第175話 八つの小隊
竜魔獣はゴブリンでも、野狼でもない。
たとえC級小隊であっても、一頭を相手に確実に勝てるとは言えない。それが今、八頭もいる可能性があるのだ。
山へ向かうことが何を意味するのかは、その場にいる全員が理解していた。
灰色の外套を着た冒険者が立ち上がった。その顔色は酷く険しい。
「竜魔獣が街を襲う可能性がある以上、俺とギルド長は暮星城に残って防衛を指揮しなければならない。残りは、諸君に任せることになる」
城主オースティン・グレイヴンの声が、次第に低くなっていく。
立ち上がった冒険者は、ギルド長へ向き直った。
「ギルド長、先にはっきり言わせてもらう。俺たちの小隊は暮星城を通りかかっただけだ。城へ入ったのも昨日で、ここの人間じゃない。この街のために命を捨てる理由はない」
隣にいた仲間が腕を引いたが、男は構わず続けた。
「討伐するべきじゃないと言っているわけじゃない。だが、これは普通の依頼じゃないだろう。雪で道を塞がれて城から出られないからといって、俺たちが山へ送り込まれて当然ということにはならない」
ホールにいた何人かが、冷たい目を向けた。
一方で、何も言わずに黙っている者もいた。
ギルド長は男を見つめ、しばらくしてから答えた。
「今回の討伐への参加は、すべて志願制とする」
男は一瞬、呆気に取られた。
ギルド長は続ける。
「誰もお前たちに山へ入ることを強制しない。参加を希望する小隊には、ギルドと城主府から報酬、薬剤、装備購入の補助を支給し、功績も正式に記録する」
「参加を望まない者は、街に残って城の防衛を手伝ってもいい。あるいは雪が止むまで、城内で待機しても構わない」
灰色の外套の冒険者は、安堵したようにも、居心地が悪そうにも見えた。
俯いたまま荷物をまとめると、自分の小隊を連れてホールを出ていく。
扉の前まで来たとき、誰かが小声で「臆病者」と吐き捨てた。
男の足が一瞬止まった。
しかし、振り返ることなく、そのまま外へ出ていった。
ほどなくして、さらに二つの小隊がホールを離れた。
俯いている者もいれば、顔を青くしている者もいた。小隊に負傷者がいるから山には行けないと、何度も説明している者もいる。
誰も彼らを引き止めなかった。
レックスでさえ鼻を鳴らしただけで、実際に罵声を浴びせることはなかった。
イータは出ていく者たちを見送り、小声で言った。
「本当に行ってしまいましたね」
「それが普通だ」
アーガは答えた。
イータが彼を見上げる。
アーガは茶を一口飲んだ。苦い液体が喉を流れ、身体に残っていた寒気を僅かに追い払う。
「死ぬのが怖いことは、恥ずかしいことじゃない」
茶杯を机へ戻しながら言った。
「死ぬかもしれないと分かっているのに、怖くないふりをする方が厄介だ」
リナも静かに頷いた。
「残った人たちも、怖くないわけではありませんからね」
アーガはホールの中央へ目を向けた。
エイヴンは動いていない。
レックスも、その場に残っている。
カロは依頼掲示板のそばに立ち、剣の柄へ手を置いていた。表情は険しかったが、立ち去る様子はない。
数組の地元小隊が互いの顔を見合わせる。
やがて、そのうちの一人が前へ出た。
「俺は残る」
「俺たちも参加する」
「南側の村には、俺の親戚がいるんだ」
まだ若い冒険者が、歯を食いしばりながら言った。
「俺が山へ行かなかったら、あの人たちはどうなる?」
悪態をつきながら名乗り出る者もいた。
「まったく、ついてないぜ。二日ほど酒を飲んで休むつもりだったのに、こんなことに巻き込まれるとはな」
ホールの空気が、少しずつ変わっていった。
退く者たちが去ったあと、残った者たちはむしろ静かになった。
恐怖が消えたわけではない。
ただ、それまで無秩序にホールを駆け回っていた恐怖が、それぞれの表情の奥へ押し込められたのだ。
ギルド長はしばらく待ち、これ以上立ち去る小隊がいないことを確認してから、再び口を開いた。
