第166話 世論沸騰
翌朝の暮星城は普段よりも騒がしかった。
アーガが灰鳩亭の扉を開けると、通りの角から新聞売りの声が聞こえてきた。
「号外だ! 晨星の家の地下牢が発覚!」
「慈善家サミュエルに児童監禁の疑い!」
「エルフの薬師アイラは事件を知っていたのか! 冒険者ギルドも調査へ!」
少年の声は次第に大きくなっていった。
通りにいる全員を叩き起こそうとしているようだった。
イータの耳が勢いよく立つ。
「アーガ様、晨星の家のことです」
「ああ」
アーガは通りの角を見た。
「思っていたより広まるのが早いな」
リナも同じ方向へ目を向けた。
すでに新聞売りの周囲には大勢の人が集まっている。
買ったばかりの新聞をその場で広げる者もいた。隣にいる者まで紙面を覗き込み、何度も驚きの声を上げている。
アーガは新聞売りのもとへ歩き、銅貨二枚で三部の新聞を買った。
紙からはまだ印刷用の油の匂いがしていた。
質の悪いざらついた紙だったが、一面の見出しだけは異様なほど大きい。
『晨星の家の地下牢が発覚! 慈善家サミュエルは悪魔だったのか?』
別の新聞には、さらに刺激的な見出しが載っていた。
『エルフの薬師アイラ――救済者か、それとも事件の共犯者か?』
三紙目にはこう書かれている。
『行方不明の子供たちが家族のもとへ帰還 暮星城冒険者ギルドも捜査に参加』
イータは紙面に並ぶ文字を見つめた。
白い尻尾が不安そうに垂れていく。
「どうして、こんな書き方をするんですか……」
リナは眉を寄せた。
「新聞を買わせるためでしょうね」
アーガは答えず、三部の新聞へ一通り目を通した。
書かれている内容はかなり大げさだった。
ある新聞はサミュエルを慈善家の皮を被った悪魔だと断定している。
晨星の家が孤児を保護する施設だと偽り、裏では子供たちを監禁していた。さらに深刻な闇取引にも関わっている可能性があると書かれていた。
別の新聞はアイラを中心に扱っていた。
彼女は長年、晨星の家で薬師を務めていた。
日常的に子供たちの世話をしており、サミュエルの婚約者でもある。それほど近い立場にいながら地下牢の存在を知らなかったとは考えにくい。
同じ主張が何度も繰り返されていた。
公会による捜査について書かれた記事もある。
事件の全容はまだ明らかになっていない。
サミュエルとアイラはともに拘束されており、今後は衛兵隊と冒険者ギルドが共同で取り調べを進めるらしい。
アーガは新聞を閉じた。
(仕事が早いな)
昨夜、晨星の家を離れてから一晩しか経っていない。
それなのに新聞はすでに印刷され、街中が事件の話で持ち切りになっている。
この街では噂が想像以上の速さで広がるらしい。
三人は通りを歩き始めた。
パン屋の前では朝食を買うために並んでいた数人が事件について話していた。
「サミュエルの奴、普段はあれほど善人ぶっていたのにな。地下に子供を閉じ込めていたとは」
「俺は前から怪しいと思っていた。貴族や商人が本気で孤児のために金を出すわけがない」
「前からだって? 昨日までは暮星城でも珍しい立派な人だと褒めていたじゃないか」
「そ、それは俺も騙されていたんだよ」
近くにいた男が鼻で笑った。
「俺に言わせれば、あのエルフの薬師も怪しい。毎日あそこにいたんだろ。知らなかったはずがない」
「だが、アイラに助けられた子供も多いと聞いたぞ」
「人を助けたから善人とは限らないだろ。普段の優しい態度だって演技かもしれない」
イータの足が遅くなる。
怒りを隠せない表情で男たちを見た。
リナがそっと腕を引く。
「行かないで」
イータは唇を噛んだが、どうにか堪えた。
三人はそのまま先へ進んだ。
食堂の前でも人々が言い争っている。
作業着を着た男が机を叩いた。
「主犯は絶対にサミュエルだ! 晨星の家はあいつの施設で、金を出していたのも雇われていた連中もあいつのものだ。他に誰がいる!」
向かいの痩せた男が首を振る。
「そうとは限らない。サミュエルは商人だし、普段から忙しかった。毎日孤児院にいたわけじゃないだろ」
「アイラは違う。あの女はずっと晨星の家に住んでいた」
リナの眼差しが冷たくなった。
イータも耐えきれず小さく呟く。
「どうしてアイラお姉さんのことまで、そんなふうに言えるんですか……」
アーガは答えなかった。
ただ周囲の様子を見ながら歩き続ける。
通りにいるほとんどの人間が晨星の家について話していた。
サミュエルを偽善者だと罵り、以前の自分は人を見る目がなかったと言う者。
アイラは完璧すぎたからこそ怪しいと疑う者。
子供たちが監禁されていた悲惨な事件ではなく、面白い見世物でも始まったように興奮している者までいた。
暮星城の朝は今日も清潔だった。
石畳は水で洗い流され、道沿いの花台には露が残っている。
花売りの少女は普段どおり花束を整え、パン屋の窯からもいつもと同じ温かな煙が上がっていた。
鐘楼も決まった時間に鐘を鳴らしている。
しかし人々の言葉は群がる烏のように、皮を剥がされたばかりの晨星の家へ降り立っていた。
イータは俯いたまま歩いていた。
しばらくして、ようやく口を開く。
「アーガ様」
「どうした?」
