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第192話 風

アイラがようやく腕を解いたときも、アーガはまだ草の上に仰向けで倒れていた。


背中の下敷きになった荷物は大きく形を崩し、中に入っていた保存食と縄が押し合い、がさがさと騒がしい音を立てている。


アイラは彼の上に覆い被さったままだった。


目元はまだ赤い。それでも顔には明るい笑みが浮かび、胸の奥にあった最も大切な言葉をようやく口にできたことで、身体まで軽くなったように見えた。


アーガは間近にある彼女の顔を見つめた。


耳の赤みは、まだ完全には引いていない。


「そろそろ退いてくれないか?」


アイラは目を瞬かせた。


そこで初めて、自分がまだ彼の上に乗っていることへ気づいたらしい。


「あ……」


慌てて両手をつき、身体を起こす。


その頬も、少しずつ赤くなっていった。


「ごめんなさい」


リナはそばに立ち、わざと別の方向へ顔を向けていた。


イータの耳は立ったり垂れたりを繰り返している。顔はアイラ以上に赤くなっていたが、それでも我慢できず、何度も二人の方を盗み見ていた。


アーガは身体を起こし、服についた草を払い落とした。


「これからは、突然飛びついてくるな」


アイラは顔を伏せる。


声は小さかったが、はっきりと笑みが含まれていた。


「ええ」


しばらく大人しくしていたが、すぐにまた顔を上げる。


「アーガ様」


「今度は何だ?」


「私にも、力を与えてくれますか?」


荷物を整えていたアーガの手が止まった。


リナとイータも、同時にアイラへ目を向ける。


アーガは眉を寄せた。


「お前は元々、力を持っているだろ」


アイラは一瞬きょとんとしたあと、静かに首を横に振った。


「そういう意味ではないの」


自分の手を上げ、掌を見つめる。


「私は、魔法を一つも使えないわ」


その言葉を聞いた瞬間、イータの目が大きく見開かれた。


「えっ? でも、アイラお姉さんの魔力はすごく高いです」


リナも意外そうな表情を浮かべる。


「私たちよりも強い魔力を感じるわ」


「魔力が高いからといって、魔法が使えるとは限らないの」


アイラが説明した。


「私はずっと、剣技と身体能力だけで戦ってきたわ。薬剤や薬草について学んだのは、そのあと。魔法だけは、一度も正式に選んだことがないのよ」


アーガは彼女を見た。


「なぜだ?」


アイラは少し恥ずかしそうに笑った。


「子供の頃に、里から逃げ出したから」


「エルフは普通、成人する前後に自分へ合った魔法の系統を選び、一族の年長者から指導を受けるの。でも私は、将来を勝手に決められるのが嫌だった」


「だから魔法を選ぶ前に、里を抜け出してしまったのよ」


アーガはしばらく黙った。


「何歳で逃げた?」


「三十歳」


アーガはアイラを見た。


リナとイータも彼女を見る。


三人に一斉に見つめられ、アイラは少し居心地が悪そうに身じろぎした。


「何?」


アーガが尋ねる。


「それなら、今はいくつだ?」


アイラは目を瞬かせた。


「四十五歳よ」


イータの耳が、一気に真っ直ぐ立ち上がった。


「アイラお姉さん、もう四十五歳なんですか?」


アイラは小さく笑う。


「エルフとしては、まだとても若いわ」


アーガは顎へ手を当てた。


「普通のエルフは、三百年くらい生きるんだったか?」


「そのくらいね」


アイラは頷いた。


「血筋の強い者なら、それ以上生きることもあるわ」


アーガは彼女を見つめ、不意に何とも言えない表情を浮かべた。


「へえ……」


アイラは眉を寄せる。


「何よ、その反応」


「別に」


アーガは答えた。


「本当にまだ若いんだなと思っただけだ」


アイラは僅かに目を細めた。


「今、年上だと言おうとしたでしょう?」


「言っていない」


「本当に?」


「本当だ」


イータが小声で言った。


「アーガ様が『言っていない』と言うときは、大抵思っています」


アーガが彼女を見る。


イータはすぐにリナの後ろへ隠れた。


