第184話 雪崩
雪崩が押し寄せたとき、全員が必死に逃げていた。
山頂から迫る白い奔流は、まるで空そのものが崩れ落ちてきたかのようだった。積雪、砕けた氷、折れた木々、岩石が一つに混ざり合い、高所から転がり落ちながら、さらに速度を増して近づいてくる。
最初は竜王の咆哮も、風雪が岩壁を削る音も聞こえていた。しかし間もなく、すべての音が背後から迫る轟音に掻き消された。
一歩踏み出すたびに、地面が裂けそうに震える。
アーガはアイラを背負ったまま、一度も振り返ろうとはしなかった。少しでも後ろを見て、足が遅れれば、すぐ背後まで迫った雪の波に全員まとめて呑み込まれる。
エイヴンとノヨンは、すでに風雪によって反対側へ押し流されていた。雪崩の縁で竜王の巨大な影が一度だけ揺れたが、すぐに舞い上がった白い雪煙に遮られた。
追ってきているのか。
それとも、雪の流れに押し戻されたのか。
もう確かめることはできなかった。
アーガはアイラを背負い、吹雪の中を突き進む。雪崩は、すぐ後ろまで迫っていた。
白い奔流が山道の脇に立つ枯れ木をへし折り、砕けた木片が二人の横を飛んでいく。一本の枝がアーガの頬を掠め、細長い傷を残した。
それでも足を止めない。
斜面へ身体を張りつけるようにして走り、踏み出すたびに、積雪が最も薄い場所を選んで足を置いていく。
背負われているアイラには、アーガの呼吸が徐々に乱れていくのが分かった。
肩から血が流れている。
脇腹からも血が流れ続けていた。
服へ染み込んだ血は冷たい風を受けてすぐに乾きかけるが、次から次へと流れる新しい血によって、再び濡れていく。
「どうして……」
アイラは彼の服を強く掴んだ。
風雪に引き裂かれ、声が途切れ途切れになる。
「どうして、私を助けたの……?」
アーガは答えなかった。
背後の轟音が、さらに近づいてくる。
アイラは唇を噛み、目に少しずつ涙を浮かべた。
「私は以前、あなたを傷つけたのに……」
アーガの足が滑った。
身体の半分が雪へ沈みかけたが、無理やり重心を戻して踏みとどまる。喉の奥へ鉄の味が込み上げ、俯いて一度咳き込んだ。
血の混じった唾が雪面へ落ちたが、すぐに風に吹き飛ばされた。
「喋るな」
彼が口にしたのは、それだけだった。
アイラは言葉を失った。
アーガは彼女を背負ったまま、再び前へ走り続ける。
しかし、その先にはもう、まともな山道など残されていなかった。
吹雪が激しすぎて、見える範囲は僅か数歩しかない。岩壁、倒木、雪の斜面がすべて混ざり合い、どこへ足を置けるのか、どこに積雪で隠された深い溝があるのか、まるで判別できなかった。
アーガは何度も足を踏み外しかけた。
そのたび、《黄の二――チーター》によって強化された反応速度を頼りに、無理やり身体を捻って立て直す。
リナとイータの姿は、すでにどこにも見えなかった。
二人が雪崩から逃れられたのか、アーガには分からない。
突然、背後の轟音が一気に近づいた。
アーガは一度だけ振り返る。
雪の波は、すでに十数歩も離れていない位置まで迫っていた。先頭の氷雪は、まるで口を大きく開いた白い怪物のように、二人が今しがた通ってきた山道を次々と呑み込んでいる。
そして、前方には崖があった。
アーガは勢いよく足を止めた。
アイラもそれに気づく。
崖の先は風雪に覆われ、底の見えない白い霧だけが広がっていた。右側はすでに崩落し、左側も折れた岩壁によって塞がれている。
前は断崖。
後ろからは雪崩。
逃げ道は、ほとんど残されていなかった。
「アーガ……」
「黙っていろ」
アーガは素早く前方を見回した。
