第172話 竜魔獣
通りを歩いていた人々が、一斉に振り返った。
一台の馬車が南門の方角から猛スピードで突っ込んでくる。車輪は石畳の上で激しく跳ね、今にも車体が横転しそうだった。御者は顔中に汗を浮かべ、枯れた声で叫び続けている。
「どけ! 早く道を空けろ!」
馬車の後ろからは、数人の冒険者が走ってきていた。
革鎧を引き裂かれ、血の滲んだ布を肩へ巻いている者もいれば、折れた長槍を支えにしながら走っている者もいる。彼らは何度も後ろを振り返っていた。まるで、今も何かに追われているかのようだった。
イータの耳が勢いよく立ち上がる。
リナはすぐに剣の柄へ手を置いた。
アーガは目を細め、馬車の荷台に一人の男が横たわっていることに気づいた。
男の身体は、ほとんど血で赤く染まっていた。
胸を覆う鎧には巨大な亀裂が走り、何かに力任せに引き裂かれたように砕けている。左腕は不自然な角度で垂れ下がり、脚には骨が見えるほど深い傷が何本も刻まれていた。
血が荷台の板の隙間から滴り落ち、石畳の上へ途切れ途切れの赤い線を残していく。
馬車は速度を落とさず、そのまま冒険者ギルドへ向かっていった。
「見に行こう」
アーガが言った。
三人が人の流れに続いてギルドの前へ着くと、馬車はすでに止まっていた。
数人の冒険者が慌ただしく負傷者を運び下ろし、ギルドホールは一瞬で騒然となる。
「治療師だ! 早く治療師を呼べ!」
「胸には触るな! 骨が折れている!」
「水だ! 水を持ってこい!」
アーガはどうにか扉の近くまで進んだが、それ以上前へ出ることはしなかった。ホールには人が集まりすぎている。これ以上近づけば、かえって邪魔になるだけだ。
負傷者はホール中央に置かれた長机の上へ運ばれた。
机に置かれていた酒杯や依頼書は、まとめて床へ払い落とされる。麦酒が床一面へこぼれたが、それを気にする者はいなかった。
白い法衣を着た治療師が奥から駆けつける。
負傷者の傷を見た瞬間、その顔色が変わった。
「誰にやられた?」
誰も答えなかった。
正確には、一緒に戻ってきた冒険者たちは、すぐに言葉を発することができなかった。
顔中を泥で汚した男が受付台へ手をつき、何度も荒い息を吐く。しばらくして、ようやく苦しそうに口を開いた。
「南……南山だ……」
そのとき、ギルド長も二階から下りてきた。
白髪交じりの男で、背丈はそれほど高くない。しかし、彼が険しい表情を浮かべた瞬間、騒がしかったホールの声が僅かに小さくなった。
「何があった?」
男はギルド長の姿を見ると、ようやく話を聞いてくれる者を見つけたように全身から力を抜いた。脚が崩れ、危うくその場へ膝をつきそうになる。
「俺たちは南山の巡回依頼を受けていました」
男は途切れ途切れに話し始めた。
「山頂付近にいる魔物の活動を確認するだけのはずだったんです。それなのに、まだ山の中腹へ着いたばかりのところで襲われました」
ギルド長が眉を寄せる。
「何に襲われた?」
男は口を開いた。
しかし、すぐには声が出なかった。
その顔には、恐怖を通り越して何も考えられなくなったような、虚ろな表情が浮かんでいる。
「竜……」
ホールが静かになった。
聞き間違いだと思ったのか、誰かが尋ね返す。
「何だって?」
男は唾を飲み込み、震える声で答えた。
「竜魔獣です」
その三文字が告げられた瞬間、ギルドホールは完全な静寂に包まれた。
アーガのそばで、誰かが息を呑む音が聞こえた。
竜魔獣は、本物の竜ではない。
本物の竜は古い伝説や、王国でも最も危険とされる禁域にしか存在しないと言われている。普通の人間が一生のうちに目にすることなど、まずあり得なかった。
竜魔獣と呼ばれるものの多くは、竜の血を引いているか、竜に近い姿を持つ高位の魔物だ。
