第167話 救い出された子供
依頼主の家は暮星城の西通りにあった。晨星の家からそれほど離れてはいないが、通りは明らかに静かだった。
両側には一般の住民が暮らす家が並び、玄関先には花や草が植えられ、窓辺には洗ったばかりの衣服が干されている。
昨日の事件がなければ、どこにでもある平凡な通りにしか見えなかっただろう。
アーガたちが石畳を歩いていると、道端で何人かが声を潜めて話していた。彼らの手にも新聞が握られている。三人が通り過ぎようとすると、何人かが無意識に視線を向けた。
「この人たちじゃないか?」
「あの冒険者小隊だろ」
「最初に地下牢を見つけたらしいぞ」
イータの耳が小さく動き、居心地が悪そうな表情を浮かべた。リナはアーガへ目を向ける。
「アーガ様、少し有名になってしまったようですね」
「面倒なことになったな」
アーガが苦笑すると、リナも思わず笑った。
しかしイータは笑わなかった。朝から耳にしたアイラへの悪口がまだ頭から離れないらしく、白い尻尾はずっと垂れたままだった。歩く速さも普段より少し遅い。
アーガは一度だけ彼女を見たが何も言わなかった。慰めるだけでは意味がないこともある。別の一面を自分の目で見た方がいいだろう。
やがて三人は小さな二階建ての木造家屋へ辿り着いた。玄関前にはすでに二人の男女が立っている。
中年の男は目の下に濃い隈を作り、隣の女性も上着を羽織っただけの姿で顔色が悪かった。昨夜は一睡もしていないのかもしれない。
二人はかなり前から待っていたらしい。アーガたちの姿を見つけると、中年の男は一瞬目を見開き、すぐに駆け寄ってきた。
「あなたたちだったのか!」
その声は僅かに震えていた。女性も後に続き、三人を見た瞬間に目を赤くする。
「皆さん……本当に皆さんだったんですね……」
アーガは二人の前で足を止めた。
「依頼が完了したか確認しに来た」
「もちろんです。確認します」
男は何度も頷いた。
「子供は戻ってきました。本当に帰ってきたんです」
そこまで言ったところで声が詰まった。女性も口元を手で覆い、堪えきれなくなった涙を流す。
「もう……二度と会えないと思っていました……」
アーガは少し黙った。こういう場面はあまり得意ではない。代わりにリナが優しく声をかける。
「お子さんが無事で何よりです」
女性は力強く頷き、慌てて身体を横へずらした。
「どうぞ中へ。入って座ってください」
アーガは断ろうとしたが、女性はすでに扉を開けていた。
家の中は暖かかった。暖炉には強い火が焚かれ、机の上には温かなスープとパンが置かれている。部屋の隅には洗ったばかりの子供服が何着か積まれ、薬草と温めた牛乳の匂いが混ざっていた。
暖炉のそばには一人の少年が座っている。六歳か七歳ほどだろう。厚い毛布を肩へ掛け、顔色はまだ少し白かったが、地下牢で見たときよりもずっと元気そうだった。
扉の音を聞いて顔を上げる。アーガを見た瞬間、少年は目を見開き、勢いよく立ち上がった。
「お兄ちゃん……」
母親が慌てて身体を支える。
「急に立ったら駄目よ。まだ身体が治っていないんだから」
それでも少年は座ろうとしなかった。母親の服の裾を握りながらアーガを見つめる。
「このお兄ちゃんだよ」
部屋の中が静かになった。少年は小さいながらも真剣な声で続ける。
「このお兄ちゃんが僕たちを見つけてくれたんだ」
イータの耳が勢いよく立ち、リナも少年へ目を向けた。少年は俯き、母親の服を強く握り締める。
「あの場所はすごく暗かった。みんな泣いていて……もう誰も来てくれないと思ってた」
母親の涙がさらに激しくなった。中年の男も拳を握り締め、手の甲へ太い血管を浮かべている。
少年はもう一度顔を上げた。
「それから少しして、たくさんの人が来て牢の扉を開けてくれた」
瞳にはまだ恐怖が残っていた。それでも、あのときの記憶ははっきりと残っているようだった。
「お兄ちゃん、前に言ってたよね。必ず戻って助けるって」
少年は勇気を振り絞るように深く頭を下げた。
「助けてくれてありがとう」
アーガはしばらく少年を見つめたあと、静かに答えた。
「礼はいらない」
声は普段と変わらず落ち着いていたが、イータの瞳はすでに明るくなっていた。少年とアーガを交互に見ながら白い尻尾を小さく揺らす。朝から胸に残っていた暗い気持ちが、少しだけ薄れたようだった。
リナもそばで静かに微笑んでいた。女性はしゃがみ込み、少年を強く抱き締める。
「本当に、どうお礼を言えばいいのか……」
中年の男も深く息を吸い、アーガたち三人へ頭を下げた。
「あなたたちがいなければ、今でも子供はただ迷子になったのだと思い続けていたでしょう。晨星の家へ相談しに行き、あの人たちの言葉を信じていたかもしれません」
最後の言葉には、はっきりとした憎しみが混ざっていた。
