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第190話 逃亡

部屋はそれほど広くなかったが、きれいに片づけられていた。


机の上には食べかけの保存食がいくつか置かれ、壁際には依頼で使う外套が掛けられている。隅には、イータが整理した素材袋も積まれていた。


アーガは室内を一度見回した。


以前、彼らが暮らしていた宿屋の部屋よりも、ここは仮住まいの家らしく見えた。


イータはずっと彼の隣へ身体を寄せて座っている。


少しでも離れれば、またアーガが消えてしまうと恐れているようだった。


リナは水を注ぎ、アーガへ差し出した。


そのとき、服の隙間から見える古傷に気づき、手を僅かに止める。


「たくさん怪我をしたのね」


「もう治った」


イータが顔を上げた。


「本当ですか?」


アーガは彼女を一度見た。


「ほとんどは」


イータの目に、また涙が浮かび始める。


アーガは仕方なく言葉を付け加えた。


「今は本当に問題ない」


部屋の中が、しばらく静かになった。


最後に口を開いたのはリナだった。


「この一年間、どこにいたの?」


アーガは雪崩のあとに起きたことを、簡単に説明した。


氷の谷へ流されたこと。


厚い氷に閉ざされ、夏になるまで脱出できなかったこと。


谷に棲む魔物や、そこで続けていた訓練のこと。


アイラも隣から、時折小さな声で説明を補った。


話を聞いているうちに、イータの目から再び涙がこぼれた。


アーガの腕を抱き締める。


「アーガ様、もう二度と一人でそんなことをしないでください」


リナはアイラを見つめ、しばらく沈黙したあとに尋ねた。


「エイヴンは?」


その瞬間、部屋の空気が変わった。


アイラの顔色が僅かに白くなる。


アーガは南山で起きたことを話した。


セインが竜王に呑み込まれたこと。


マシューが食い殺されたこと。


そして、竜王が襲いかかってきたとき、エイヴンがアイラを前へ突き飛ばしたこと。


そこまで聞くと、リナの眼差しは完全に冷え切った。


イータも身体を強張らせる。


記憶の中にいる穏やかなエイヴンと、今聞かされた行動を、どうしても同じ人物として結びつけられないようだった。


「それなのに、街ではまだアイラお姉さんが逃げたことになっているんですか?」


イータが小声で尋ねる。


「ああ」


アーガは答えた。


「城門にも指名手配書が貼られたままだ」


リナは眉を寄せた。


「それなら、二人が戻ってきたのは危険ね」


「だから出ていく」


アーガは机の上にある古新聞を見た。


「公会には行けない。城衛所も同じだ。アイラの事件は、もうこういう形で広まっている。暮星城で潔白を証明するのは難しい」


「このまま残っても、捕まるだけだ」


一度言葉を止めてから、静かに続けた。


「やっぱり、ここを離れるしかないな」


イータはすぐに頷いた。


「私も一緒に行きます」


リナも迷わなかった。


「私も行く」


二人を見ながら、アーガは胸の中に長く引っかかっていた息を、ようやく吐き出した。


だが、すぐに別のことを思い出し、思わず溜息をつく。


「ただ、残りの報酬を受け取れなかったのは惜しいな」


リナが目を瞬かせた。


イータも同じように、ぱちぱちと目を動かす。


部屋を満たしていた重苦しい空気が、その一言によって一瞬止まった。


リナはアーガを見つめたあと、突然、寝台の下から一つの包みを引き出した。


机の上へ置き、縄を解く。


中から現れたのは、金貨の入った袋と、布に包まれた上等な魔晶石だった。


アーガの目つきが、はっきりと変わる。


「これは……」


「あなたがいなくなったあと、会長が南山討伐の協力者名簿に従って、報酬の一部を追加で支給したの」


リナが説明した。


「最初は私たちでは受け取れなかった。でも、そのあと何度も取りに行った」


アーガは机の上にある金貨と魔晶石を、長い間黙って見つめていた。


やがて手を伸ばし、イータの頭を撫でる。


それからリナを見た。


「よくやったな」


リナは何かを言おうとしていた。


しかし、その言葉を聞いた瞬間、再び目元が少し赤くなった。


イータは勢いよくアーガへ抱きついた。


机の上に置かれた魔晶石が、灯りを受けて明るく輝いている。


外では、暮星城の鐘が再び鳴り始めた。


この街はもう、彼らが留まり続けられる場所ではない。


それでも、旅立つ前にアーガは、最も会いたかった人たちを取り戻すことができた。


     ◇


再会を終えたあと、アーガはようやく温かい湯に浸かることができた。


宿屋の裏庭には古い浴室があり、主人が井戸から汲み上げた水を沸かしている。


広くもなければ、快適とも言い難い。


それでも、氷の谷で一年間暮らした者にとって、身体についた泥や灰、血の痕、山の冷気を洗い落とせるだけで、十分すぎるほどの贅沢だった。


アーガは木桶の中へ身体を沈めた。


温かな湯が肩の古傷まで届くと、傷痕の周辺に僅かな痛みが走る。


視線を落とした。


すべての傷は、すでに痕へ変わっていた。


色は周囲の皮膚よりも濃い。


竜王に噛まれた場所。


雪崩の中で砕けた氷に切り裂かれた場所。


冬の訓練中に、何度も傷口が開いた場所。


そのすべてが身体へ残され、この一年間を刻み込んだ痕のように見えた。


アーガは目を閉じ、木桶の縁へ背中を預けた。


外から、イータとリナが小声で話す声が聞こえる。


二人は本当に生きていた。


そして、本当に自分が帰ってくるまで待っていた。


アーガは長い間、湯の中に座っていた。


湯が少しずつ冷たくなってから、ようやく立ち上がる。


リナが先に用意していた清潔な服へ着替えた。


