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第169話 変装

「何を変えるんですか?」


アーガは答えず、通り沿いの雑貨屋へ目を向けた。


店先には鏡や櫛、整髪料、化粧用の粉、それに地味な色の帽子が並んでいる。脇には小さな木札が掛けられ、「役者用品・旅用品・一時染毛剤」と書かれていた。


その視線を追ったリナはすぐに察する。


「変装するつもりですか?」


「変装というほどじゃない」


アーガは店へ入りながら答えた。


「一目で分からなくするだけだ」


店主は恰幅のいい中年女性だった。三人を見るなり笑顔で迎える。


「いらっしゃいませ。整髪料ですか? 香粉ですか? それとも旅用の薬ですか?」


「染毛剤と眉墨。それから肌を少し暗く見せる粉を」


店主は一瞬きょとんとしたあと、すべてを理解したように頷いた。


「ああ、目立たなくしたいんですね。ありますよ」


彼女は手際よく小箱をいくつも並べる。


「これは髪色を少し暗くできます。何度か洗えば落ちますよ。これは眉を整える用。それからこの粉は厚く塗りすぎないこと。やりすぎるとすぐ分かりますからね」


イータは興味津々で香粉を一つ手に取り、匂いを嗅いだ瞬間にくしゃみをした。


リナは思わず吹き出す。


アーガは代金を払い、帽子も一つ買った。


三人は人通りの少ない路地へ入り、アーガは小さな鏡を見ながら髪色を少し暗くし、眉の形を整え、最後に顔へ薄く粉をはたいた。


振り向くと、イータはしばらくじっと見つめていた。


「どうだ?」


真剣な顔で答える。


「アーガ様、普通の人になりました」


アーガは満足そうに頷いた。


「それでいい」


リナは彼の周りを一周見回した。


「でも目はまだ目立ちますね」


「そこはどうしようもない」


イータが少し考えてから口を開く。


「眼帯をつけるとか?」


アーガが無言で彼女を見ると、イータは慌てて両手を振った。


「思いついただけです!」


アーガは少し黙っていたが、結局笑ってしまった。


「そこまでする必要はない」


リナは鏡を見ながら尋ねる。


「こういうことまでできるんですね」


「本で読んだ」


「どんな本ですか?」


「探偵小説」


リナは返す言葉を失った。


支度が終わるころには昼が近づいていた。


アーガはそのまま宿へ戻るつもりだったが、イータはさっきから何度も通り角の食堂を見ている。


店先には炭火焼き肉の看板が掛かり、滴る脂が炭へ落ちるたび香ばしい匂いが風に乗って流れてきた。


アーガはイータを見た。


「食べたいなら言え」


イータは慌てて目を逸らす。


「た、ただ匂いがしただけです」


「なら食べよう」


アーガは懐の金袋を軽く叩いた。


「今日は報酬も入ったしな」


リナも笑う。


「少し休憩しましょう。朝からずっと歩いていましたし、イータもお腹が空いているでしょう?」


「リナお姉ちゃん……」


「違うの?」


イータは俯いたままだったが、耳だけはぴんと立っていた。


三人は食堂へ入り、隅の席へ座った。


アーガは普通の昼食を三人分注文し、それとは別に焼き肉を一皿追加する。


イータは遠慮しようとしたものの、焼き肉が運ばれてきた途端、尻尾は隠しきれないほど嬉しそうに揺れ始めた。


彼女は肉をまずリナへ、それからアーガへ取り分ける。


その様子を見てアーガが言う。


「自分で食べればいい」


「みんなで食べた方がおいしいです」


リナは肉を受け取り、微笑んだ。


「それじゃ遠慮なくいただくわ」


久しぶりの穏やかな時間に、アーガも少し肩の力を抜いた。


椅子へもたれ、食堂の賑やかな話し声を聞きながら指先で金袋を軽く叩く。


依頼は終わり、報酬も受け取った。


このまま何も起こらなければ、近いうちに暮星城を離れられる。


だが、隣の卓から聞こえてきた声が、その静けさを破った。


「俺はアイラも絶対に逃げられないと思うね」


アーガの指が止まる。


隣の卓には四人の男が座り、新聞を広げたまま麦酒を飲んでいた。


禿頭の男が新聞の見出しを指で叩き、自信満々に言う。


「晨星の家に何年もいたうえ、サミュエルの婚約者だ。地下にあれだけ子供が閉じ込められていて、知らなかったわけがない」


