第176話 金貨二十枚
その金額があれば、今後かなり長い距離を旅することができる。
薬剤や装備を補充するにも十分だった。
何より、今は大雪によって街が封鎖されている。討伐へ参加しなかったとしても、すぐに暮星城を出られるとは限らない。
アーガは少し考えてから口を開いた。
「それなら、金貨十枚と上等な魔晶石を一つでどうだ?」
「構わない」
相手は迷うことなく答えた。
アーガは思わず目を瞬かせる。
「えっ、そんなものが本当にあるのか?」
「城主府に保管されている」
アーガは頷いた。
「なら、参加する」
レックスが舌打ちする。
「随分と切り替えが早いな」
「金貨十枚と上等な魔晶石一つだぞ」
アーガは平然と答えた。
「これ以上返事を遅らせる方が失礼だろう。だが、本当に間違いないんだな?」
「城主府とギルドが保証する」
「分かった」
イータが小声で呼びかける。
「アーガ様……」
アーガは彼女を一度見た。
「心配するな。お前とリナは主攻部隊には入らない。危険になったら、真っ先に逃げろ」
リナが尋ねる。
「本当に大丈夫なのですか?」
「分からない」
アーガは正直に答えた。
「だが、この街に残ったとしても、安全とは限らない」
ギルド長は職員に命じ、臨時の契約書を持ってこさせた。
アーガは契約内容を最初から最後まで丁寧に確認する。
報酬、特別協力員としての立場、撤退時の条件がすべて明記されていることを確かめてから、ようやく自分の名前を書き込んだ。
ほどなくして、金貨五枚が入った革袋を手渡された。
アーガは袋をしまい込み、ようやく少しだけ安心した。
少なくとも、ただ働きではない。
そのとき、エイヴンの小隊から一人の少女が前へ出た。
淡い青色の魔法使いの法衣を身につけ、銀灰色の長い髪を後ろで束ねている。腰には数本の治療薬と、小型の魔晶石が下げられていた。
年齢はそれほど高く見えない。
顔色は僅かに青白かったが、その動きには落ち着きがあった。
エイヴンが彼女へ振り返る。
「ノヨン、頼む」
少女は頷き、ギルドの入り口へ向かった。
外では今も雪が降り続けている。
通りにはすでに厚い雪が積もっていた。
何をするつもりなのか気になった数人の冒険者が、少女のあとを追って外へ出る。
ノヨンは石段の上に立ち、右手を持ち上げた。
掌から淡い青色の魔法陣が広がる。
細かな光の粒が風雪に逆らって空へ昇り、間もなく灰白色の雲の中へ溶けていった。
最初は何の変化も起きなかった。
しかし、しばらくするとギルド前を吹き抜けていた風が弱まった。
舞い落ちる雪の粒が、見えない何かに支えられているかのように速度を落としていく。
分厚かった雪幕も、強引に一段薄く押さえ込まれた。
イータが目を大きく見開く。
「すごい……」
リナが小声で言った。
「乱流魔法でしょうか?」
ノヨンが手を下ろしたときには、額に細かな汗が浮かんでいた。
「維持できるのは半日だけです」
彼女は振り返り、集まった者たちへ説明する。
「それに、効果範囲も広くありません。城を出てから南山の麓までの区間しか、風雪を抑えることはできません」
一度息を整える。
「二刻後に出発してください。それ以上遅れると、雪が再び強くなります」
ギルド長が即座に命令を出した。
「討伐へ参加する全小隊は、二刻以内に準備を終えろ」
「ギルドの倉庫から、薬剤、縄、火油、防寒用品の一部を支給する。不足分は各自で購入しろ」
「二刻後、ギルド前に集合だ」
ホールはたちまち慌ただしくなった。
倉庫へ物資を受け取りに行く者。
宿へ装備を取りに戻る者。
地図の前へ残り、経路を再確認する者。
アーガはリナとイータを連れ、まず薬剤店へ向かった。
店主は討伐隊が山へ向かうことを、すでに聞いていたらしい。