だが、本物の竜ではないからといって、普通の冒険者が簡単に相手にできる存在ではない。
ギルド長の表情が明らかに変わった。
彼は足早に負傷者のそばへ近づく。
治療師は魔法で出血を抑えていた。淡い緑色の光が傷口を覆っているが、血の流れを僅かに遅くすることしかできていない。
「この男の階級は?」
ギルド長が尋ねる。
そばにいた冒険者が、苦しそうに答えた。
「戍佐級中位です」
イータが目を見開く。
「戍佐級中位……」
無意識にアーガの方を見る。
アーガは何も言わず、負傷者の胸元で砕けた鎧へ視線を向けていた。
決して低い階級ではない。
少なくとも普通の冒険者にとって、戍佐級中位の実力があれば、大半の低位魔物には十分対処できる。
しかし、今その男は机の上に横たわり、まともに一言話すことさえできない状態だった。
ギルド長は身を屈め、負傷者へ尋ねた。
「姿は見たのか? 何頭いた?」
負傷者の瞼が僅かに動く。
治療師がすぐに止めた。
「話をさせないでください。今は非常に危険な状態です」
ギルド長の顔色は、すでに恐ろしいほど険しくなっていた。
彼は近くにいた職員へ振り返る。
「城衛所へ連絡しろ。それから南山の道に詳しい二つの小隊を調査へ向かわせる。調査だけだ。絶対に戦闘はするな。異常を発見したら、すぐに戻ってこい」
職員は即座に頷いた。
「はい!」
静まり返っていた冒険者たちが、再び騒ぎ始めた。
「どうして南山に竜魔獣がいるんだ?」
「今までは普通の飛行魔物しかいないって話だっただろ?」
「あの傷……一頭の竜魔獣だけで、あそこまでやられたのか?」
「あれほどの実力者が死にかけたんだぞ。調査隊を行かせても、死にに行くようなものじゃないか?」
「ギルド長は調査だけで、戦うなと言っただろ」
アーガは人混みの後ろに立ち、周囲の声を聞きながら、少しずつ眉を寄せていった。
リナが声を落として尋ねる。
「アーガ様は、どう思いますか?」
「かなり厄介だな」
アーガは答えた。
「戍佐級中位の人間を、ここまで一方的に傷つけることは普通の魔物にはできない」
治療を受けている負傷者を見ながら、言葉を続ける。
「それに本当に山の中腹で襲われたのなら、そいつは山頂付近だけに留まっているわけじゃない」
イータの尻尾が不安そうに垂れ下がった。
「山から下りてくるんですか?」
アーガは答えなかった。
彼にも分からなかった。
偶然現れた竜魔獣が一頭だけなら、まだ対処のしようはある。ギルドと城主府が人員を集めれば、討伐隊を組織することもできるだろう。
だが、一頭ではなかったとしたら?
昨夜、南山から聞こえてきた長い鳴き声が、アーガの頭へ浮かんだ。
あのときは山に住む魔物の声だとしか考えていなかった。
今になって思い返せば、あの声はあまりにも遠くまで響き、あまりにも低く重かった。
治療は長い時間続いた。
どうにか負傷者の容体は安定したが、意識は戻らなかった。
一緒に帰還した冒険者たちは別室へ連れていかれ、詳しい事情を聞かれることになった。ギルド長はホールの中央に立ったまま、険しい表情を崩さない。
しばらくすると、エイヴンも姿を見せた。
近くにいた者が、これまでの経緯を簡単に説明する。
話を聞き終えたエイヴンの表情も、すぐに真剣なものへ変わった。
そのあと、レックスもギルドへ入ってきた。
最初は大声で、誰がこれほど酷くやられたのかと騒いでいた。しかし「竜魔獣」という言葉を耳にすると、その声も自然と小さくなった。
アーガは彼らのそばへ行かなかった。
これはもう、アーガたちのようなF級小隊が簡単に関わってよい問題ではない。
アーガはリナとイータを連れてホールの隅へ座り、安い茶を三杯注文した。情報を待ちながら、ギルド内の様子を観察する。
時間が少しずつ過ぎていった。
