第173話 異常な大雪
空が完全に暗くなる頃には、冒険者ギルドに集まる人の数は、むしろ昼間よりも増えていた。
普段なら、この時間のホールでは冒険者たちが酒を飲み、大声で騒ぎながら、自分が経験した依頼について自慢している。
しかし、今夜はまともに酒を飲める者などほとんどいなかった。
数台の長机が急遽つなぎ合わされ、その上には血に染まった布や破損した革鎧、さらに負傷者の身体から取り除かれた数枚の砕けた鱗が並べられている。
アーガは壁際の席に座り、すでに冷めきった茶を手にしていた。隣に座るリナとイータも、何も話さなかった。
ギルド長はホールの中央に立っている。
その顔色は、午後から一度も明るくなっていない。
数人の治療師と記録を担当するギルド職員が負傷者の周囲へ集まり、傷を調べながら声を潜めて話し合っていた。
「これは噛み傷だ」
年配の治療師が、負傷者の肩へ巻かれていた包帯を慎重に外した。
傷口からの出血はどうにか止まっていたが、その周囲の肉は乱暴に引き裂かれている。
「牙が深く食い込んでいる。少なくとも、大型の飛行魔物による傷だろう」
ホールにいる冒険者の中には、傷の細かな違いまでは理解できない者もいた。
それでも、露わになった傷口を見れば、ただ事ではないと分かる。
レックスは少し離れた場所で腕を組んでいた。
普段の軽薄そうな表情は、すでに完全に消えている。
しばらく傷を見つめていたが、やがて我慢できずに尋ねた。
「つまり、こいつらの傷は同じ魔物にやられたものじゃないってことか?」
年配の治療師はすぐには答えず、ギルド長へ目を向けた。
ギルド長の表情が、さらに険しくなる。
「言え」
治療師は小さく息を吐いてから答えた。
「少なくとも、同じ一頭による傷には見えません。噛み傷と衝撃による傷、それに爪痕の大きさがまったく合っていないのです」
治療師は机の上に並べられた記録へ目を落とした。
「無理に一頭の魔物がつけた傷だと考えるなら、その魔物は襲うたびに体格を大きく変えていることになります」
ホールのあちこちから、低い話し声が上がった。
「一頭じゃないのか?」
「南山で何が起きているんだ?」
「竜魔獣は一頭でも厄介なのに、何頭もいるとなったら……」
「決めつけるな。同じ魔物でも、攻撃した角度によって傷は変わるだろ」
「お前は本気でそう思っているのか?」
声は次第に大きくなり、沸騰寸前の鍋のようにホール全体がざわめき始めた。
ギルド長が机を強く叩く。
「静かにしろ」
その一言で、ホールの声はすぐに小さくなった。
ギルド長は午後に戻ってきた冒険者たちへ目を向ける。
「お前たちは、相手の数を確認できたのか?」
片腕を包帯で吊っている男の顔が青ざめた。
何かを思い出したのか、喉が大きく動く。
「分かりません。雪霧が濃すぎて、姿までは見えませんでした」
男は掠れた声で続けた。
「上から飛びかかってきたんです。俺たちに見えたのは、巨大な影だけでした」
仲間に身体を支えられている別の冒険者も、歯を食いしばりながら口を開く。
「山頂付近は、異常なほど寒かったです。風の中に氷の粒が混じっているようでした」
男は一度息を整えた。
「それに、何度も鳴き声を聞きました。すべて同じ方角から聞こえたわけではありません」
その言葉で、ホールは再び静まり返った。
アーガが茶杯を持つ手も、一瞬だけ止まる。
「目撃した状況と傷の違いが、どちらも間違っていないのなら」
エイヴンが低い声で言った。
「一頭ではないということになる」
ギルド長も、当然その可能性へ行き着いていた。
机の上に置かれた記録を見つめたまま、長い間何も言わなかった。
やがて、重い声で話し始める。
「南山は暮星城から遠くない。山頂付近に一頭の竜魔獣が偶然現れただけなら、ギルドが討伐依頼を出すことも、城主府へ援軍を求めることもできる」
そこで言葉を止めた。
「だが、複数の竜魔獣が存在し、すでに山の中腹まで下りてきているのなら……」
ギルド長は、その先を口にしなかった。
だが、ホールにいる全員が理解していた。
南山の麓には村がある。
薬草を採取するための道もあり、商人たちが利用する街道も通っている。
さらに下れば、暮星城がある。
一頭の竜魔獣なら、まだ危険度の高い討伐依頼で済む。
しかし、複数の竜魔獣となれば、それはもはや災害だった。
レックスは苛立ったように舌打ちし、乱暴に髪を掻いた。
「くそっ。どうしてよりによって、こんな時期に……」
エイヴンは何も答えなかった。
机のそばへ歩み寄り、置かれていた鱗を一枚手に取って確認する。
しかし、すぐに元の場所へ戻した。
「負傷者は全員、このままギルド内で治療を続ける」
ギルド長がようやく決断を下した。
「今夜から南山周辺の依頼をすべて停止する。明日の朝、D級以上の小隊を集めて会議を開く。城主府には、俺が直接人を送って知らせる」
一人の冒険者が、耐えきれないように尋ねた。