店の棚には、治療薬が一列に並べられていた。
アーガは一本を手に取り、中身を確かめたあと、値札へ目を向ける。
「値上げしたのか?」
店主の笑顔が僅かに固まった。
「急に需要が増えましたからね……」
「災害に乗じた値上げは、ギルドには好まれないだろうな」
アーガは薬瓶を棚へ戻した。
「しかも今、討伐隊がこの店で薬を買おうとしている」
店主は二秒ほど黙り込み、値札の数字を少しだけ元へ戻した。
リナが隣で呆れたように言う。
「こんなときまで値切るのですか?」
「こんなときだからこそだ」
アーガは数本の治療薬を選び、止血粉と魔力回復薬も追加した。
「山へ入ったあとでは、買いたくても買えないかもしれない」
イータは縄の束を抱えながら、真剣な顔で尋ねる。
「これは私が持ってもいいですか?」
「構わない。だが、あまり重くするな」
アーガは彼女の耳を見てから、厚手のマフラーを一つ手に取り、投げ渡した。
「これも持っていけ」
イータはマフラーを受け止めた。
「私は寒くありません」
「耳が赤いぞ」
「獣人の耳は、もともと赤くなりやすいんです……」
リナがマフラーを受け取り、イータの首へ巻いた。
「言うことを聞きなさい」
イータは仕方なく、大人しく頷いた。
二刻は瞬く間に過ぎた。
三人がギルド前へ戻ると、討伐隊はほぼ集まり終えていた。
八つの小隊が雪の上に並び、先ほどよりも十分な装備を整えている。
レックスは大斧を肩へ担ぎ、不機嫌そうに隊員たちへ薬剤の確認を急かしていた。
カロの小隊は反対側に立っており、ほとんど誰も話していない。
エイヴンはギルド長と城主を相手に、最後の経路確認を行っていた。
ノヨンの魔法によって雪はある程度抑えられている。
それでも南山の方角は灰白色に染まり、山頂までは見通せなかった。
そのとき、ギルドの側面にある扉から、鉄鎖を引きずる音が聞こえてきた。
その場にいた全員が振り返る。
二人の城衛に連れられ、アイラが姿を現した。
彼女は淡い色の囚人服を着て、その上から薄い外套を羽織っていた。
銀白色の長い髪は簡単に後ろで束ねられている。
以前よりも顔色は青白く、両手首には重い枷がはめられていた。
歩くたびに鉄鎖がぶつかり合う。
その音は雪の中で、ひどく耳障りに響いた。
イータの目が一瞬で赤くなる。
「アイラお姉ちゃん……」
声を聞いたアイラが顔を上げた。
アーガたち三人を見つけると、一瞬動きを止める。
しかし、すぐに再び俯いてしまった。
周囲の冒険者たちも彼女を見ていた。
同情。
疑い。
隠そうともしない警戒。
さまざまな視線が向けられている。
エイヴンはアイラのそばへ歩み寄ると、城衛にそれ以上彼女を引かせなかった。
「外してくれ」
城衛は城主へ目を向けた。
城主が頷く。
それを確認した城衛は鍵を取り出し、部下にアイラの手枷を外させた。
鉄鎖が雪の上へ落ち、鈍い音を立てる。
アイラは無意識に手首を擦った。
そこには枷で擦れた赤い痕が、一周するように残っている。
エイヴンは自分の予備の外套を差し出した。
「これから、俺たちは竜魔獣の討伐へ向かう」
「討伐が終わるまでの間、君は自由だ」
エイヴンはアイラを真っ直ぐに見た。
「君の力が必要だ」
アイラも彼を見返した。
その瞳には、複雑な感情が浮かんでいる。
彼女はこの街に疑われ、拘束されていた。
そして今、このような状況になった途端、外へ連れ出されたのだ。
それでも、南山で異変が起きたことが何を意味するのかは、彼女自身が誰よりも理解している。
しばらく沈黙したあと、アイラは外套を受け取った。
静かに頷く。
「分かりました」
イータが彼女のもとへ駆け寄ろうとしたが、リナに腕を掴まれた。
今は、そのときではない。