別の男が鼻で笑う。


「俺はサミュエルが首謀者とは限らないと思う。怪しいのはあのエルフだ」


「普段からあんなに優しいふりをしていたのも信用させるためじゃないか」


「エルフは長生きだからな。人間よりずっと腹黒いに決まってる」


イータはフォークを握る手に力を込めた。


リナの笑顔も静かに消えていく。


アーガは隣を一度だけ見た。


男たちはますます勢いづき、新聞に書かれていないことまで勝手に付け足して真実のように語っている。


「子供たちは薬の匂いがしたって話だろ。薬を使えるのは誰だ?」


「アイラしかいないじゃないか」


「薬で子供を操っていたのかもしれない」


「昔は暮星城一優しい薬師なんて言われてたが、今思えば吐き気がする」


イータはとうとう耐えきれなくなった。


「何も知らないくせに……」


アーガはすぐには答えなかった。


冷めかけた水を一口飲む。


喉へ流れ込む水は少し冷たく、どこか苦かった。


リナが静かに尋ねる。


「食べ終わったらアイラに会いに行きますか?」


アーガは杯を置き、油で汚れた新聞へ目を向ける。


そこには黒々とアイラの名前が印刷され、その横には大きく書かれていた。


――救世主か、それとも共犯か。


しばらく黙ってから頷く。


「ああ」


イータが顔を上げる。


アーガは皿に残っていた最後の焼き肉を彼女の皿へ移した。


「まず食べ終えろ」


そう言って続ける。


「そのあと牢へ行って話を聞こう」


◇ ◇ ◇


隣の卓ではまだ話が続いていた。


酒も入っているせいで声はますます大きくなる。


「毎日晨星の家にいたんだぞ。知らないはずがないだろ」


禿頭の男は新聞を叩き、麦酒をこぼした。


飛び散った酒は、ちょうどアイラの名前の上へ落ちる。


「サミュエルが悪党なのは確かだ。でもあのエルフだって絶対に潔白じゃない」


向かいの痩せた男も鼻で笑う。


「エルフは長生きだ。人を騙すくらい簡単だろ」


別の男は声を潜めながらも、周囲へ聞かせるように言った。


「サミュエルの方が利用されていた可能性だってある。商人に薬なんて分かるか? 地下の子供へ薬を使うなら、一番やりやすいのは誰だ?」


イータの指先は白くなるほど力が入っていた。


何度も立ち上がろうとするが、そのたびリナが肩へそっと手を置く。


リナ自身も表情は険しかった。


「エルフ」「薬師」「婚約者」。


その三つを並べるだけで罪を作り上げていく男たちを見ているうちに、彼女の目も冷たさを増していく。


アーガは何も言わず、最後のパンをちぎって冷めたスープへ浸した。


口へ運ぶと、もう温かさはなく、油っぽさだけが残っていた。


(早いな)


昨夜までアイラは子供たちを救う薬師だった。


それが昼になっただけで、裏の首謀者にされかけている。


アーガは隣の卓を見た。


男たちの顔にあるのは怒りではない。


ただ事件を面白がる興奮だった。


地下牢、偽善者の慈善家、エルフの薬師、婚約者。


話題になる材料が揃っている。


だから盛り上がっているだけだ。


アイラに罪があるかどうかなど、彼らには大して重要ではなかった。


アーガはスプーンを置いた。


「食べ終わったか?」


「は、はい」


「じゃあ行こう」


リナが尋ねる。


「牢獄ですか?」


「ああ」


アーガは卓上の帽子を手に取り、金袋を服の内側へしまう。


「話を聞きに行かないとな」


イータはすぐ立ち上がった。


さっきまでの落ち込みも怒りも、ようやく向かう先を見つけたようだった。


「私も行きます」


「最初から置いていくつもりはない」


アーガは笑いながらイータの頭を軽く撫で、会計を済ませる。


そのあと隣の卓を一瞥して言った。


「ただし向こうへ着くまで騒ぐなよ」


イータは唇を結んで頷く。


「分かっています」


「そう言うときは大体分かってないんだよな」


「アーガ様!」


リナは思わず小さく笑った。


食卓を覆っていた重苦しい空気が、その一言でようやく少しだけ和らいだ。

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