第187話 一年後
傷が回復してから、アーガは毎日訓練を始めた。
早朝は速度を鍛え、午後は反応を磨く。夜になると焚き火のそばで何度もカードを引き、戻し、魔力を注ぎ込んだ。脚の筋肉が震え始めても、決してやめようとはしなかった。
アイラは時折、焚き火のそばに座って、その姿を眺めていた。
最初の頃、アーガの身体は負傷の影響で痩せて見え、顔色も常に青白かった。しかし半年も経つと、肩や背中には少しずつ筋肉がつき、腕や腰回りの輪郭も以前よりはっきりしてきた。
その訓練は、決して見栄えのいいものではなかった。雪の中へ転び、氷壁へ身体をぶつけ、魔力を使い果たして地面に倒れ込んだまま、長い間起き上がれないこともあった。
それでも翌日になれば、また同じように訓練を続けた。
アイラは時々、温めた水を差し出した。
「疲れないの?」
「疲れる」
「それなら、どうしてやめないの?」
アーガは水を受け取り、一口飲んだ。
「次に竜王と遭遇したとき、逃げることしかできないのは嫌だからだ」
アイラは黙り込んだ。
彼が言っているのは、竜王のことだけではないと分かっていた。
今すぐには勝てなくても、いずれ立ち向かわなければならないもの。そのすべてについて語っているのだ。
日々は少しずつ過ぎていった。
最初は、ただ偶然同じ場所へ閉じ込められた二人にすぎなかった。だが、やがて互いがそばにいることを、少しずつ当たり前のものとして受け入れるようになった。
アーガは外へ出る前に、どの辺りまで行くつもりなのかをアイラへ伝えた。アイラは止血用の薬草と、持ち運べる食料を準備する。
アーガの帰りが遅い日には、アイラは焚き火の前に座り、谷の入り口を見つめていた。雪を踏む足音が聞こえてきて、ようやく再び薬草の整理へ視線を戻す。
アイラの足が完全に治ってからは、二人で谷の端まで薬草を採りに行くようになった。
草木に関する知識は、アイラの方が遥かに豊富だった。雪の下から僅かに覗く色を見ただけで、食用になる根が埋まっていそうな場所を見つけることもできる。
アーガが周囲を警戒しながら道を作り、アイラが使えるものを探した。
時には、一つの草が食べられるかどうかで、長々と言い争うこともあった。
「これは本当に食べられるのよ」
アイラが言った。
アーガは青みを帯びた根を見つめる。
「見た目だけなら、食べた人間をあの世へ送りそうだが」
「長く煮れば毒は抜けるわ」
「本当か?」
「私は薬師よ」
「お前は以前、サミュエルも信じていただろ」
アイラは一瞬言葉に詰まり、すぐに雪を一掴みして投げつけた。
アーガは僅かに顔を傾けて避ける。
雪玉は氷壁へ当たり、白い粉となって砕け散った。
アイラは一度目を瞬かせ、そのあと声を上げて笑った。
笑い声は氷の谷へ軽く響いた。
長い間、風雪ばかりに覆われていたこの場所に、ほんの一瞬だけ人の暮らしが戻ってきたようだった。
夜になると、アーガは変わらず焚き火のそばでカード操作の訓練を行った。
アイラはその隣に座り、昼間に集めた薬草を種類ごとに分けていく。
時折、アーガが魔力を使い果たし、氷壁へ寄りかかったまま眠ってしまうことがあった。そんなときはアイラが外套を掛け、消えかけた火へ薪を足した。
目を覚ましたアーガは、掛けられた外套を見ても何も言わなかった。
ただ翌日になると、アイラが好んで食べていた木の実を、いつもより多く持ち帰ってきた。
二人とも、その変化を言葉にはしなかった。
相変わらず言い争い、互いの言葉へ余計な一言を返し、過去の話が出れば突然黙り込むこともあった。
アーガは、アイラを許したとは言わなかった。
アイラも、彼を信じてもいいのかとは二度と尋ねなかった。
それでも、彼が外へ出れば心配するようになった。