リナは我慢できず、小さく笑った。


張りつめていた夜の空気が、何気ないやり取りによって少しずつ和らいでいく。


暮星城の灯りは、すでに遥か後方へ遠ざかっていた。


追っ手の姿もない。


森に聞こえるのは、夜風と草木が擦れ合う音だけだった。


アーガは荷物から、魔晶石を入れた小袋を取り出した。


リナが丁寧に保管していたため、上等な魔晶石は何重もの布に包まれていた。


一年が過ぎた今も、内部の魔力は純粋なままだった。


夜の中で淡い光を放つ姿は、石の中へ閉じ込められた星のようにも見える。


アイラは魔晶石を見つめ、僅かに目を動かした。


「これが、カードを発現させるために使うもの?」


「ああ」


アーガが答える。


「上等な魔晶石は貴重だ。無駄にはできない」


そう言って、カードケースを開いた。


リナとイータは静かになった。


アーガが力を与える際には、高い集中力が必要になることを知っている。彼にとっても、決して負担の軽い作業ではない。


アイラは、その一連の過程を最初から見るのは初めてだった。


無意識のうちに、少し前へ身を乗り出す。


「どんな系統がいい?」


アイラは、ほとんど迷わなかった。


「風がいいわ」


アーガが彼女を見る。


アイラは一度言葉を止めたあと、少しだけ笑った。


「風が好きなの」


アーガは、それ以上理由を尋ねなかった。


上等な魔晶石を一つ手に取り、続いて《赤の四――風》を取り出す。


最初、カードの表面は暗いままだった。


アーガは上等な魔晶石を飲み込み、指先から魔力をカードへ流し込んだ。


魔晶石に宿っていた光が急速に薄れていく。


それとは反対に、《赤の四――風》の表面には、細かな魔力の紋様が少しずつ浮かび上がった。


カードの周囲から、風が巻き起こる。


足元の草が、さわさわと揺れた。


アイラの瞳が一気に輝く。


「これが、風?」


「ああ」


僅かな痛みはあったが、アーガはすでに慣れていた。


今回の力の注入も、問題なく進んだ。


アーガは発現した《赤の四――風》を持ち直し、さらに小王のカードを取り出す。


小王の表面が、夜の中で微かな光を帯びた。


二枚のカードを近づけると、その間にある魔力が、目には見えない糸によって結びつけられたように動き始める。


アーガは目を閉じ、《赤の四――風》に宿る力の一部を、慎重に切り離していった。


風の音が、次第にはっきりしていく。


森を吹き抜ける夜風ではない。


カードの中から生まれた、新しい風だった。


風はアイラの指先を巡り、外套の裾を持ち上げ、銀白色の髪を優しく揺らす。


小王のカードが、一度強く輝いた。


《赤の四――風》から分離した魔力が宙へ集まり、新しい一枚のカードへ形を変えていく。


完成したカードは、ゆっくりと地上へ降りた。


そして、アイラの掌へ収まる。


カードの色は淡い赤だった。


中央には渦巻く風の紋様が描かれ、縁にはアーガのカードとよく似た魔力の線が刻まれている。


ただし、その印象は本物よりも軽やかだった。


アイラは両手でカードを持った。


瞳には、溢れそうなほどの光が宿っている。


「これが、私のカード?」


「ああ」


アーガは答えた。


「力の源は、俺のカードから分けたものだ。だから無茶はするな」


「まずは、魔力を感じ取れるか試してみろ」


しかし、アイラはすぐにカードを試そうとはしなかった。


突然アーガへ駆け寄り、その身体を強く抱き締める。


今度は倒されなかったものの、力は相変わらず強かった。


アーガが反応する前に、顔を柔らかな胸元へ押しつけられてしまう。


「アーガ様!」


声が少し籠もって聞こえた。


アーガの身体が完全に強張る。


「ま、待て……」


アイラはさらに強く抱き締めた。


嬉しさを抑えきれないのか、声も普段より少し高くなっている。


「ありがとうございます!」


隣に立つリナとイータの顔も、再び赤くなった。


イータが小声で呟く。


「アイラお姉さん、大胆です……」


リナは一度咳払いをした。


「あまり見続けない方がいいわ」


