第180話 加速魔法
アーガも、聞こえのいい言葉で誤魔化そうとはしなかった。
「そうだ。襲われるのを待つより、こちらから誘き寄せた方がいい」
そう言ってから続ける。
「だから、囮になるのは一番足の速い人間でなければならない。それに、真っ直ぐ走るだけでは駄目だ。竜魔獣を待ち伏せできる場所まで誘導し、本当に追いつかれないようにする必要がある」
マシューはエイヴンを見た。
「隊長、危険すぎます」
「今ここで危険を冒さなくても、あいつらに洞窟を見つけられれば、結局全員死ぬ」
セインが突然言った。
全員が彼へ振り返る。
セインは包帯を巻いた自分の腕を軽く触り、歯を見せて笑った。
「何だよ、その目は。まさか全員、忘れたわけじゃないだろうな?」
「俺は加速魔法の使い手だぞ」
マシューの表情が変わった。
「セイン」
「そんな顔で見るなよ」
セインは片手を振った。
「逃げることに関しては、俺は専門家だ」
ノヨンが眉を寄せる。
「腕を負傷しているでしょう」
「傷ついているのは腕であって、脚じゃない」
セインは肩を動かした。
痛みで息を呑んだが、それでも無理に笑みを浮かべる。
「それに、俺の役目は竜魔獣を連れてくるだけだ。あいつと一対一で戦うわけじゃない」
マシューが悪態をついた。
「強がるな。あの化け物は、一噛みで人間の身体を半分持っていくんだぞ」
「だからこそ、俺は専門家だと言っているんだ」
セインはアーガを見た。
「お前の作戦では、囮はどこまでやればいい?」
アーガはすぐには答えなかった。
セインをしばらく見つめてから尋ねる。
「本当にやるつもりか?」
セインは石壁へ預けていた身体を少しだけ起こした。
「ノヨンにやらせるわけにはいかないだろう? 今は歩くだけでもふらついている」
「マシューも駄目だ。こいつが走ると、壁を一枚背負っているみたいだからな」
「隊長は残って竜魔獣と戦わなきゃならない。アイラは道案内が必要だし、お前たち三人はもっと向いていない」
そこまで言うと、肩を竦めた。
「一通り考えれば、俺が行くしかない」
エイヴンはセインを見つめた。
しばらく沈黙したあと、低い声で言う。
「少しでも状況がおかしいと思ったら、すぐに作戦を中止して戻れ」
セインは頷いた。
「分かっています」
エイヴンはアーガへ目を向ける。
「具体的には、どう動く?」
アイラが再び枝を手に取り、洞窟の入り口、山道、周囲にある岩の位置を地面へ簡単に描いた。
アーガはその図を確認してから口を開く。
「セインが外へ出たら、洞窟から離れすぎないようにしながら、まず左側の山道を走って音を立てる」
「竜魔獣が追ってきたら、この岩の後ろを回って戻るんだ」
エイヴンが地面の一点を指した。
「ノヨンが先に魔法で雪を払う。俺とマシューはここへ隠れ、最初の一撃を担当する」
「アイラは地形を見て、俺たちが亀裂へ踏み込まないように知らせてくれ」
アイラは頷いた。
「洞窟の外には斜面があったはずです。その下は雪が深いので、竜魔獣にそちらへ追い込まれないようにしてください」
「俺とリナ、イータは後方に残る」
アーガが続ける。
「倒すことはできなくても、動きを妨害したり、時間を稼いだりはできる」
イータはすぐに頷いた。
「はい」
リナが尋ねる。
「来るのが普通の竜魔獣ではなく、あなたが言っていた群れを率いる個体だった場合は?」
アーガはエイヴンを見た。
「そのときは、エイヴンの判断に任せる。戦えるなら戦い、無理なら撤退する」
エイヴンは強がらなかった。
「先ほどの個体より明らかに大きい場合、あるいは魔力の圧力が強すぎる場合は、正面から戦わない」
「まずは、そいつが存在することを確認する」
セインは残っていた食べ物を口へ入れ、飲み込むと手を叩いた。
「つまり俺は、外へ出て二、三回叫んでから、ここまで逃げ戻ればいいんだな?」
ノヨンが彼を見た。
「わざとらしく叫ばないでくださいね」
「安心しろ。俺は感情を込めて演じるのが得意なんだ」
セインは洞窟の入り口へ歩き、脚を軽く動かした。
それから振り返り、マシューを見る。
「俺が遅れたら、盾で一度受け止めてくれよ」
マシューは彼を睨んだ。
「そんな機会を作るな」
洞窟の中が、再び静かになった。
全員がそれぞれの位置につく。
アーガは雪を被せて焚き火を小さくし、僅かな暗赤色の炭だけを残した。
光が洞窟の入り口から漏れないようにするためだ。
リナはイータが使っていた毛布を片づけた。