アーガは人混みの中から、エイヴンがアイラの枷を外させる姿を見ていた。
その光景によって、周囲の冒険者たちの警戒も僅かに薄らいでいく。
エイヴンは、こうしたことをするのが上手かった。
相手に恥をかかせることもない。
かといって、自分の善意を大げさに見せようともしない。
エイヴンが一同へ向き直った。
「出発する」
討伐隊が暮星城を離れたとき、南門の外にある道はすでに雪に覆われていた。
ノヨンの魔法によって風雪は一時的に弱められている。
それでも南山へ近づくほど、寒気は強くなっていった。
アイラは隊列の前方を歩き、何度も足を止めて方角を確認した。
彼女が選んだのは主要な山道ではない。
木々の影に隠れた細い道へ、全員を導いていく。
「ここは、薬草を採取する人たちが使う道です」
アイラが説明した。
「主要な道は幅が広く、上空から見つかりやすい。この道は少し遠回りになりますが、いくつかの谷を避けることができます」
レックスが眉を寄せる。
「本当に大丈夫なんだろうな?」
アイラは言い争おうとはせず、少し先にある雪に覆われた低木を指差した。
「あの下は空洞です。そこから二十歩ほど進んだ場所に、亀裂があります」
レックスは信用せず、隊員に長槍で雪の下を探らせた。
槍先は何の抵抗もなく沈み込み、積雪の一部が崩れ落ちる。
その下から、雪に隠されていた深い亀裂が現れた。
レックスは舌打ちした。
それ以上は何も言わなかった。
隊列はそのまま山を登り続けた。
途中、風雪によって山から追い出された魔物に数回遭遇した。
数は少なく、実力もそれほど高くない。
前方の主力小隊によって、すぐに片づけられた。
アイラは何度も、待ち伏せが起きそうな場所を事前に知らせた。
そのおかげで、隊列は多くの危険を避けることができた。
イータがアーガのそばを歩きながら、小声で言う。
「アイラお姉ちゃん、やっぱりすごいです」
「ああ」
アーガは前方の山道を見つめた。
「少なくとも、俺たちよりはこの場所に詳しい」
高度が上がるほど、空気はさらに冷たくなった。
雪は再び密度を増し、外套の上へ積もると、すぐに細かな氷粒へ変わる。
山林は徐々に疎らになり、雪の下から剥き出しの岩壁が現れ始めた。
谷の間を風が吹き抜け、泣き声のような音を立てている。
ノヨンの顔色も、次第に青白くなっていった。
何度も手を上げて魔法を維持していたが、額に浮かんだ汗はすぐに冷たい風によって乾いていく。
エイヴンが尋ねた。
「まだ持つか?」
「もう少しなら」
ノヨンは答えた。
「ですが、山の中腹まで着いたら、雪を抑えられなくなると思います」
エイヴンは頷き、アイラへ振り返る。
「最初の開けた場所まで、あとどれくらいだ?」
「もう少し先です」
アイラは雪幕の奥を見上げた。
「以前は、薬草採取をする人たちが休憩に使っていた場所です。もし竜魔獣が本当に山を下り始めているなら、そこを通る可能性があります」
その言葉が終わった直後、遠くから鋭く長い鳴き声が響いた。
全員が同時に足を止める。
イータの耳が勢いよく立った。
アーガも空を見上げる。
雪雲の奥を、巨大な黒い影が横切った。
最初は輪郭のぼやけた小さな点にしか見えなかった。
しかし、その姿は急速に大きくなり、はっきりとしていく。
幅広い翼膜が雪幕を切り裂いた。
暗灰色の鱗が、薄暗い空の下で冷たい光を反射する。
「来るぞ!」
誰かが叫んだ。
次の瞬間、竜魔獣は両翼を畳み、雪雲の中から一直線に急降下してきた。
巻き起こった突風が、雪を叩きつけるように冒険者たちへ吹きつける。
前方の者たちが一斉に武器を抜いた。
アーガはイータの腕を掴み、自分の背後へ引き寄せる。
竜魔獣の影が頭上を覆った瞬間、雪原全体が一瞬だけ暗くなった。