アーガはどうにか顔を彼女の胸元から動かした。


耳は、誰の目にも分かるほど赤くなっている。


「分かった、分かったから離せ。カードを試すんじゃなかったのか?」


アイラはようやく腕を解いた。


それでも、顔には満面の笑みを浮かべている。


「はい!」


アーガは数歩後ろへ下がり、普段どおりの表情を取り戻そうとした。


「あまり人へ向けるな。向こうの木のそばにある石を狙え」


アイラは頷き、両手で風のカードを持った。


目を閉じ、先ほどアーガから教えられた方法に従って、自分の魔力をカードへ流し込む。


最初は指の間から風が漏れ、まとまりなく周囲へ吹き散らされた。


しかし数呼吸が過ぎると、風は次第に安定していく。


手の中のカードへ集まり、細く薄い弧を形作った。


アイラは目を開いた。


腕を横へ振る。


一筋の風刃が放たれた。


草地の上を切り裂くように進み、木のそばにある石へ命中する。


石の表面には浅い傷が刻まれ、その周囲に生えていた草は、揃って切断された。


イータは驚いて口を大きく開けた。


「すごいです!」


リナも真剣な目で痕跡を確認する。


「初めてなのに、もう使えたのね。制御も安定しているわ」


アイラは手の中にあるカードを見下ろした。


まだ信じられないような表情を浮かべている。


アーガは石についた傷を確認し、頷いた。


「悪くない」


「剣技と組み合わせて使えるはずだ。風刃は威力を追い求める必要はない。まずは速度と精度を鍛えろ」


「遠くから牽制する。縄を切る。目を狙う。正面から硬いものを斬るより、その方が役に立つ」


アイラは彼を見る。


「あなたが教えてくれるの?」


「時間があるときにな」


「それなら、教えてくれるということね」


「おい。勝手に意味を付け足すな」


アイラは笑いながら、風のカードを大切そうにしまった。


イータも近くまで寄り、羨ましそうにカードを覗き込む。


尻尾が小さく揺れていた。


「アイラお姉さんも、アーガ様から力をもらったんですね」


その言葉を聞き、アイラの手が僅かに止まった。


顔を上げ、アーガを見る。


アーガは聞こえなかったふりをするように、カードケースを荷物へ戻していた。


それでもアイラには分かった。


このことも、先ほどの「一緒に旅をしたい」という願いと同じだった。


彼は拒絶しなかった。


自分はもう、ただ助けられただけの人間ではない。


少なくとも今夜からは、この一行と共に歩き続けるための力と理由を得ることができた。


夜はさらに深くなっていた。


暮星城は遥か遠く、今ではぼやけた灯りしか見えない。


アーガは立ち上がり、荷物を背負い直した。


それから、森の外へ続く道を確認する。


「行くぞ」


イータがすぐに尋ねた。


「アーガ様、次はどこへ行くんですか?」


アーガは新聞店でついでに買っておいた古い地図を広げた。


暮星城から南へ進めば商業街道がある。


西へ向かえば、赤骸城の近くへ戻ることになるため危険だった。


東には山地といくつかの小さな街がある。道は歩きにくいが、追っ手は少ないだろう。


さらに南東へ進めば、湖と風の通り道に近い街が一つあった。


アーガは、地図に記された名前を指差した。


「嵐湾城だ」


リナが地図を覗き込む。


「ここから遠いの?」


「近くはない」


アーガは答えた。


「ただ、途中で大きな街を避けられる。追跡から逃れるにも都合がいい」


アイラは、その名前を静かに繰り返した。


「嵐湾城……」


イータは荷物を背負い直した。


耳も再び真っ直ぐ立ち上がっている。


「それでは、出発しましょう」


アーガはイータを一度見たあと、リナとアイラへ目を向けた。


リナは頷く。


アイラも懐にしまったカードへ指先でそっと触れた。


顔には、まだ消えきっていない笑みが残っている。


四人は森の端に続く小道を歩き始めた。


背後にある暮星城は、少しずつ遠ざかっていく。


そして、彼らの前に続く道は、まだ長かった。


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