「残る小隊は、等級と人数を申告しろ」
ギルド職員がすぐに記録を始めた。
最初に登録したのは、エイヴンの小隊だった。
「エイヴン小隊、C級、四名」
職員は構成員を書き留める途中で顔を上げ、エイヴンを見た。
「隊長エイヴン、校尉級下位」
アーガが茶杯を持つ手を僅かに止めた。
校尉級下位。
エイヴンが強いことは分かっていたが、まさかそれほどの実力者だとは思っていなかった。
続いて、レックスも申告する。
「レックス小隊、C級、五名。隊長レックス、校尉級下位」
イータは目を大きく見開き、そっとレックスへ視線を向けた。
普段は粗野で軽薄な態度を見せる男が、大斧を抱えて机のそばに立っている。その顔に、冗談めいた様子は微塵もない。
校尉級下位。
すでに普通の冒険者とは比較にならないほどの領域だった。
リナが声を潜める。
「だから、以前もギルドホールであれほど堂々と話していたのですね」
アーガはレックスを見たあと、エイヴンへ目を移した。
校尉級。
道理で、二人ともこれまでの依頼で余裕を失わなかったわけだ。
次はカロの小隊だった。
「カロ小隊、D級、四名。隊長カロ、戍佐級上位」
そのあとも、地元の有力な小隊が次々と登録していく。
D級の最上位に近い小隊もあれば、この討伐のために一時的に組まれた小隊もあった。
いずれも、隊長の実力は低くない。
最終的に、山へ向かうことを志願した小隊は全部で八つとなった。
八つの小隊。
現在推測されている竜魔獣の数も、八頭。
まるで、何か不吉な符合のようだった。
ギルド長は記録へ目を落としたが、その表情が和らぐことはなかった。
「エイヴン小隊を第一主力とし、前線での状況判断と全体の指揮調整を担当させる」
「レックス小隊は第二主力として、正面からの制圧を担当する」
「カロ小隊は側面支援。そのほかの小隊は、地形に応じて組み分けて行動する」
エイヴンが第一主力だと聞いたレックスは、不満そうに口を歪めた。
しかし、反対はしなかった。
エイヴンがギルド長を見る。
「その配置で構いません。ただし、一つ要求があります」
ギルド長が顔を上げた。
「言ってみろ」
エイヴンは地図から視線を外し、城主オースティン・グレイヴンを見た。
「アイラを連れていきたい」
ホールのあちこちから、驚きの声が上がった。
イータの耳も勢いよく立ち上がる。
リナはアーガへ目を向けた。
アーガは何も言わず、茶杯を机へ置いた。
ギルド長が眉を寄せる。
「アイラは現在も拘束中だ。《晨星の家》を巡る事件が解決していない以上、彼女は依然として重要な容疑者だ」
レックスも顔をしかめた。
「容疑者を山へ連れていくのか? 途中で逃げられたらどうする?」
エイヴンはすぐに反論しなかった。
地図のそばへ歩み寄り、南山に描かれた細い山道をいくつか指差す。
「南山の道は複雑です。昨夜の雪で、古い道のほとんどは覆われている」
「俺たち冒険者が知っているのは、普段使われている経路だけです。しかし、竜魔獣がいるのは、おそらくそうした道の近くではない」
エイヴンの指が、地図上の脇道をなぞった。
「アイラは以前、薬草を採取するため、南山周辺へ頻繁に足を運んでいました。あの辺りの地形は、俺たちよりも詳しいはずです」
「それに、今は吹雪も激しい。彼女を連れていく判断は間違っていないと思います」
エイヴンはギルド長を見た。
「竜魔獣の討伐は、普通の依頼ではありません。地形を知る人間が一人足りないだけで、何人もの死者が出る可能性があります」
ホールは再び静かになった。
今度は、反対する声が先ほどより明らかに少なかった。
アイラが事件の容疑者であることと、彼女が南山の地形に詳しいことは、別の問題だ。
オースティン・グレイヴンはしばらく黙り込み、指先で静かに机を叩いていた。
隣の城衛軍士官が何かを言おうとしたが、オースティンは手を上げて制止した。
