第171話 暮星城を離れる
リナも少し驚いていた。
金貨五枚という金額は、彼女が想像していたよりも遥かに多い。単なる手当というより、余計なことを話させないための口止め料に近かった。
アーガは金袋をしまい、席から立ち上がった。
「ありがとうございます」
中年の男は面倒そうに手を振った。
「今後、城衛所がお前たちから追加の証言を必要とした場合は、冒険者ギルドを通して連絡する。しばらくは街から遠くへ離れないように」
金袋をしまっていたアーガの手が、一瞬止まる。
「俺たちは、このあと暮星城を離れるかもしれません」
中年の男が眉をひそめた。
「事件はまだ完全に解決していない」
「俺たちは冒険者であって、罪人ではありません」
アーガは平然と答えた。
「本当に追加の証言が必要なら、冒険者ギルドを通して連絡してください」
中年の男はしばらくアーガを見つめていたが、最後まで引き止めることはなかった。
「好きにしろ」
◇ ◇ ◇
事務所を出ると、イータが待ちきれない様子でアーガのそばへ寄ってきた。
「アーガ様、本当に金貨を五枚もくれました」
「そうだな」
「どうして、あんなにたくさんくれたんですか?」
「《晨星の家》の事件は、今や街中を巻き込む大騒ぎになっている」
アーガは金袋を軽く揺らした。
「ここで『真相を突き止めた冒険者が城衛所から不当な扱いを受けた』なんて記事まで出たら、さらに面倒になる。だから金を払って、俺たちに静かにしていてもらいたいんだ」
リナが横から彼を見た。
「最初から、そこまで考えていたのですか?」
「いや、別に」
アーガはあっさり答えた。
「牢獄の前で面会を断られて気分が悪かったから、ついでに試してみただけだ」
イータが何度か目を瞬かせる。
リナはしばらく黙っていたが、やがて堪えきれず笑みを漏らした。
「その『ついで』は、随分と高く売れましたね」
アーガは金袋を懐の奥へしまった。
「少なくとも、今夜は金の心配をせずに眠れそうだ」
それは確かだった。
依頼の報酬に加えて、金貨五枚まで手に入った。しばらくは金に困ることもなく、宿代、保存食、薬剤、旅費も、以前より余裕を持って準備できる。
三人が《灰鳩亭》へ戻った頃には、すでに空が暗くなり始めていた。
宿の一階は普段よりも賑やかで、いくつもの卓で客たちが《晨星の家》について話している。女将はアーガたちが入ってくると、三人へ少し長めに視線を向けたが、何も尋ねずに部屋の鍵を渡した。
部屋へ戻るなり、イータは寝台へ駆け寄り、縁へ身体を投げ出した。ようやく緊張から解放されたように、長く息を吐く。
リナは今日買ってきた物を整理したあと、金袋の中身をもう一度数えた。
「これだけあれば、この先の旅費も足りそうですね」
リナは金貨を袋へ戻しながら言った。
「少なくとも、急いで次の依頼を探す必要はありません」
アーガは窓辺の椅子へ座り、帽子を脱いだ。今日の変装に使った道具も、机の上へ一つずつ並べる。
窓の外では、暮星城の魔法灯が灯り始めていた。
遠くにある時計塔から低い鐘の音が一度響き、屋根や通りを越えて静かに広がっていく。街の人々が話す声は窓に遮られ、ぼんやりとした騒めきにしか聞こえなかった。
イータが寝台から起き上がった。
「アーガ様、これからどうするんですか?」
アーガは机の上に置かれた金袋へ目を向けたあと、窓の外を見た。
エイラは、まだ牢獄の中にいる。
《晨星の家》の事件も、完全に解決したわけではない。
それでも、アーガたちは自分たちにできることをすでにやった。これ以上この街に残っても、彼女を助けられるとは限らない。下手をすれば、さらに面倒な事件へ巻き込まれるだけだ。
写真、新聞、名声。
ほかの冒険者にとっては喜ぶべきものかもしれないが、アーガにとっては新たな危険を呼び込む可能性がある。
「明日は一日休む」
アーガは言った。
「薬剤と旅に必要な物を買い足す。明後日までに何も起きなければ、暮星城を出よう」
イータが驚いたように目を開いた。
「もう暮星城を離れるんですか?」
「ああ」
リナはすぐには何も言わず、金袋の口をしっかりと縛って机へ置いた。
「それがよいと思います」
静かな声だった。
「この街で起きていることは、もう私たちが簡単に介入できる問題ではありませんから」
イータは俯いた。
まだエイラのことが気になっているのだろう。しばらく迷っていたが、最後には小さく頷いた。
「それなら……明日、もう一度だけエイラお姉さんの様子を聞きに行ってもいいですか?」
アーガがイータを見る。
イータは緊張したように肩を縮めた。
「元気にしているか、それだけでも知りたいんです」
アーガは小さく息を吐いた。
「明日、冒険者ギルドへ行く途中で聞いてみよう。教えてもらえるなら聞く。駄目だと言われても、騒ぐなよ」
イータの耳が勢いよく立ち上がった。
「はい!」
リナも、そんなイータを見て微笑んだ。
部屋の空気が、ようやく少しだけ軽くなる。
