第183話 臆病者
「二手に分かれて逃げろ!」
アーガの声は低かった。だが、その言葉はほとんど歯の隙間から絞り出されたものだった。
竜王はすぐ前方にいる。すぐに飛びかかろうとはせず、巨大な身体を雪の中へ半ば伏せたまま、縦長の瞳でゆっくりと全員を見回していた。
普通の竜魔獣のように、血の匂いや怒りに支配されているわけではない。その動きには常に冷静な判断が伴っていた。誰が傷ついているのか。誰の足が遅いのか。誰にまだ反撃する力が残されているのか。それらを一つずつ確かめているようだった。
エイヴンは最前方に立ち、剣先を僅かに下げている。呼吸は先ほどより明らかに重くなっていた。
ノヨンは雪の中へ座り込んだまま、恐ろしいほど青白い顔をしていた。魔力はほとんど底をつき、掌には何度か淡い青色の光が浮かんだものの、震えによってすぐに消えてしまう。
アイラはその隣に立っていたが、足元は安定していなかった。
先ほど逃げている最中、雪に隠れた亀裂を避けるよう全員へ警告した際、飛んできた石が脛に当たっていた。そのうえ、雪の中で足首も捻っている。
一度も痛いとは口にしなかったが、歩く速度は明らかにほかの者より半歩遅かった。
アーガは周囲を一度見回し、すぐに判断した。
これ以上、一か所に集まっていてはならない。
「リナ、イータ! 俺たちはこっちだ!」
反対側では、エイヴンが雪に半分埋もれた右側の小道を指差した。
「ノヨン、アイラ! 俺について来い!」
ノヨンはよろめきながら立ち上がり、アイラも足首の痛みを堪えて後に続いた。
僅かに遅れた彼女を見て、エイヴンは一度だけ振り返った。急かすことはせず、自ら前へ出て二人を守るように進んでいく。
その姿だけを見れば、彼は今もなお、穏やかで信頼できる隊長のままだった。
竜王が動いた。
左側へ逃げるアーガたちには目も向けず、身体を一気に沈め、エイヴンのいる方向へ飛びかかる。
翼膜が風雪を巻き上げ、山道全体を巨大な黒い壁が押し潰すかのようだった。
その瞬間、エイヴンの表情が完全に変わった。
剣を持ち上げる。淡い金色の魔力が刀身から溢れ出したが、剣光が完全に形を作るより先に、その手が僅かに震えた。
竜王は、想像していたよりも速かった。
先ほどまで辛うじて攻撃を防げていたのは、竜王が本気で彼を殺そうとしていなかったからだ。
今は違う。
冷たい縦長の瞳がエイヴンを捉え、巨大な前脚が頭上から振り下ろされる。そのとき彼は初めて、自分が本当にここで死ぬのだと理解した。
負傷するのではない。負けるのでもない。
死ぬのだ。
噛み砕かれ、飲み込まれ、セインやマシューと同じように、まともな言葉すら残せず消える。
自分は校尉級下位なのだ。
こんな場所で死ぬはずがない。
その考えが頭を過ぎったとき、本人さえ気づかないうちに、剣を握る手は横へ逸れていた。
アイラは、彼の半歩後ろにいた。
足首を負傷しているため、竜王の攻撃を避けることも、エイヴンの速度についていくこともできない。
竜王が飛びかかってきた瞬間、エイヴンは彼女を庇おうとはしなかった。先ほどまでのように、剣を横へ構えて攻撃を受け止めることもしない。
伸ばした手で、アイラの肩を掴んだ。
アイラは顔を上げた。
瞳には、まだ僅かな戸惑いしか浮かんでいなかった。
次の瞬間、彼女の身体は強く前へ押し出された。
「エイヴン……?」
その声は風雪に呑み込まれた。
アイラは竜王の正面へよろめき出る。傷ついた足首では身体を支えきれず、そのまま雪の中へ倒れ込んだ。
顔を上げたときには、すでに竜王の巨大な影が彼女を覆っていた。
エイヴンは彼女を押した反動を利用して横へ退き、振り返ることなく右側の小道へ飛び込んだ。
あまりにも速い動きだった。
ノヨンでさえ、すぐには何が起きたのか理解できなかった。
その場に立ち尽くし、目を大きく見開いたまま、顔から少しずつ血の気が失われていく。
「隊長……」
エイヴンは振り返らなかった。
アーガはすべてを見ていた。
リナとイータを連れ、左側の岩壁の陰へ退こうとしていたが、アイラが突き飛ばされた瞬間、その足が止まった。
小さく舌打ちする。
その音はごく僅かだったが、刃のように冷たかった。
「リナ、イータを連れて走れ」
そう言うなり、アーガは《赤の五――氷》のカードを取り出してリナへ押しつけ、そのままアイラへ向かって走り出した。
リナも一部始終を見ていた。
顔色が一瞬で変わる。
「アーガ!」
「走れ!」
アーガは、彼女に迷う時間を与えなかった。
「俺が生きている限り、そのカードには魔晶石の強化が残る!」
肩の傷が動きによって再び裂けた。視界が暗くなるほどの痛みが走ったが、足を止めることはない。
カードケースから《赤の三》を引き抜き、力の入らない指で強く挟む。