「討伐へ参加させるなら、常に監視をつける必要がある」
オースティンが言った。
エイヴンは頷く。
「構いません。討伐中は、俺が直接責任を持ちます」
ギルド長が城主を見る。
オースティンは最後にこう答えた。
「その件は私が処理しよう」
イータが、誰にも聞こえないほど小さく安堵の息を吐いた。
リナは彼女を一度見たが、何も言わなかった。
アーガは再び茶杯を持ち上げ、冷めかけた茶を一口飲んだ。
エイヴンの提案は確かに合理的だった。
周囲がアイラをどれほど疑っていようと、山へ入る以上、彼女の地形に関する経験には価値がある。
アーガがそう考えていると、エイヴンが突然こちらを向いた。
その視線が人混みを越え、壁際の隅へ届く。
アーガが茶杯を持つ手を止めた。
まさか。
エイヴンはアーガを見つめたまま言った。
「それと、アーガにも参加してもらいたい」
ホール中の視線が、一斉にこちらへ向けられた。
イータが固まる。
リナも驚いたように目を瞬かせた。
アーガは壁際の席に座ったまま、半分ほど残った冷たい茶を手にしている。
エイヴンと、ホール中央に広げられた南山の地図を交互に見たあと、自分を指差した。
「俺が?」
エイヴンは頷いた。
「ああ」
「お前たちは、山へ竜魔獣を討伐しに行くんだろう?」
アーガは地図の周囲に集まった小隊を見た。
「ここにいるのは校尉級か戍佐級ばかりだ。遊侠級の俺が行って、何をしろというんだ?」
レックスも腕を組んだまま眉を寄せる。
「こいつに多少頭が切れるところがあるのは認めるが、今回は孤児院を調査するのとは違うぞ」
アーガへ顎を向けた。
「竜魔獣は、座ってこいつの分析を聞いてくれるわけじゃない」
エイヴンはレックスの言葉を否定せず、ギルド長と城主へ向き直った。
「彼に正面で戦わせるつもりはありません」
「《晨星の家》の一件を見たあとで、彼の判断力を疑う者はいないはずです」
エイヴンは南山の地図へ目を向けた。
「今の南山では、何が起きているのか分かっていない。必要なのは戦える者だけではありません。混乱の中で異常を見つけられる者も必要です」
アーガは頭が痛くなってきた。
エイヴンの言いたいことは理解できる。
しかし、理解できることと、自分から死地へ向かう気になれることは別だった。
アーガはもともと、雪が止むのを待って暮星城を離れるつもりだった。
ところが雪は止まらず、南山には竜魔獣の群れまで現れた。
ギルドと城主府が揃って動き出した以上、すでに「別の道を使えば済む」という段階ではないのだろう。
ギルド長がアーガへ尋ねる。
「特別協力員として、討伐隊に参加する意思はあるか?」
「お前たちの小隊は主攻部隊には編入しない。正面戦闘を担当する必要もない」
アーガは、すぐには答えなかった。
イータが緊張した表情で彼を見つめている。
リナも、アーガの代わりに決断を下そうとはしなかった。
ギルドホールに短い沈黙が流れる。
やがて、アーガは突然尋ねた。
「報酬はいくらだ?」
レックスが目を丸くし、危うく吹き出しそうになった。
「お前、本当にこんなときでも聞くのか?」
「聞くに決まっているだろう」
アーガはギルド長を見る。
「俺はただのF級冒険者だ。それを竜魔獣の討伐へ連れていくんだぞ。まさか銀貨を数枚渡して終わり、というわけじゃないだろうな?」
ギルド長と城主は、声を潜めて短く相談した。
オースティンはアーガを一度見てから言った。
「金貨二十枚だ」
「半額を先に支払い、残りは任務終了後に支給する。討伐隊が途中でギルド、もしくは城主府の命令によって撤退した場合も、任務を完了したものとして扱う」
イータの耳が、ぴんと立った。
リナも驚いた様子を見せる。
アーガはさらに値段を吊り上げるつもりだった。
しかし、その金額を聞いた瞬間、しばらく何も言えなくなった。
金貨二十枚。




