第185話 生活
アーガはアイラを一度見た。口調は意外なほど落ち着いていた。
「まだ運がよかったと思え。山頂だったら、氷は一年中溶けない」
アイラは何も言わなかった。周囲を取り囲む氷壁を見つめていると、青白い光を帯びた透明な氷の層が、音もなく閉じていく牢獄のように思えてきた。
暮星城の牢獄なら、少なくとも扉がある。衛兵もいれば、取り調べもある。自分がどこへ閉じ込められているのか、誰かが知っている。
残っていたのは、治療薬が二本、魔力回復薬が一本、止血粉が半袋、雪解け水で濡れた包帯が一巻き、小さな袋に入った保存食、それに途中で切れた縄が数本だった。火打ち具も残っていたが、中まで湿っており、今すぐ火をつけるのは難しそうだった。
それらを確認したアーガの顔色が、さらに悪くなる。
「まず傷を処置する」
アイラは彼の肩を見た。
「あなたから……」
「足を出せ」
アーガが言葉を遮った。
アイラは一瞬、目を瞬かせた。
アーガはすでに折れた木を一本引き寄せ、小刀で表面の氷を削り落としていた。さらに、まだ使えそうな部分の包帯を切り取る。
動きは遅かった。脇腹の傷が痛むのか、何度か手を止め、呼吸を整えなければならなかった。
アイラはその手を見つめた。
アーガの手も傷ついていた。氷岩に切られた傷が指の関節にいくつも残り、乾いた血が皮膚へこびりついている。
それでも彼は、先に折れた木の表面を平らに整え、アイラの負傷した足首を慎重に持ち上げた。
「痛むぞ」
アイラは小さく頷いた。
次の瞬間、アーガは木片を足首へ当てて固定した。
アイラは唇を強く噛んだ。肩が僅かに震えたものの、声を上げることはなかった。
アーガは包帯を足首へ巻きつけ、結び目を作る直前に指を止める。
「きつすぎるか?」
「いいえ」
「強がるな」
アーガは低い声で言った。
「足が使えなくなっても、一年間ずっと背負ってやることはできないぞ」
アイラは僅かに目を見開いた。
優しい言い方ではなかった。むしろ、少し聞こえが悪い。
それなのに胸の奥を、何かがそっと叩いたような気がした。
「これで大丈夫です」
小さな声で答える。
アーガはもう一度固定具を確認し、ずれていないことを確かめてから、ようやく手を離した。それから自分の傷の処置を始める。
肩の噛み傷は深く、脇腹も大きく裂けていた。
止血粉を手に取り、傷口へ振りかける。その瞬間、アーガの身体が目に見えて強張り、額には冷たい汗が浮かんだ。
アイラは思わず手を伸ばした。
「私がやります」
アーガは彼女を一度見たが、断らなかった。
アイラはゆっくりと彼のそばへ移動し、包帯を受け取った。
以前、晨星の家で子供たちの傷を何度も手当てしたことがあるため、包帯の巻き方は知っている。しかし、あの頃に扱っていたのは、転倒による傷や擦り傷、栄養不足から生じた凍傷がほとんどだった。
目の前にある二つの傷とは、比べものにならない。
竜王の牙痕は、アーガの肩を半分近く引き裂いていた。
それでも彼は、先ほどまで自分を背負い、あれほど遠くまで走り続けていた。
アイラは目を伏せた。口から出た声は、先ほどよりもずっと小さかった。
「どうして、私を助けたのですか?」
アーガは目を閉じ、氷岩へ寄りかかったままだった。聞こえなかったかのように、何も答えない。
アイラの包帯を巻く手が止まった。
「私は以前、あなたを傷つけました。晨星の家でも、あなたを信じようとしなかった。それに……」
「知っている」
「それなら、なぜ助けたのですか?」
アーガは目を開いた。
氷の谷を満たす光は冷たく、その顔を普段以上に青白く見せていた。それでも意識ははっきりとしている。
責める様子もなければ、わざと慰めようとする様子もなかった。
「俺は、相手に貸しがあるかどうかで助ける人間を決めているわけじゃない」
アイラの指が僅かに震えた。
「お前が竜王の前に倒れていて、俺には助ける手段があった。だから助けた」
アーガは淡々と言葉を続ける。
「リナでも、イータでも、ほかの俺を殺そうとしていない人間でも、同じように助けていた」
そこで一度、言葉を止めた。
「まあ、サミュエルだったら少し考えるが」
アイラは呆気に取られたように彼を見た。
しばらくして、ごく小さく笑う。
その僅かな笑みも、すぐに消えた。
アイラは俯き、再びアーガの傷へ包帯を巻いていく。声は少し掠れていた。
「エイヴンに突き飛ばされたとき、私はもう死ぬのだと思いました」
アーガは何も言わなかった。
返事を必要とする言葉ではなかった。
アイラは包帯を肩へ回し、できる限り傷へ触れないよう、慎重に手を動かした。目元は僅かに赤くなっていたが、涙を流すことはなかった。
「公会の入り口で、彼が私の枷を外してくれたとき、私は……」
途中で言葉を止める。