吹雪の向こう、崖の縁にごく狭い切れ目が見える。
道ではない。
二つに裂けた山体の間に残された、細い隙間のようなものだった。
距離自体はそれほど遠くない。しかし、その下に何があるのかはまったく見えなかった。
飛び越えれば、反対側へ着地できるかもしれない。
あるいは、そのまま山腹の奥深くへ落下するかもしれない。
それでも、ほかに選択肢はなかった。
アーガは半歩だけ後ろへ下がる。
何をするつもりなのか察したアイラが、彼の服を掴む指へ強く力を込めた。
「正気なの?」
「しっかり掴まっていろ」
すでに雪の波が、背後まで押し寄せている。
アーガは残された魔力をすべて両脚へ集中させた。《黄の二――チーター》の光が足元で一度だけ強く瞬く。
アイラを背負ったまま断崖へ走り、崖際に積もった薄い雪を踏み砕いて、狭い切れ目へ向かって跳躍した。
風が耳元で破裂する。
アイラは反射的に目を閉じた。
しかし空中で、再び目を開く。
二人の身体は、完全には反対側へ届かなかった。
アーガの爪先が向こう側の崖へ触れた瞬間、積雪と砕けた石が一斉に崩れ落ちる。
アーガは咄嗟に手を伸ばし、突き出していた氷の岩を掴んだ。鋭い氷の縁が指を切り裂き、すぐに血が滲む。
アイラの身体が下へ落ちていく。
アーガは歯を食いしばり、もう片方の手で彼女の手首を強く掴んだ。
「離すな!」
直後、雪崩が二人の背後を通過した。
凄まじい衝撃が崖へ叩きつけられ、巨大な雪煙が爆発するように広がる。
アーガは、背中を何かに思い切り殴られたような衝撃を受けた。
指はとうとう、氷岩を掴み続けることができなかった。
二人は、そのまま一緒に崖下へ落ちていった。
山腹の反対側には、氷雪に覆われた深い谷が広がっていた。
二人の身体は何層もの雪を突き破り、斜面に弾かれて、さらに深い場所へ落ちていく。
アーガは落下しながら、何度もアイラを自分の方へ引き寄せようとした。砕けた氷や岩石から、彼女を守ろうとしていた。
だが、身体はもう思いどおりには動かなかった。
アイラの意識も、次第に遠のいていく。
風雪が視界の中で激しく回転し、白、灰色、血の赤が混ざり合う。
音はもう、ほとんど聞こえなかった。
負傷した足首の痛みさえ感じない。
ただ、一つだけ分かった。
誰かの手が、今も自分を強く掴んでいる。
アイラは必死に目を開いた。
最後に見えたのは、顔中を血に染めたアーガだった。
肩と脇腹の傷からは今も血が流れ続け、顔色も恐ろしいほど青白い。
それでも、彼は手を離していなかった。
指をアイラの手首へ食い込ませ、雪崩にどこまで流されようとも、彼女を死の淵から引き戻そうとしているかのようだった。
アイラは口を開いた。
彼の名前を呼ぼうとした。
次の瞬間、氷の谷底から湧き上がった白い闇が、視界を覆い尽くした。
アイラは完全に意識を失った。
◇
アイラが目を覚ましたとき、最初に見えたのは、ぼやけた白だった。
まだ雪崩の中にいるのだと思った。
しかし、耳を澄ませても轟音は聞こえない。
竜王の咆哮もなかった。
聞こえてくるのは、高い場所から落ちてくる僅かな水滴の音だけだった。氷の表面へ落ちるたびに、静かな音が一つ、また一つと響いている。
身体を動かそうとすると、足首に突き刺すような激痛が走った。
アイラは小さく呻く。
その痛みによって、意識が少しずつ鮮明になっていった。
自分が斜面の下へ横たわっていることに気づく。身体の下には厚い雪が積もり、近くには雪崩によって流されてきた砕氷や折れた木が散乱していた。
頭上を囲んでいるのは、切り立った巨大な氷壁だった。