アーガも焚き火のそばへ戻ったとき、アイラが顔を上げて、
「おかえりなさい」
と声を掛けることに、すっかり慣れていた。
氷の谷の外では、今も風雪が続いている。
来年の夏までは、まだ長い時間が残されていた。
それでも、凍りついた山腹の中で、二人はもう雪崩によって流されてきただけの生存者ではなかった。
共に生きていく方法を、少しずつ学び始めていた。
◇
その頃には、暮星城の雪はとっくに止んでいた。
南山討伐隊の一件は、酒場で何度も語られる昔話のようになっていた。
あの討伐では大勢の冒険者が死んだという者もいれば、その後、城主府とギルドが新しい部隊を編成し、竜魔獣の一部を討伐したという者もいた。
本物の竜王は一度も倒されておらず、さらに山奥へ戻っただけだという噂もある。
アーガの名前も、時折話題に上った。
多くの場合は、「仮面戦隊の小隊」「晨星の家」「南山の雪崩」といった言葉と一緒に語られた。
彼は死んだという者がいた。
雪崩によって谷へ流され、遺体はとっくに魔物に食い荒らされたという者もいた。
そうした話を耳にするたび、イータは顔を伏せた。
服の中へ手を入れ、胸元に隠しているカードへ触れる。
《赤の五――氷》のカードだった。
カードの表面は今も普通の紙へ戻っておらず、魔力の紋様も残っている。ただし、感じられる気配は酷く弱く、遥か遠い距離によって隔てられているようだった。
触れると冷たい。
だが、命を失った物の冷たさではなかった。
イータには、カードや魔力について詳しいことは分からない。
それでも、アーガが言っていたことは覚えている。
彼が本当に死ねば、このカードとの繋がりも失われる。
だから、イータはずっと彼が生きていると信じていた。
リナも同じように信じている。
ただ、イータほど口に出さないだけだった。
二人はしばらく暮星城に残り、南区にある小さな家を借りて暮らしていた。
簡単な依頼を受けながら、普段は自分たちの実力を高めるための訓練を行っている。
イータは毎日、夕方になると南門の近くへ行った。
一人で行く日もあれば、リナが付き添う日もある。
南門の外へ続く道はすでに開通し、行き交う商隊や冒険者の数も次第に増えていた。
南山の方角から誰かが帰ってくるたび、イータは必ず顔を上げた。
自分でも馬鹿なことをしていると分かっている。
それでも、期待せずにはいられなかった。
「今日も、いませんでした」
イータが小さな声で言った。
隣に立つリナは、買ったばかりのパンを手にしていた。
「明日、また来よう」
イータは頷いた。
だが、すぐにその場を離れようとはしなかった。
夕暮れの光の中で、暮星城の時計塔が高くそびえている。
鐘の音が街へ響き渡ったとき、イータはもう一度、胸元に隠した《赤の五――氷》へ触れた。
カードは、まだ残っている。
アーガ様は、生きている。
生きてさえいれば、きっと帰ってくる。
◇
同じ年の夏、南山の反対側にある氷の谷も、ついに溶け始めていた。
最初に変化したのは、水の音だった。
冬の間、氷の谷は死んだように静かだった。氷壁を吹き抜ける風の音さえ、硬く冷たい響きを帯びていた。
だが夏になると、氷壁の表面へ細い水の筋が現れた。
高所に積もった雪も、塊となって少しずつ滑り落ち、谷底へ落ちるたびに低く重い音を立てる。
アイラは洞穴の入り口に立ち、頭上を見上げていた。
氷壁の亀裂から陽光が差し込み、地面へ細長い光の線を描いている。
決して強い光ではなかった。
それでも、氷の谷全体が少しずつ目覚めていくように感じられた。
アーガが谷の反対側から戻ってきた。
肩には折れた木を一束担ぎ、腰には薬草を詰めた小袋を下げている。
彼の姿は、一年前と比べて明らかに変わっていた。