「サミュエルは以前、この通りにも来たことがあります。どうしても子供が見つからないなら晨星の家へ届け出てほしい、自分たちも捜索を手伝うと言っていました」
リナの眼差しが冷たくなり、イータも驚いた顔をした。アーガはそれほど意外には感じなかった。
「そう言うに決まっている。そうすれば行方不明になった子供の情報を、家族の方から届けてくれるからな」
女性の顔から血の気が引いた。中年の男は歯を食いしばる。
「畜生め……」
男は棚から小さな木箱を取り出した。蓋を開くと数枚の銀貨と、折り畳まれた依頼証明書が入っている。
「こちらが約束していた報酬です。それから少しだけ礼金も加えました。多くはありませんが、どうか受け取ってください」
アーガが中身を確認すると、当初の報酬の二倍近く入っていた。大金ではないものの、普通の家庭が簡単に出せる額でもない。
「余分な分はいらない。依頼書に書かれていた額だけでいい」
男が驚いた顔をした。女性もすぐに口を開く。
「そんなわけにはいきません。皆さんは私たちの子供を救ってくれたんですよ」
「依頼内容は行方不明の子供を捜すことだった。俺たちは見つけた。だから契約どおりの報酬だけでいい」
イータは何度か瞬きをした。リナもアーガを見たが何も言わなかった。男は木箱を持ったまま、どうすればいいか分からない様子だった。
やがて女性が遠慮がちに言った。
「それならせめて、食事をしていってください」
アーガが断ろうとした瞬間、イータの耳が僅かに動いた。机の上にあるパンとスープを見たあと、すぐに視線を逸らす。
その様子に気づいた女性の顔へ、ようやく少しだけ笑みが戻った。
「焼いたばかりのパンと肉のスープです。子供はまだあまり食べられないのに、たくさん作りすぎてしまったんです」
イータは少し恥ずかしそうにアーガを見上げた。アーガは二秒ほど黙ったあと答える。
「それなら、ありがたくいただく」
イータの顔が一気に明るくなった。
三人はしばらく家の中で休ませてもらった。女性が出してくれたスープにはジャガイモとニンジン、それに少量の細切れ肉が入っていた。複雑な味ではなかったが、身体が温まる。
イータは両手で椀を持ち、慎重に一口飲んだ。すぐに白い尻尾が嬉しそうに揺れ始める。それを見たリナが小さく笑った。
食事を終えると、中年の男は依頼証明書の確認欄へ丁寧に名前を書き、最後に印章を押した。まだ乾いていない赤い印が羊皮紙へ残り、依頼の完了をはっきりと示している。
家を出るとき、少年は母親に手を引かれながら玄関前へ立っていた。アーガたちが数歩進んだところで、背後から声が飛んでくる。
「お兄ちゃん!」
アーガが振り返ると、少年は勇気を出すように大きく手を振った。
「本当にありがとう!」
声を聞いた近所の住民たちも次々と顔を向け、小さな話し声が聞こえてきた。
「本当にあの人たちが助けたのね」
「あの子自身がそう言っている」
「新聞も全部が出鱈目というわけではなさそうだな」
イータの歩みが少し軽くなった。アーガの隣へ並び、小さな声で呼びかける。
「アーガ様」
「何だ?」
「あの子を助けられて、本当によかったです」
アーガはイータを見た。目元にはまだ少し赤みが残っているが、朝のような沈んだ表情ではなかった。
「ああ。今回は悪くない結果になった」
リナが優しく笑う。
「アーガ様も先ほど嬉しそうでしたよね?」
「別に」
「本当ですか?」
「報酬が手に入ったんだ。嬉しいに決まっている」
リナの顔には、明らかに信じていないと書かれていた。イータも小声で続ける。
「でも私は、アーガ様が喜んでいたのはお金のためじゃないと思います」
アーガは二人を無視し、懐へ手を入れて印章の押された依頼証明書へ触れた。
少なくとも今回の苦労は無駄ではなかった。
三人はそのまま西通りを進み、冒険者ギルドへ向かった。先ほどよりも道を歩く人が増え、多くの者が新聞を持っている。晨星の家の事件は今も広がり続けていた。
ただしアーガたちを見る人々の目は、朝とは明らかに違っていた。
やがて通りの先に冒険者ギルドの建物が見えてきた。入口の前では数人の冒険者が壁にもたれながら話している。アーガたちが近づくと、その声が急に小さくなった。
一人の男がアーガの顔と懐にある依頼証明書を見比べ、複雑そうな表情を浮かべる。
アーガはギルドの入口で足を止めた。広間から多くの視線が向けられているのを感じる。
昨日までとは違う。
少し前まで三人は、登録したばかりのF級新人にすぎなかった。だが今は多くの者が彼らの名を知っている。
正確には、少し変わった小隊名を覚えられていた。
仮面戦隊小隊。
イータはこっそりリナのそばへ寄り、リナも僅かに眉を寄せた。アーガは広間から向けられる視線を眺め、少しだけ黙る。
「面倒なことになったな」
そう呟いてから扉を押し開けた。




