線だけは、今も山上の第四城区へ向けられている。
アーガは帽子のつばを軽く押さえた。
「行くぞ」
アーガとアイラは帽子を被り、リナとイータがそのそばへ並ぶ。
四人は街へ入る人々の流れに混ざり、一緒に嵐湾城へ足を踏み入れた。
街へ入った直後も、アーガは警戒を解かなかった。
帽子のつばは極端に低くはないが、顔の大部分を隠せる位置まで下げている。
アイラも最初は彼の真似をして、慎重に人混みの中を歩いていた。時折、城門付近の掲示板へ盗み見るような視線を向ける。
しかし、アーガの予想に反して、掲示板には様々な紙が貼られていた。
商会の求人。
鉱区の一時通行止めに関する通知。
護衛を募集する傭兵隊の依頼。
迷子になったペットを捜す張り紙まである。
だが、アーガとアイラに関する指名手配書だけが見当たらなかった。
アーガは掲示板の前へ立ち、長い間内容を確認した。
念のため新聞まで買ったが、やはり二人に関する記事はない。
「おかしい……」
アーガが低く呟く。
アイラがそばへ寄ってきた。
「どうしたの?」
「俺たちの情報がない」
アーガは答えた。
アイラは目を瞬かせる。
「ないなら、いいことじゃない?」
「いいことではある」
アーガは眉を寄せた。
「だが、静かすぎる」
あれだけ多くの出来事が起きたあとで、外にまったく情報が広がっていないとは考えにくかった。
都市同士の情報伝達に時間がかかるとしても、ここまで旅を続けてくれば、何らかの噂くらいは耳にするはずだ。
しかし、嵐湾城には何もなかった。
念のため、アーガは焼き菓子を売っている露店へ向かった。
焼きたての菓子を数枚買い、何気ない口調で店主へ尋ねる。
「店主、最近この辺りで逃亡者の噂はないか? アーガという男と、アイラという女なんだが」
中年の店主は鉄板の上にある菓子を裏返しながら、気軽に答えた。
「逃亡者? 聞いたことがないな。鉱夫同士の喧嘩ならしょっちゅうだが、逃亡者なんて話は知らないぞ」
アーガはさらに尋ねる。
「街には指名手配書も貼られていないのか?」
店主は笑った。
「指名手配書なんて、そんなに頻繁に出るものじゃないだろう。本当に危険な逃亡者がいるなら、守衛が街中で人を調べているはずだ」
「今の様子を見て、何か起きているように見えるか?」
アーガは城門を振り返った。
守衛は人や荷物を確認しているが、検査はそれほど厳しくない。
多くの場合、荷物を簡単に見て、二、三質問するだけで通していた。
通りには多くの人が行き交い、商人の呼び声が絶えない。
街全体が賑やかで、ごく普通の日常を送っているように見えた。
逃亡者を捜している雰囲気など、まるでない。
「それもそうだな」
アーガは焼き菓子を受け取り、代金を支払った。
三人のもとへ戻ってきたときも、表情には考え込むような色が残っている。
リナはすぐに気づき、静かに尋ねた。
「まだ何かおかしいと思っているの?」
アーガは頷き、少し困ったように笑った。
「多少はな。ただ、俺にも何がおかしいのか分からない」
イータが言った。
「まだ情報がここまで届いていないのかもしれません」
「そうかもしれないな」
アーガは答えた。
だが、その説明だけでは納得できないことを、自分でも分かっていた。
そのとき、隣にいたアイラが長く息を吐いた。
アーガが振り向く。
アイラはすでに帽子を脱いでいた。
淡い色の髪が風に揺れ、全身から一気に緊張が抜けたように見える。
「やっぱり、被っていない方がすっきりするわ」
満足そうに言った。
アーガはしばらく黙った。
改めて周囲を確認する。
通りを歩く者は誰も彼らへ注目していない。
人々はそれぞれ自分の目的地へ向かい、商人は商品の呼び込みを続けていた。
子供たちが木製の球を追いかけながら道端を走り抜け、傭兵の一人は壁へ背中を預け、大きな欠伸をしている。
アーガは少し迷ったあと、自分も帽子を脱いだ。
陽光が顔へ当たった瞬間、思わず小さく息を吐く。
アイラはすぐに笑った。
「ほら。こっちの方が楽でしょう?」
アーガは帽子を荷物へしまい、僅かに笑った。
「少しはな。まず宿を探すぞ」
四人は、第三城区の大通りに近い場所で宿屋を見つけた。
それほど豪華ではないが、店内は清潔だった。
一階には宿泊客が食事を取るための広間があり、二階には客室が並んでいる。
荷物を部屋へ置いたあと、四人は再び一階へ下りた。
先ほど街へ入ったときから、三人は通りの賑わいへ興味を引かれていた。
しかし、まずは宿を確保する必要があったため、立ち止まらずに歩いてきたのだ。
荷物を置いた途端、アイラの目が輝いた。
「外を見て回ってもいい?」
リナは彼女ほど直接口にはしなかったが、顔には明らかな期待が浮かんでいる。
イータは平静を装っていたものの、すでに何度も窓の外へ視線を向けていた。
アーガは三人を見て、笑った。
「今日は好きに見て回ろう」
「魔晶石について調べるのは、明日からでいい。まずはこの街に慣れるぞ」