「今夜はどうするんです? もし、あいつらが山を下りてきたら……」
ギルド長が、その男へ視線を向けた。
ホールは再び静かになった。
誰も聞きたくない質問だった。
だが、全員が心の中で同じことを考えている。
しばらくして、ギルド長が答えた。
「城衛所には南門と南側の城壁の巡回を強化させる。ギルドからも数組を出し、夜通し警戒に当たらせる」
厳しい目でホールを見渡す。
「命令がない限り、誰であろうと勝手に山へ入ることは許さん」
質問した冒険者は、まだ何かを言いたそうだった。
しかし、そばにいた仲間に腕を引かれ、口を閉じる。
すでにこの問題は、普通の冒険者が好き勝手に口を挟める段階ではなかった。
アーガは茶杯を置き、リナとイータを連れて帰ろうと立ち上がった。
これ以上ここにいても、新しい情報が得られるとは思えない。
本来なら、三人は明日にも暮星城を出る予定だった。
だが、今の状況では旅の経路を改めて考え直す必要がある。
アーガが立ち上がった直後、ギルドの外から突然大きな騒ぎ声が聞こえてきた。
誰かが扉を開き、ホールの中へ冷たい風が吹き込んでくる。
油灯の炎が一斉に大きく揺れた。
扉の近くにいた冒険者が怒鳴る。
「早く閉めろ! 寒いだろうが!」
しかし、扉を開けた男はすぐには閉めなかった。
入り口に立ったまま、呆然と外を見上げている。
「雪が降っている……」
ホールにいた者たちは、一瞬その言葉の意味を理解できなかった。
「何だって?」
男は振り返った。
その顔には、信じられないという感情がはっきりと浮かんでいる。
「外で雪が降っているんだ!」
その言葉を聞き、ギルド長まで扉の方へ顔を向けた。
アーガが入り口へ向かう頃には、数人の冒険者がすでに外へ出ていた。
リナとイータも、そのあとを追う。
ギルドを出た瞬間、冷たい風を受けたイータの耳が小さく震えた。
通りには、本当に雪が降っていた。
最初は、夜空から落ちる白い塵のような小さな粒にすぎなかった。
しかし、僅かな時間で雪は急激に密度を増していく。
石畳へ落ちた雪は、あっという間に薄い白色の層を作り始めた。
街を歩いていた者たちも次々と足を止める。
ある者は手を伸ばして雪を受け止め、そのまま呆然と掌を見つめていた。
「今は夏だぞ……」
獣皮の外套を身につけた冒険者が呟いた。
自分の目を信じられないのか、掌に積もった雪を指でつまむ。
雪はすぐに溶け、冷たい水となって指の間を流れ落ちた。
「本物の雪だ……」
店や宿からも、次々と人が出てくる。
パン屋の主人は、火掻き棒を握ったまま店先に立っていた。
珍しい雪に喜んだ数人の子供たちが手を伸ばそうとしたが、近くの大人に慌てて引き戻される。
御者たちは悪態をつきながら馬へ布を被せ、通りで花を売っていた少女は、急いで花台を店内へ運び込んでいた。
雪はさらに激しくなっていく。
ほんの僅かな時間で、屋根も馬車も石段も、すべて白く染まった。
イータは夜空を見上げている。
その顔に喜びはなく、浮かんでいたのは不安だけだった。
「アーガ様、これはおかしいですよね?」
「おかしいな」
アーガは即座に答えた。
リナも眉を寄せる。
「南山で起きていることと、関係があるのでしょうか?」
アーガは南の方角へ目を向けた。
冒険者ギルドのある通りは、周囲より少し高い場所にある。
遠くには、南山のぼんやりとした輪郭が見えるはずだった。
だが、激しく降る雪によって視界の大半が遮られている。
山の影は白い霧に飲み込まれ、黒く沈んだ境界だけが僅かに残っていた。
昼間の時点では、明後日に暮星城を離れる予定だった。
しかし、すでに雪は街道へ積もり始めている。
このまま降り続ければ、明日は街を出るどころか、商路を通れるかどうかさえ分からない。
アーガは帽子のつばを少し下げた。
その上へ落ちた雪が溶け、冷たい雫となって流れ落ちる。
「これでは、明日の出発は無理だな」
リナが冷たい息を小さく吸い込んだ。
「ますます厄介なことになってきましたね」
イータは何も答えず、自分の服の裾を強く握っていた。
そのとき、ギルドの入り口に集まっていた人々が突然静かになった。
遠く離れた南山の方角。
白い雪幕の奥から、長い鳴き声が響いてきた。
昨夜よりも、はっきりと聞こえる。
低く、長く引き延ばされた声。
最後には、耳を刺すような鋭い音が混じっていた。
巨大な翼が凍りついた谷の上を通り過ぎたようにも聞こえる。
あるいは、闇の中に潜んでいる何かが、この突然の大雪へ応えるように声を上げたのかもしれない。
街にいた全員が動きを止めた。
馬たちさえ不安そうに地面を踏み鳴らす。
イータの耳は真っ直ぐに立ち、その顔からは血の気が引いていた。
アーガは南山を見つめたまま、少しずつ眉を寄せていく。
雪は今も降り続いている。
暮星城の灯りは、厚くなる雪幕によって次第に輪郭を失っていった。
そして、竜魔獣の長い鳴き声は、冷たい一本の針のように、その場にいるすべての者の胸へ深く突き刺さった。