アーガは彼女へ目を向けた。
まだ火は起こせておらず、氷の谷は凍えるほど寒かった。二人の衣服もかなり濡れている。
アイラは今も、エイヴンから借りた上着を羽織っていた。
だが今となっては、その上着は悪趣味な冗談のように見えた。
アイラはしばらく沈黙したあと、上着を脱いで脇へ置いた。
アーガは一度それを見たが、何も言わなかった。
傷の応急処置を終えた頃には、空はさらに暗くなっていた。
二人は氷壁の下にある僅かな窪みを見つけた。完全ではないが、少しなら風を防げそうだった。
アーガは流されてきた木片と湿った薪を集め、布切れで火打ち具の水気を拭き取った。何度も失敗した末に、ようやく小さな炎が灯る。
火は弱かったが、二人がすぐに凍え死なずに済む程度の熱はあった。
アイラは火のそばに座り、固定された足を前へ伸ばしていた。顔色は今も青白い。
アーガはその隣で氷壁へ寄りかかり、目を半分閉じている。呼吸は少し重かった。
夜になった氷の谷は、昼間よりもさらに冷え込んだ。
高所にある亀裂から風が吹き込み、小さな炎を絶えず揺らす。遠くの氷壁からは、冷えて収縮する氷の細かな亀裂音が聞こえてきた。
まるで暗闇の中で、何かがゆっくりと動いているようだった。
アイラは膝を抱え、声を潜めて尋ねる。
「本当に、来年の夏までここで暮らさなければならないのでしょうか?」
アーガは炎を見つめたまま、しばらくしてから答えた。
「まずは今夜を生き延びろ」
アイラも彼の視線を追い、氷の谷の奥へ目を向ける。
暗闇の中から、突然低い唸り声が聞こえた。
大きな音ではなかったが、酷く重かった。氷の向こう側にある洞窟から響いてきたように聞こえる。
続いて、遠くから爪が何かを引っ掻く細かな音がした。
少しずつ近づき、やがて止まる。
炎の光が氷壁へ映り、二人の揺れる影を長く伸ばしていた。
翌朝、目を覚ましたアイラが最初に感じたのは、僅かな薬草の苦い匂いだった。
目を開く。
焚き火はほとんど消えかけ、暗赤色の炭が数個残っているだけだった。
アーガはそばにいなかった。
氷壁の下には、火で半分ほど乾かされた衣服と、石を載せた小さな荷物だけが残されている。
アイラは腕へ力を入れ、身体を起こした。
足首が少し動いただけで、骨の隙間から這い上がってくるような痛みが走る。
眉を寄せ、再び氷壁へ背中を預けた。
谷は静かだった。
昨夜聞こえた唸り声は、その後近づいてこなかった。
火を恐れて離れたのか。それとも、まだ二人の存在に気づいていないだけなのかは分からない。
しかし、ここが安全な場所でないことだけは確かだった。
時折、氷の奥から爪が何かを掻く細かな音がする。谷の反対側にある亀裂へ、何かが潜んでいるようだった。
長い時間が過ぎたあと、遠くから雪を踏む音が聞こえてきた。
アイラはすぐに顔を上げる。
アーガが氷岩の向こう側から姿を現した。
半乾きの外套を羽織っており、肩と脇腹の包帯には再び血が滲んでいる。両腕には雑多な草や木の根を抱え、腰には凍って硬くなった木の実が数房ぶら下がっていた。
焚き火のそばまで戻り、それらを地面へ置く。
顔色は昨日よりも悪かった。
「外へ出たのですか?」
アイラは眉を寄せた。
「ああ」
「傷の血も、まだ止まっていないのに」
「だから遠くまでは行っていない」
アーガは集めてきた草を彼女の前へ押し出した。
「使えるものがあるか見てくれ」
アイラは雪解け水に濡れた草の山を見つめ、しばらく何も言えなかった。
集めてきたものは、ひどく雑多だった。
止血に使える氷苔もあれば、身体を温める程度にしか使えない苦根もある。見た目が似ているだけで、まったく使えない毒草まで混じっていた。
おそらく薬草の知識がなく、見つけたものを片端から持ち帰ったのだろう。
アイラは俯き、草を一つずつ選り分け始めた。
「これは使えます。潰してから傷口へ塗れば、血を止められます」
深緑色をした氷苔を一摘み、脇へ置く。
「これは煮出せば、少しだけ熱を下げられます。こちらは食べてはいけません。腹痛を起こします。それから、これは……どこで見つけたのですか?」
アーガは草を一度見た。
「氷の裂け目の近くだ」
「その辺りには、もう近づかないでください」
アイラは真剣な声で言った。
「この草は、魔物の巣の近くに生えることが多いのです。下に洞窟があるかもしれません」
アーガは頷いた。
「分かった」
アイラの手が止まった。
以前のように言い返すこともなければ、口うるさいと嫌がることもない。ただ素直に聞き、すぐに覚えようとしている。
アイラはアーガの横顔を見つめた。
そして、ようやく気づいた。
この人は本気で、自分を命を預けられる仲間として扱っている。
今の自分は、立ち上がることさえ難しいというのに。