「どうしてアイラお姉さんを疑う人が、こんなに多いんですか?」
顔を上げたイータの瞳には純粋な疑問が浮かんでいた。
「アイラお姉さんは子供たちを助けていました。あの子たちも傷を治してもらったり、薬をもらったりしたと言っていたのに」
アーガは足を止めた。
リナも彼へ目を向ける。
少し考えてからアーガは答えた。
「今までのアイラが完璧すぎたからだ」
イータが目を瞬かせる。
「完璧すぎた?」
「ああ」
アーガは新聞を開き、紙面に印刷されたアイラの名前を見た。
「優しくて善良で、美人で腕のいい薬師だ。しかもエルフ族」
「晨星の家の前に立っていた頃の彼女は、誰から見ても物語から出てきたような人間だった」
「それは良いことではないんですか?」
「何も起きていないときはな」
アーガは新聞を閉じた。
「だが、事件が起きたあとは違う」
リナが僅かに眉を寄せる。
アーガはそのまま続けた。
「完璧に見えていた人間へ一つでも汚点がつけば、周囲は裏に何かを隠していたはずだと考える」
「本当にあれほど清らかな人間が存在するとは、最初から信じていないからだ」
イータは何かを言おうとした。
しかし、反論の言葉は出てこなかった。
「それに、今まで彼女を褒めていた人間も多い」
アーガは言った。
「褒めていた者ほど、自分が見る目を誤ったとは認めたくない。だから納得できる説明を必要とする」
「でも、それではアイラお姉さんが可哀想です」
「公平かどうかは関係ない」
アーガは小さく笑った。
その笑いには、ほとんど温度がなかった。
「イータ。多くの人間は真相を知るために事件を語っているわけじゃない」
「自分が信じたい物語を一つ選んでいるだけだ」
イータは呆然とした顔で彼を見た。
アーガは新聞の見出しを指す。
「金と名声を持つサミュエルのような人間を嫌っていた者は、今なら正義を名乗って思う存分罵れる」
「以前はアイラを見上げ、綺麗すぎて遠い存在だと感じていた者もいる」
「そういう人間は彼女が転落すれば、同じように気分がよくなる」
リナは少し黙ってから呟いた。
「倒れた壁は誰もが押す、ですね」
「ああ。珍しいことじゃない」
イータはアーガを見上げた。
彼の表情は静かなままだった。
「真実を見つけたからではない」
アーガは言った。
「完璧だった人間を引きずり下ろせる機会が、ようやく訪れただけだ」
風が通りを吹き抜けた。
イータが持っている新聞が大きな音を立てる。
彼女は新聞を胸元へ抱え、何も言えずにいた。
これまでは良いことをすれば感謝されると思っていた。
人を助ければ、その人の言葉は信じてもらえる。
だが現実は、そう単純ではないらしい。
リナはイータを見て、優しく頭を撫でた。
「あまり深く考えすぎないで」
「少なくとも私たちは、アイラ様が子供たちを助けていたことを知っています」
イータは小さくうなずいた。
それでも表情は沈んだままだった。
アーガは慰めなかった。
どれほど優しい言葉で包んでも、意味のないことがある。
何度も目にすれば、いずれ自分で理解するだろう。
三人は冒険者ギルドへ向かった。
ギルドの入口も普段以上に混雑していた。
数人の冒険者が掲示板の前へ集まり、新聞を手に激しく言い争っている。
「だからサミュエルは怪しいと言ったんだ。前からギルドに何度も寄付していたが、裏ではあんなことをしていたんだぞ」
「まだ取り調べも終わっていない。決めつけるのは早いだろ」
「地下牢まで見つかったのに、他に何を調べるんだ?」
「ならアイラはどうなんだ。あの女には何の責任もないのか?」
「薬師一人でサミュエルを止められるわけがないだろ」
「だが婚約者だぞ!」
議論は次第に激しくなっていく。
机を叩く者。
冷笑する者。
酒を飲みながら騒ぎを眺めている者。
アーガは入口の外でしばらく耳を傾けた。
世論は本当に二つに割れているらしい。
サミュエルを疑う者は多い。
アイラを疑う者も同じくらいいた。
二人とも共犯で、片方が資金を管理し、もう片方が薬を担当していたのだと語る者までいる。
イータの表情がさらに曇った。
リナが小声で尋ねる。
「中へ入りますか?」
アーガは首を横へ振った。
「まだいい」
「依頼を報告するのでは?」
「報告はする」
アーガは別の通りへ目を向けた。
「だが、その前に依頼主の家へ行く」
リナはすぐに意図を理解した。
子供を捜す依頼を出したのは、行方不明になった少年の家族だ。
ノアがすでに家へ戻っているなら、まず依頼主から達成の確認を受けなければならない。
イータも顔を上げる。
「あの男の子の家ですか?」
「ああ。無事に帰っていれば、これで依頼は完了だ」
イータの瞳が少しだけ明るくなった。
「今頃、お父さんやお母さんと一緒にいるでしょうか」
「多分な」
アーガは手元の新聞へ視線を落とした。
紙面に印刷されたアイラの名前は、異様なほど濃い黒色をしている。
まるで二度と洗い落とせない汚れのようだった。
しばらく見つめたあと、新聞を折り畳んで懐へ入れる。
そして顔を上げた。
「行くぞ」
「どこへですか?」
「まずは依頼主のところだ」
アーガは一度言葉を切った。
「少なくとも、この仕事の報酬だけは受け取らないとな」