イータは自分の小さな鞄を開き、旅で使いそうな物を一つずつ並べ始めた。リナは衣服を綺麗に畳みながら、剣の鞘と薬瓶の状態も確認している。
アーガは窓辺に座ったまま、今日使った染髪剤と化粧用の粉を箱へ戻し、帽子をすぐ手に取れる位置へ置いた。
夜の闇が、少しずつ街を覆っていく。
暮星城では魔法灯が一つ、また一つと灯り始めた。遠くから眺めると、まるで空から落ちた星々が通りへ並んでいるようだった。
アーガは椅子の背へ身体を預け、珍しく強い疲れを感じていた。
今日は朝から新聞を読み、依頼人の家へ行き、冒険者ギルドへ向かい、牢獄と事務所まで回った。まるで誰かに背中を押され、一日中街の中を引き回されていたような気分だった。
それでも金の問題はひとまず解決した。
ようやく旅の続きを考えられる。
アーガが窓を閉めようとした、そのときだった。
遠くから、細く引き延ばされたような鳴き声が聞こえた。
音はとても遠い。
南にある山脈の奥深くから発せられ、夜風によって薄く引き裂かれながら、ここまで届いたように聞こえる。
普通の獣の咆哮ではなかった。
闇の中に潜む何か巨大なものが、喉の奥から低く長い声を響かせたような音だった。
イータの耳が勢いよく立ち上がる。
「アーガ様、今の聞こえましたか?」
リナも手を止め、窓の外へ目を向けた。
アーガは窓枠へ手を置き、南の方角を見つめる。
夜空は静かだった。
暮星城の灯りも、何事もなかったように穏やかに輝いている。
長い鳴き声はすぐに消え、最初から何も聞こえていなかったような静寂だけが残った。
アーガは眉をひそめる。
「山にいる魔物だろう」
イータが小さな声で言った。
「随分と遠くから聞こえました」
「ああ」
アーガは窓を閉めた。
夜風の音が、部屋の外へ遮断される。
それ以上、何かを言うことはなかった。
しかし、ようやく落ち着いたはずの胸の奥に、なぜか僅かな重さが残っていた。
◇ ◇ ◇
翌朝の暮星城は、よく晴れていた。
昨夜、南の山脈から聞こえてきた長い鳴き声は、朝日によって乾かされてしまったかのように、街には何の痕跡も残していない。
宿の外にある石畳は清水で洗われ、パン屋では朝の窯へ火が入れられていた。数羽の灰色鳩が軒先へ降り、誰かが落としたパン屑を啄んでいる。
イータはしばらく窓辺へ張りつき、外で何も異変が起きていないことを確認してから、ようやく安心したように息を吐いた。
「何も起きていないみたいです」
アーガは金袋を整理していた。
その言葉を聞き、顔を上げてイータを見る。
「昨夜から、ずっとあの鳴き声が気になっていたのか?」
「だって、変な声だったんです」
イータの耳が小さく動いた。
「狼とも違いましたし、普通の魔物の声にも聞こえませんでした」
リナは着替えを畳み、鞄の中へ入れながら言った。
「南には山脈があるのですから、魔物がいても不思議ではないでしょう」
「不思議ではないが、街まで来なければ何でもいい」
アーガは金袋の口を縛り、服の内側へしまった。
今日は依頼を受ける予定はなかった。
旅で使う薬剤や保存食、縄などを買い足し、簡単な防寒用品も揃えるつもりだった。
今は夏だが、この先はさらに北へ向かう。道中の天候が、ずっと穏やかだとは限らない。
リナは剣の鞘を確認したあと、昨日買った化粧用の粉と帽子をアーガへ差し出した。
「今日も、その姿で外へ出るのですか?」
「ああ」
アーガは帽子を受け取り、目深に被った。
「少なくとも、ここ数日はこのままの方がいい」
イータは、髪色や眉の形を変えられたアーガの顔をじっと見つめる。
まだ少し見慣れないらしい。
「今のアーガ様、本当にどこにでもいそうな人に見えます」
「ありがとう」
「褒めていません……」
「分かっている」
リナが堪えきれず笑みを漏らし、自分の鞄を手に取った。
「行きましょう。早めに買い物を終わらせれば、午後はゆっくり休めます」
◇ ◇ ◇
三人は《灰鳩亭》を出たあと、最初に薬剤店へ向かった。
暮星城で売られている薬剤は黒槌町よりも少し高かったが、品質は明らかに上だった。
店内の棚には形の揃った硝子瓶が並び、治療薬、止血粉、解毒薬、魔力回復薬が種類ごとに分けて置かれている。瓶にはそれぞれ、小さな札まで貼られていた。
必要な薬剤を買い終えると、三人は雑貨屋や食料品店も回った。
最後に雑貨屋を出た頃には、すでに昼近くになっていた。
通りを歩く人の数は、朝よりもさらに増えている。
《晨星の家》を巡る騒動は、まだ収まる気配がなかった。新聞売りの少年が抱えている新聞も新しい版へ変わり、見出しは昨日よりも刺激的な言葉になっている。
しかし、アーガは新聞を買わなかった。
一日中、あの記事に気分を乱されたくなかった。
「冒険者ギルドにも行きますか?」
リナが尋ねる。
「一度寄っておこう」
アーガは答えた。
「街道の情報を確認する。明日ここを出るなら、どの商路が安全なのか先に知っておいた方がいい」
三人が中央通りの角まで来たとき、遠くから突然、激しい蹄の音が聞こえてきた。