氷の層には灰色の岩が挟まっており、谷全体が凍りついたように見える。
空は暗かった。
雪はまだ降っていたが、山道にいたときほど激しくはなかった。
「目が覚めたか?」
少し離れた場所から声が聞こえた。
アイラは苦労しながら顔を向ける。
アーガが一つの氷岩へ寄りかかっていた。
身体の半分が血に染まっている。
肩と脇腹の傷は酷く、衣服は大きく裂け、傷口から続く血痕が腰の辺りまで広がっていた。顔にも砕けた氷によって刻まれた傷がいくつかあり、その周囲は寒さで白く凍りついている。
それでも、生きていた。
アイラは呆然と彼を見つめた。
しばらくして、ようやく声を取り戻す。
「あなた……」
「死んでいない」
アーガは低い声で答えた。
「お前も死んでいない。今のところは、いい知らせだ」
言葉を発する速度は遅かった。
一言口にするたび、胸の痛みを抑えているように見える。
アイラは腕へ力を入れ、身体を起こそうとした。しかし足首へ体重が掛かった途端、顔色が変わるほどの痛みが走った。
「動くな」
アーガが彼女を見た。
「足を負傷している」
アイラは自分の足首へ目を向けた。
すでに大きく腫れ上がっている。
長靴の縁は血と雪解け水で濡れており、僅かに動かしただけでも痺れるような痛みが走った。
雪崩が起こる直前の光景が、頭の中へ蘇る。
エイヴンに手を伸ばされ、突き飛ばされたこと。
竜王の巨大な影が頭上から迫ってきたこと。
アーガが蔓を使い、前脚の下から自分を引きずり出したこと。
そして最後に覚えているのは、顔中を血に染めながらも、自分の手を決して離そうとしなかったアーガの姿だった。
アイラの指が、僅かに曲がる。
「ここは、どこなの?」
アーガはすぐには答えなかった。
すでに周囲を調べていた。
二人がいるのは、山腹の反対側にある、氷の層によって閉ざされた谷のようだった。
周囲には高い氷壁と積雪が広がり、頭上にだけ、細長い灰白色の空が見えている。
雪崩によって元の山道から流され、入口も完全に埋められてしまったのだろう。
外へ続いているように見える隙間もいくつかあったが、どれも氷や砕けた岩によって塞がれていた。
アーガは氷岩へ手をつき、少しだけ立ち上がろうとした。
すぐに脇腹の傷から新しい血が滲み出す。
眉を寄せ、再びその場へ座り込んだ。
「山腹にある、どこかの閉鎖された場所だ」
アーガが答える。
「雪崩に流されて、ここまで落ちてきた」
アイラは周囲を見回した。
次第に、顔色が変わっていく。
「外へ出られるの?」
「今は無理だ」
「今は無理って、どういう意味?」
アーガは氷壁を見上げた。
「氷が厚すぎる。それに、雪崩で元の道も塞がっている。今の俺たち二人の状態では、掘り進むことはできない」
「たとえ隙間を見つけても、その向こうも雪や氷で埋まっている可能性が高い」
アイラはしばらく黙っていた。
言葉の意味は理解している。
それでも、すぐには受け入れたくなかった。
「では、いつなら出られるの?」
アーガは荷物の中を探った。
鞄は雪解け水によって半分ほど濡れていたが、幸いにも薬剤の瓶はいくつか無事だった。
一本ずつ状態を確認してから、静かに答える。
「最も気温が高くなる時期を待つ」
「来年の夏だ。氷が溶け、塞がれた場所が緩めば、出口を見つけられるかもしれない」
アイラが顔を上げる。
「来年の夏……?」
声は小さかった。
しかし、そこには明らかな衝撃が滲んでいた。
今は、夏が終わったばかりだった。
つまり二人は、この場所で一年近く過ごさなければならないかもしれなかった。




