第182話 竜王
セインは先頭を歩きながら、先ほどよりも幾分軽い足取りで進んでいた。
「なあ、街へ戻ったら、ギルドは囮役の追加報酬を出してくれるよな?」
声を潜めて言う。
「こんな仕事、誰にでもできるわけじゃないぞ」
後ろを歩くマシューは、盾を背負ったまま答えた。
「生きて帰ってから金の話をしろ」
「縁起でもないことを言うなよ」
セインは振り返り、マシューを見た。
「そこは、『セイン様の逃げ足は天下一、竜魔獣ごときには靴底すら噛めない』と言うところだろ」
マシューは鼻で笑った。
「なら、本当に噛まれるなよ」
セインがさらに軽口を続けようとしたとき、イータが突然足を止めた。
耳が勢いよく左前方へ向く。
アーガは即座に片手を上げた。
全員がその場で立ち止まる。
「一頭います」
イータが小声で言った。
「前方です。近いです。歩いていますが、足音はさっきの個体より少し軽いです」
アイラは周囲を見回し、すぐに雪へ半分埋もれた前方の山道を指差した。
「もう少し先に曲がり角があります」
「その向こうは、両側を岩壁に挟まれた細い道です。そこへ誘い込めれば、エイヴンとマシューで前後を塞げます」
エイヴンは地形を確認し、頷いた。
「いける」
ノヨンは岩壁へ手をつきながら、気流魔法へ注ぐ魔力を強めた。
遠くの風雪の中を、暗灰色の影がゆっくりと移動している。
大きさは、最初に倒した竜魔獣よりも少し小さい。
左翼の端が欠けており、歩きながら何度も頭を下げ、雪面に残った血の匂いを探っているようだった。
「普通の竜魔獣だ」
エイヴンが声を潜める。
「先ほどと同じ方法でいく」
セインは足首を軽く回した。
「また俺の出番か?」
マシューが彼を見る。
「あまり遠くへ行くな」
「分かっている」
セインは笑った。
足元に淡い青緑色の魔力が浮かび、そのまま岩壁に沿って飛び出していく。
今回は、すぐに大声を上げることはしなかった。
竜魔獣から音は聞こえるものの、姿ははっきり見えない位置まで回り込む。
そして、短刀の柄で岩壁を叩いた。
カン。
澄んだ音が風雪の中へ響く。
竜魔獣が勢いよく頭を上げた。
セインはもう一度、岩壁を叩く。
カンッ!
竜魔獣は低く唸り、すぐに音のした方向へ駆け出した。
セインも背を向けて走り出す。
速度は先ほどよりも速かった。
直線では走らず、アイラに教えられた経路に従い、途中で崩れた岩壁を回り込む。
そうして竜魔獣を少しずつ、細い道へ誘導していった。
「来ます」
イータが小声で告げる。
アーガは雪幕の中で動く影を見つめ、指をカードケースへ掛けた。
竜魔獣は速かった。
セインは何度かわざと速度を落とし、あと少しで噛みつけると思わせる。
竜魔獣が口を開いて飛びかかるたび、加速魔法を使って一気に距離を広げた。
「あと少しだぞ! 本当にあと少しだ!」
セインは走りながら叫んだ。
「ほら、もっと速く走ってみろよ!」
マシューの表情が険しくなる。
「あの馬鹿、本当に死ぬのが怖くないのか」
竜魔獣が細い道へ入った。
エイヴンとマシューは、すでに両側の岩壁の陰へ身を隠している。
ノヨンが気流魔法を一気に強めた。
竜魔獣の足元に積もっていた雪が吹き飛ばされ、前脚の下にある脆い岩の隙間が露出する。
アイラが即座に声を上げた。
「左です! 左前脚の下が空洞になっています!」
エイヴンが剣を振るう。淡い金色の剣光が雪幕から突き出され、竜魔獣は反射的に右へ身体を逸らした。
反対側から、マシューが盾を構えて突進する。その一撃が竜魔獣を岩の隙間へ一歩押し込んだ。
アーガはカードを投げる。
「赤の三――草」
同時に、リナも蔓を操った。
雪の下から伸びた蔓が、竜魔獣の後ろ脚へ絡みつく。
今回も拘束できたのは一瞬だけだった。
だが、その一瞬で竜魔獣の重心が崩れる。
「押さえ込め!」
エイヴンが叫んだ。
マシューは怒号を上げ、盾を竜魔獣の胸へ叩きつける。
竜魔獣の身体が半分、岩の裂け目へ沈み込んだ。
そこから這い出そうともがき、尾を激しく振り回す。
セインはすでに曲がり角まで回り込み、反対側から戻ろうとしていた。
「今回も成功だ!」