「赤の三――草!」
雪の下から、何本もの蔓が勢いよく飛び出した。
蔓が向かった先は竜王ではない。雪の上に倒れているアイラだった。
立ち上がる暇もなく、腰と腕へ蔓を巻きつけられたアイラは、一瞬呆然とした。
直後、蔓が激しく収縮する。
アイラの身体は、竜王の前脚が振り下ろされる場所から強引に引きずり出された。
巨大な爪が、彼女が倒れていた雪面へ叩きつけられる。
雪が一気に陥没し、砕けた石と氷が周囲へ飛び散った。
アイラは雪の上を一度転がり、アーガの足元へぶつかって止まった。
顔を上げて彼を見る。
その瞳には、エイヴンに突き飛ばされた衝撃が今も残っており、すぐには言葉を発することもできなかった。
「動けるか?」
アーガが低い声で尋ねる。
アイラの唇が震えた。
「私……」
返事をするより先に、竜王が頭を動かした。
その視線が、アーガを捉える。
攻撃を外したからといって、怒り狂って咆哮することはなかった。
ゆっくりと頭を下げ、縦長の瞳をアーガへ向ける。まるで、狙うべき獲物を改めて選び直したかのようだった。
アーガの胸が重く沈む。
これは、まずい。
「立て」
アイラの腕を掴み、引き起こす。
「走れるなら走れ」
アイラは歯を食いしばり、無理やり立ち上がった。しかし、負傷した足を雪面へつけた瞬間、痛みに耐えきれず身体を折る。
支える時間はなかった。
竜王はすでに飛びかかってきている。
アーガはアイラを岩壁の方へ突き飛ばし、自分は反対側へ転がった。
竜王の牙が、背中すれすれを通り過ぎる。
鋭い歯の先端が服を切り裂き、脇腹に深い傷を刻んだ。
アーガは声を押し殺し、そのまま雪の中へ倒れ込む。
流れ出した血が、瞬く間に白い雪を赤く染めた。
イータはその音を聞き、勢いよく振り返った。
「アーガ様!」
リナは彼女を強く抱きしめ、そのまま前へ引きずっていく。
「戻っては駄目! 彼が走れと言ったでしょう!」
「でも……!」
「あなたが戻ったら、助けた意味がなくなる!」
イータの目から涙が溢れた。
それでも、リナに引かれながら岩壁の陰へ走り続ける。
耳は頭へ張りつくほど伏せられ、尻尾も恐怖と寒さによって強く縮こまっていたが、それ以上抵抗することはなかった。
イータの泣き声を聞きながら、アーガは歯を食いしばって身体を起こした。
よかった。
二人は逃げている。
アイラも必死に岩壁の方へ下がっていた。ノヨンもようやく我に返り、よろめきながらアイラのもとへ向かい、彼女を立たせようとしている。
すでに右側の小道へ逃げ込んだエイヴンの姿だけは、どこにも見えなかった。
竜王は彼を追っていない。
今、その目が見ているのはアーガだけだった。
カードケースへ手を伸ばしたが、失血と寒さによって指が思うように動かない。
肩からも、脇腹からも血が流れ続けている。
呼吸をするたび、冷たい刃が身体の内側を何度も切り裂いているようだった。
竜王が再び距離を詰める。
すぐに噛み殺そうとはしなかった。
何度も狩りの邪魔をしたこの獲物が、あとどこまで逃げられるのか確かめているようだった。
アーガは竜王の前脚を睨み、恐怖に押し潰されないよう必死に意識を保つ。
カードを一枚引き抜いた。
「黄の二――チーター!」
身体を淡い黄色の魔力が包み込む。
アーガはアイラを背負い、そのまま雪の山道を走り出した。
しかし、竜王の方が速い。
背後から迫る足音は、加速魔法を使ったにもかかわらず、急速に距離を縮めてきた。
もうすぐ追いつかれる。
そのとき、足元の雪が突然大きく沈んだ。
違う。
アーガは僅かに下を見た。
この雪の下は斜面になっている。
先ほどから続く竜王の激しい攻撃。
さらに、暴風雪によって積み重なった大量の雪。
山全体が、僅かに揺れていた。
遠く離れた山頂から、何かが深い場所で割れるような、低く重い音が響いた。
アイラもその音に気づいた。
顔色を変え、山頂の方を見上げる。
「雪が……動いている……」
山頂を覆っていた厚い雪が崩れた。
最初に、高い場所へ一本の白い亀裂が走る。
直後、雪に覆われた斜面全体が、引き裂かれた空のように崩れ落ちた。
大量の雪、砕けた氷、折れた木々、岩石。
すべてが混ざり合い、巨大な白い奔流となって、山頂からアーガたちのいる山道へ押し寄せてくる。
風の音が消えた。
竜王の咆哮さえも聞こえなくなった。
すべての音が、迫り来る白い濁流に呑み込まれていく。
アーガが最後に見たのは、自分へ手を伸ばすアイラの姿だった。
遠くで泣きながら振り返るイータ。
雪の上へ倒れ込むノヨン。
そして雪崩の影の下で、巨大な頭を持ち上げる竜王。
次の瞬間、白い奔流がすべてを覆った。
山道全体が、完全に呑み込まれた。