調査隊が出発したあとも、ホールの空気は元に戻らなかった。
酒を飲み続けている者もいたが、まったく味わっている様子がない。依頼掲示板の前へ立っても、長い間一枚の依頼書も取らない者もいる。
普段は自分の武勇を大声で自慢している冒険者たちでさえ、ほとんど口を開かなかった。
午後も終わりに近づいた頃、最初の調査隊が戻ってきた。
いや、正確には運び込まれてきた。
彼らは馬車にも乗っていなかった。
二人の城衛と数人の冒険者に支えられ、よろめきながらギルドの中へ入ってくる。
先頭にいた男の背中には巨大な傷が刻まれ、流れた血が外套を暗赤色へ染めていた。別の男は片方の脛がほとんど折れ、仲間に両側から支えられなければ歩くこともできない。
ギルドホールが再び騒然となった。
ギルド長が急いで駆け寄る。
「何に遭遇した?」
先頭の冒険者は冷や汗を浮かべ、歯を食いしばりながら答えた。
「見えませんでした……雪霧が濃すぎて……」
苦痛に顔を歪め、息を整える。
「上から突然襲いかかってきて、一撃でバレンを咥えて連れ去りました」
「雪霧?」
誰かが驚いたように声を上げた。
「今は夏だぞ。山の上とはいえ、雪が残っているだけじゃないのか?」
男は説明しなかった。
荒い呼吸を繰り返しながら、話を続ける。
「鳴き声が聞こえたんです。一つの方角からじゃない……」
男はギルド長を見た。
「山の様子がおかしい。絶対に一頭だけじゃありません」
アーガの茶杯を持つ手が止まった。
リナが彼を見る。
「一頭ではないのですか?」
アーガは答えなかった。
ほどなくして、二つ目の調査隊も戻ってきた。
彼らの状態は、最初の小隊よりも酷かった。
運び込まれた二人の身体は爪痕だらけだった。
一人は肩を牙で貫かれ、もう一人は胸を巨大な何かに叩きつけられたらしい。鎧が大きく陥没し、呼吸をするたび、壊れた鞴のような音が喉から漏れている。
治療師は二人のそばへ駆け寄ったが、傷を見た瞬間に顔色を変えた。
「同じ種類の傷ではありません」
ギルド長が即座に尋ねる。
「どういう意味だ?」
治療師は一人の肩を指差した。
「こちらは噛み傷です。牙の間隔が広い。大型の飛行魔物によるものでしょう」
続いて、もう一人の胸元へ目を向ける。
「こちらは強い衝撃による傷です。非常に大きな力ですが、噛まれた痕はありません。それに、この爪痕も深さや間隔が違います」
ギルドホールが、再び完全な静寂に包まれた。
それまでは、同じ竜魔獣が続けて調査隊を襲っただけだと考えていた者もいた。
だが、治療師でさえ見分けられるほど、傷の大きさも形も違っていた。
ギルド長はその場に立ち尽くしていた。
僅かな時間で、何歳も老け込んだような険しい表情を浮かべている。
エイヴンが彼のそばへ歩み寄り、声を落とした。
「ギルド長。南山で起きていることは、もはや通常の魔物の活動ではないかもしれません」
レックスも珍しく冗談を言わず、負傷者たちを見つめながら斧の柄を強く握っていた。
アーガはホールの隅に座ったまま、すっかり冷めた茶杯を机へ戻した。
イータが小さな声を漏らす。
「アーガ様……」
アーガはホール中央に横たわる者たちと、その身体へ刻まれた異なる傷を見つめた。
「面倒なことになったな」
その声は、とても低かった。
リナも運ばれていく負傷者たちを見つめ、少しずつ表情を険しくしていく。
窓の外では、すでに日が沈みかけていた。
暮星城の魔法灯が一つ、また一つと明かり始める。
しかし、ギルドホールで《晨星の家》について話す者は、もう一人もいなかった。
すべての視線が、南山から運び込まれた負傷者たちへ向けられている。
南の山脈は、夕闇の果てで沈黙していた。
まるで今、巨大な怪物がゆっくりと目を開いたかのように。