声を張り上げる。
「だから言っただろ、俺は――」
その声が突然途切れた。
「セイン?」
返事はなかった。
異変に気づいたマシューが振り返る。
「セイン!」
曲がり角の向こうにある雪幕は、異様なほど静かだった。
次の瞬間。
普通の竜魔獣とは比べものにならないほど巨大な黒い影が、曲がり角の向こうからゆっくりと頭を覗かせた。
その頭部だけで、山道の半分近くが塞がれていた。
暗灰色の鱗には分厚い霜が張りつき、額からは湾曲した二本の骨角が伸びている。
翼膜は身体の横へ畳まれていたが、それでも二つの黒い岩壁のように見えた。ほかの竜魔獣のように、すぐ飛びかかってくることはなかった。
ただゆっくりと頭を下げ、冷たい縦長の瞳で一行を見つめている。
その口には、セインが咥えられていた。
抵抗する暇さえなかったのだろう。
足元に残っていた淡い青緑色の加速魔法が一度だけ瞬き、すぐに消えた。
ノヨンの顔から血の気が引いた。
「セイン……」
竜王が顎へ力を込めた。
骨の砕ける短い音が、風雪の中で響いた。
マシューはその場で完全に固まった。
イータは両手で口を押さえ、目に一気に涙を浮かべる。
リナは彼女を背後へ引き寄せたが、その顔も恐ろしいほど青ざめていた。
アーガは、喉の奥を雪で塞がれたように感じた。
先ほどまで「逃げることに関しては専門家だ」と笑っていた男が、消えた。
完全な悲鳴すら上げられなかった。
竜王は口の中のものを飲み込み、ゆっくりと頭を持ち上げた。
その動きに焦りはなかった。まるで、最初からすべてを見ていたのだと告げているようだった。
彼らがどうやって待ち伏せを行ったのか。
どうやって少しずつ主導権を握ったと思い込んだのか。
そのすべてを、ただ眺めていた。
最初に動いたのはエイヴンだった。彼の顔色も酷く悪かった。
それでも、動きに乱れはない。
剣身から淡い金色の魔力が爆発するように溢れ出す。
エイヴンは雪面を踏み込み、竜王へ突進した。
剣光が真っ直ぐ、竜王の目を狙う。
竜王がようやく動いた。
だが、エイヴンの剣光の方が先に届く。
淡い金色の魔力が風雪の中で弾け、剣が正面から竜王の頭部へ振り下ろされた。
竜王は普通の竜魔獣のように動きを乱さなかった。
僅かに頭を傾け、額と首筋にある最も分厚い鱗でその一撃を受け止める。
甲高い金属音が響いた。
剣光が砕け、鱗を覆っていた霜が一斉に剥がれ落ちる。
竜王の頭は、その一撃によって僅かに横へ押された。
持ち上げていた前脚も空中で止まり、すぐには振り下ろされなかった。
効いている。
エイヴンの攻撃は、確かに竜王の動きを止め、僅かに後退させることができていた。
だが、それだけだった。
与えた傷は、ほとんど深くない。
エイヴンの表情が僅かに沈む。
次の瞬間、竜王の前脚が振り下ろされた。
エイヴンは剣を横へ構え、真正面から受け止めた。
刀身を包む魔力が、目を開けていられないほど強く輝く。
雪面が圧力によって陥没し、岩壁から砕けた石が落ちてきた。
エイヴンは直接吹き飛ばされることこそなかったが、その力に押されて数歩後方へ滑った。
長靴の底が、雪面に二本の深い溝を刻む。
マシューはそこでようやく、セインが飲み込まれた衝撃から我に返った。
「隊長!」
目を真っ赤にし、盾を構えて突進する。
エイヴンへ掛かる力を分散させようとした。
「この化け物が!」
「突っ込むな! 逃げろ!」
アーガがすぐに叫んだ。
しかし、マシューはすでに飛び出していた。
盾を竜王の前脚へ叩きつける。
普通の竜魔獣なら、その一撃だけで重心を崩していたはずだ。
だが、竜王は僅かに頭を下げ、マシューを一度見ただけだった。
前脚が半瞬だけ止まり、そのまま一気に押し下げられる。
マシューの膝が折れた。
身体ごと雪の中へ跪きそうになる。
エイヴンは即座に振り返った。
連続する剣光を、竜王の側頭部へ叩き込む。
竜王は頭を持ち上げざるを得なくなり、前脚から力が抜けた。
マシューはようやく圧力から抜け出し、よろめきながら数歩後退した。
竜王が低く唸った。
その身体の周囲で風雪が巻き上がる。