雪崩によってこの場所へ流れ着いたばかりの頃は、全身が傷だらけで、今にも倒れそうなほど顔色が悪かった。
今では傷のほとんどが痕へ変わっている。
肩や背中は以前よりも逞しくなり、長い訓練によって腕や腰回りにもはっきりとした筋肉がついていた。
この一年間、楽に暮らしてきたわけではない。
谷には小型の魔物が棲みつき、食料も安定して手に入るとは限らなかった。冬はあまりにも寒く、眠ったまま目を覚ませなくなるのではないかと思う夜もあった。
最も危険だったのは、アイラが二日間も高熱を出したときだった。
アーガはほとんど眠らず、焚き火のそばで彼女を見守り続け、何度も薬草を取り替えた。
その後、目を覚ましたアイラは、目を真っ赤にしたままそばへ座っているアーガを見て、ただ一言、
「私は死んでいないから、もう眠っていいわ」
と言った。
そのとき、アーガは怒りを通り越して笑いそうになった。
しかし、アイラがこの男は決して自分を見捨てないのだと確信したのも、その出来事があってからだった。
「上の氷が緩んでいるわ」
アイラが言った。
「さっき、割れる音が聞こえたの」
アーガは担いでいた木を地面へ下ろし、氷壁を見上げる。
「どの辺りだ?」
「東側」
アイラは上方を指差した。
「以前は雪で完全に塞がれていたけれど、今は水が流れ出しているの。どこかに隙間ができているかもしれない」
アーガはすぐには答えなかった。
荷物を置き、縄と先端を尖らせた木杭を何本か取り出す。さらに、薬草の入った小袋を一つ、アイラへ差し出した。
「持っていけ」
アイラはそれを受け取る。
「今から行くの?」
「氷は早く溶けるが、崩れるのも早い」
アーガは縄の結び目を一つずつ確かめた。
「今日調べられるなら、今日のうちに調べる」
二人はこの氷の谷で、すでに一年近く暮らしていた。
どこなら足を置けるのかも、どの道が危険なのかも、ほとんどすべて把握している。
東側の氷壁は元々最も厚く、冬の間は外へ出られる可能性などまったくなかった。
しかし今は氷の外側へ水の流れが生まれ、岩の間にも何本か黒い隙間が見えている。
アーガが先に登り、木杭を打ちながら、一つずつ足場を作っていった。
アイラは下からその様子を見守っていたが、胸の奥に不安があった。
「左へ寄りすぎないで。そこは氷の下が空洞になっているわ」
「見えている」
「右側の岩も安定していないわよ」
「ああ」
「本当に分かっているの?」
アーガは下にいる彼女を見た。
「お前が先に登るか?」
アイラは口を閉じた。
少ししてから、思わず小さく笑う。
一年前であれば、今の言葉を冷たいと感じていたかもしれない。
だが今は、その言葉に悪意がないことが分かる。
むしろ、聞き慣れた安心感すらあった。
アーガは縄をしっかりと固定すると、アイラの方へ垂らした。
アイラは縄を掴み、氷壁を登り始める。
足首の傷はすでに治っていたが、谷へ長く閉じ込められていたため、体力は今もアーガに及ばない。
途中で足を滑らせ、膝を氷壁へ強くぶつけた。
思わず息を呑む。
アーガが手を伸ばし、彼女の腕を掴んで引き上げた。
「まだ動けるか?」
「動けるわ」
「なら止まるな」
慰めるような言葉はなかった。
ただ、アイラが足場を確保するまで待ち、それから再び登り始めた。
二人は氷壁の隙間を伝い、少しずつ先へ進んでいった。
最も狭い場所では、身体を横向きにしなければ通れなかった。服は鋭い氷に引き裂かれ、肩にも何本か血の滲む傷が刻まれる。
それでも最後まで進むと、前方には本当に、溶けた水によって削られた通路が現れた。
通路の向こう側から、光が差し込んでいる。
氷の谷に届いていた、厚い氷を通した冷たい光ではない。
温もりを帯びた、夏の日差しだった。