古い服だったが、大きさはちょうどよかった。


その場で買ってきた物ではないことは明らかだった。


アーガは服を一度見下ろしたが、何も尋ねなかった。


リナとイータにとっても、この一年間は決して楽ではなかったはずだ。


それでも自分の服を今まで残していた。


その事実だけで、十分に伝わるものがあった。


一方、アイラとリナ、イータも宿屋の裏庭にある小さな温泉へ入っていた。


周囲は木板で仕切られ、水面には淡い湯気が漂っている。


湯へ入ったイータは、気持ちよさそうに耳を柔らかく伏せ、温泉の縁へ身体を預けた。


ようやく一日の緊張から解放されたようだった。


「温かいです……」


リナは隣に座り、濡れた髪を脇へまとめてやる。


「あまり長く入らないでね。このあと、まだ出発しないといけないから」


イータは頷いた。


「分かっています。でも、こんなに安心できたのは久しぶりです」


アイラは反対側に座り、静かに二人を見ていた。


一年ぶりに会ったリナとイータは、どちらも大きく変わっていた。


リナは以前よりも落ち着いている。


かつてはアーガの後ろに立ち、まず彼の判断を確認することが多かった。


今では話し方にも焦りがなく、眼差しも安定している。身体から感じられる魔力も、以前より遥かにはっきりしていた。


イータも、もう怯えてばかりいる小さな獣人ではなかった。


今もアーガを頼り、再会すれば泣き止めなくなるほど感情を露わにする。


だが、彼女の魔力も決して弱くはない。


耳は常に周囲の物音を警戒し、温泉へ入っている今でさえ、外を歩く者の足音を本能的に聞き分けている。


アイラは静かに言った。


「一年会わない間に、二人ともずいぶん強くなったのね」


リナが彼女を見る。


アイラは続けた。


「魔力を感じれば分かるわ。リナもイータも、遊侠級上位でしょう? ただ、リナの方が少し魔力が強いみたい」


「分かるの? 一応、隠していたつもりだったのに」


「それでもすごすぎるわ。リナはまだ十五歳でしょう?」


アイラは感心したように息を吐いた。


「でも、私はイータもかなり強いと思う」


イータはアイラを見つめ、逆に言った。


「アイラお姉さんもです」


アイラが僅かに目を見開く。


リナが口を開いた。


「アイラはもう、戍佐級下位でしょう?」


「アーガがずっと訓練していたから、知らないうちに私まで影響されたみたい」


アイラは水面を見下ろし、指先で湯気をゆっくりと掻き分けた。


口調は、とても落ち着いていた。


リナは氷の谷での詳しい出来事について、それ以上追及しなかった。


アイラはリナとイータを見つめた。


少し迷ったあと、尋ねる。


「ところで、あなたたちの能力……少し変わっているわね」


イータはすぐに答えた。


「アーガ様が与えてくださったんです」


リナも頷いた。


「ええ。私たちが今まで生き残れたのも、何度もこの力に助けられたから」


アイラの胸が、僅かに跳ねた。


氷の谷で、アーガが毎日何度もカード操作を練習していた姿を思い出す。


暗い夜、湿った木へ火をつけた《赤の一――火》の微かな光も覚えている。


アーガのカードが特別なものだとは知っていた。


しかし、その力を他人へ与えられるようになっているとは知らなかった。


しかも、力を与えられたのはリナとイータだった。


アイラは何も言わなかった。


イータは彼女の僅かな沈黙に気づかず、真剣な顔で話を続ける。


「最初は制御するのが難しかったんです。リナお姉ちゃんの方が、私より早く使えるようになって」


「私はいつも自分の足元を凍らせてしまって、何度も滑って転びそうになりました」


リナは呆れたように彼女を見る。


「よくそんなことを自分で言えるわね」


イータは僅かに首をすくめた。


「でも、そのあとはだいぶ上手になりました」


二人を見ながら、アイラは自分と彼女たちとの間にある距離を、少しずつ理解し始めた。


リナとイータは、ただアーガのあとについているだけの者ではない。


二人は長い間アーガと共に歩き、アーガも彼女たちを、自分が進む道の中へ本当の意味で受け入れていた。


貴重な力を二人へ与え、そばに置き、離れる前には、自分が生きていると確認できるカードまで残していた。


それでは、自分はどうなのか。


アーガはアイラを救った。


世話をし、氷の谷で一年間共に生きた。


それでも、一緒に連れていくとは一度も言っていない。


アイラも尋ねたことはなかった。


リナはしばらくアイラを見つめたあと、突然尋ねた。


「あなたも、私たちと一緒に行くの?」


温泉の水面が、小さく揺れた。


イータも顔を上げ、アイラを見る。


アイラは黙り込んだ。


どう答えればいいのか分からなかった。


アーガと一緒に暮星城を出たい。


その思いは確かにある。


だが、その言葉を本当に口にしたことは、一度もなかった。


アーガが自分へ向ける態度と、リナやイータへ向ける態度が違うことも感じていた。


彼は自分の面倒を見てくれる。


命を救い、泣いていたときには涙まで拭ってくれた。


しかし、それは自分を仲間として受け入れたことを意味しない。


ましてや、過去に自分が行ったことを許したという意味でもなかった。


「まだ、彼には何も言っていないの」


アイラは低い声で答えた。


リナは彼女を見つめた。


何かを察したようだったが、それ以上は尋ねなかった。


しかし、イータは不安そうに言った。


「アイラお姉さんは、一緒に行かないんですか?」


アイラは顔を上げ、どうにか笑みを作った。


「分からないわ」


その言葉を口にした瞬間、自分でも胸の奥が苦しくなるのを感じた。


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