何らかの力によって、吹雪そのものが掻き回されているようだった。
竜王はエイヴンから視線を外した。
突然頭を動かし、後方にいるアーガたちへ目を向ける。
アーガの胸に嫌な予感が走った。
「散れ!」
エイヴンも同時に叫んだ。
アーガはイータの腕を掴み、横へ飛び込んだ。
竜王の頭部が、二人が立っていた場所を掠めるように噛みつく。
鋭い牙が、アーガの肩を掠めた。
激痛が一気に弾けた。
アーガは苦痛に声を詰まらせる。
左肩を引き裂かれたような感覚が走り、熱い血が瞬く間に服へ染み込んだ。
直後、冷たい風に晒され、傷の周囲が痺れていく。
「アーガ様!」
イータの声が一変した。
アーガへ駆け寄ろうとする彼女を、リナが必死に引き止める。
「行っては駄目!」
リナは歯を食いしばった。
「あなたが行けば、彼の気が散るだけです!」
イータの目から涙が溢れた。
耳を頭へ強く伏せたまま、リナに引かれて岩壁の後ろまで下がる。
アーガは雪面へ手をつき、身体を半分起こした。
痛みで視界が大きく揺れる。
「後ろへ下がれ」
歯を食いしばりながら言った。
「開けた場所に立つな」
アーガが負傷したのを見て、ノヨンは反射的に治療術を使おうとした。
掌に淡い青色の光が浮かび上がる。
しかし、そのときにはすでに竜王の尾が振り抜かれていた。
マシューの表情が変わった。
すぐに盾を構えて駆け込み、ノヨンの前へ立つ。
盾と尾が衝突した瞬間、鈍い音が風雪を押し退けるほど強く響いた。
マシューの身体が横へ吹き飛ばされる。
盾の表面が大きくへこみ、受け止めた腕も明らかに不自然な方向へ曲がっていた。
彼は雪の中へ激しく叩きつけられた。
起き上がる暇もない。
竜王はすでに身体の向きを変えていた。
エイヴンが即座に飛び込む。
剣光が竜王の口元へ叩き込まれ、その頭を一瞬だけ横へ逸らした。
マシューはその隙に起き上がろうとした。
だが、竜王の方が速かった。
頭を下げ、マシューの肩から背中へ噛みつく。
そのまま、雪の中から持ち上げた。
「マシュー!」
ノヨンの声が震える。
エイヴンが再び剣を振るった。
淡い金色の剣光が、何度も竜王の顔の側面へ叩き込まれる。
一撃ごとに竜王の頭が揺れた。
確かに半歩後退し、噛む力も僅かに緩んだ。
しかし、マシューの身体はすでに元の場所から引き離されていた。
「隊長――」
マシューが発せたのは、その一言だけだった。
次の瞬間、竜王は激しく頭を振り、彼を風雪の奥へ引きずり込んだ。
エイヴンは二歩追いかけた。
だが、振り返った竜王の前脚に阻まれ、後退せざるを得なかった。
剣光が再び放たれる。
竜王の巨大な身体は、僅かに後ろへ押された。
それでも、倒れない。
重い息を吐きながら、その場に立ち続けている。
到底越えることのできない、巨大な黒い山壁のようだった。
ノヨンは雪の上へ崩れ落ちた。
掌に浮かんでいた治療魔法も、完全に消えてしまう。
ほんの僅かな時間だった。
セインが消えた。
マシューも消えた。
エイヴンの小隊に残されたのは、エイヴンとノヨンだけだった。
アイラは岩壁のそばに立ち、顔色をほとんど透明に見えるほど青白くしていた。
借りた上着を強く握り締める。
唇が僅かに動いたが、声は出なかった。
竜王は頭を下げ、残された者たちを見つめている。
すぐに追撃する様子はない。
その縦長の瞳には、普通の魔物が見せる狂気や興奮がなかった。
残された獲物の体力。
負傷の程度。
逃げ道。
そのすべてを、冷静に見定めているようだった。
エイヴンは最前方へ立ち、剣を構え続けている。
握る手には、まだ乱れがなかった。
しかし、アーガには分かっていた。
エイヴンがどれほど攻撃しても、竜王を一瞬止め、僅かに後退させることしかできない。
本当の傷を与えるには至っていなかった。
ノヨンの魔力はほとんど尽きている。
ほかの者たちの攻撃では、竜王の鱗を傷つけることすらできない。
このまま一か所に集まっていれば、一人ずつ噛み殺される。
竜王が一歩、前へ踏み出した。
雪面が揺れた。
アーガは歯を食いしばり、無理やり身体を起こした。
「分かれて逃げろ!」
低い声で叫んだ。