イータは慎重に尻尾を外套の中へ隠し、耳を真っ直ぐ立てて外の音を聞き取ろうとする。
エイヴンとマシューは先に洞窟を出た。
風雪に紛れながら岩の後ろまで移動する。
ノヨンは入り口の内側に立ち、掌にはすでに淡い青色の魔法陣が浮かんでいた。
アイラが地形上の危険な場所を声を潜めて伝え、アーガは一つずつ記憶していく。
指先はカードケースへ置かれていた。
最後に洞窟の入り口へ残ったのは、セインとノヨンだけだった。
淡い青色の魔法陣が、ノヨンの掌で輝きを増す。
今回は以前のように、広範囲の空を無理やり抑え込もうとはしなかった。
魔力を洞窟の外にある山道だけへ集中させる。
細かな気流が指先から溢れ出し、地面に沿って外へ広がった。
積もった雪を巻き上げ、降り続ける雪幕を左右へ押し退けていく。
一面の白に覆われていた山道に、ようやくぼんやりとした輪郭が現れた。
アイラがすぐに声を潜めて言う。
「左側の岩の後ろなら隠れられます。でも、そこから十数歩先には亀裂があります」
「セイン、絶対にあの黒い岩より先へ走らないで」
「覚えた」
セインは自分の脚を軽く叩いた。
「黒い岩の手前で引き返す」
エイヴンが全員を見た。
「作戦どおりに動く」
「セインは誘導だけに集中しろ。無理はするな」
「ノヨンは気流を維持。マシューと俺が最初の一撃を入れる」
「アーガは妨害と周囲への警告を頼む」
アーガは頷いた。
指はすでにカードケースへ掛かっている。
イータはアーガの胸元から少し身体を起こし、耳を高く立てた。
自分が外へ飛び出してはいけないことは理解している。
今できるのは、外の音を可能な限り正確に聞き取ることだけだ。
「私が聞いています」
小さな声で言った。
「二頭目が近づいてきたら、すぐに知らせます」
「ああ」
アーガはイータの頭を撫でた。
「おかしいと思ったら、迷わず叫べ」
イータは真剣な顔で頷いた。
リナは彼女の外套をもう一度しっかりと巻き直す。
さらに、アーガの予備の薬剤を手の届く位置へ置き、いつでも取り出せるようにした。
自分も外へ出るとは言わない。
ただ、今できることを静かに行っていた。
エイヴンとマシューは一足先に洞窟を出た。
ノヨンが吹き開けた雪の道に沿い、左側の岩の後ろへ身を隠す。
エイヴンの姿はすぐに雪幕へ飲み込まれた。
剣の柄に浮かんだ淡い光だけが、一瞬だけ見える。
マシューは盾を低く構え、積雪の中で身体を半分屈めた。
雪に覆われた岩のように、ぴくりとも動かない。
セインは洞窟の入り口に立ち、振り返った。
「行ってくる」
岩の後ろから、マシューの低い声が聞こえた。
「無駄口を叩くな。早く行け」
セインは笑った。
その足元へ、淡い青緑色の魔力が浮かび上がる。
次の瞬間、彼の身体は洞窟の外へ飛び出していた。
風雪を細く切り裂きながら進んでいく。
洞窟からは離れすぎず、アーガに指示されたとおり、左側の山道を一度回った。
最初は声を抑え、周囲に何の動きもないことを確認する。
それから、わざと声を張り上げた。
「おい、醜いトカゲ!」
その声は山道の間で反響し、ひどく耳障りに響いた。
「さっきまで人を追い回していたくせに、今度は怖くて出てこられないのか!」
イータの耳が即座に動いた。
「音がします」
声を潜めて言う。
「遠いです」
アーガはカードを強く握った。
「何方向からだ?」
「一つ……たぶん、一つだけです」
セインは外で叫び続けていた。
声には、わざとらしい焦りを混ぜている。
数歩走っては止まり、また戻る。
加速魔法によって、その姿は雪幕の中で現れては消えていた。
遠方から、低い鳴き声が響いた。
ノヨンが歯を食いしばる。
気流魔法が再び広がり、洞窟の外の雪幕をさらに押し開いた。
アーガは吹き払われた雪の道の向こうに、暗灰色の影が山道の上から降りてくるのを見た。
群れを率いる個体ではない。
大きさは、最初に倒した竜魔獣とほぼ同じだった。
「来た」
アーガが低い声で告げる。
セインも、その黒い影を目にした。
顔に浮かべていた笑みが、一瞬だけ引きつる。
直後、勢いよく背を向けて走り出した。
「くそっ! 本当に来やがった!」
その言葉だけは、演技ではなかった。
竜魔獣は四肢で雪面へ着地した。
先ほどのように上空から急降下することなく、身体を低く伏せ、山道を猛然と駆けてくる。
鋭い爪が雪を深く掻き、いくつもの溝を刻んだ。
その速度は、想像していたよりも遥かに速かった。




