第164話 暴露
南門の方角で信号弾が炸裂した直後、晨星の家は完全に眠りから覚めた。
最初に聞こえてきたのは子供部屋から上がる不安げな声だった。
続いて、侍女や世話係たちが廊下を駆ける足音が響く。窓を開ける者、上着だけを羽織って部屋から飛び出す者もいた。
年少の子供たちは突然の爆発音に怯え、泣き出している。
その泣き声は、遠くから届く騒ぎの音へすぐに混ざっていった。
「何が起きたの?」
「今の音は何?」
「庭に誰かいる!」
建物の明かりが一つ、また一つと灯されていく。
静かで整然としていた晨星の家の中庭は、僅か数呼吸の間に混乱へ包まれた。
子供たち。
世話係。
使用人。
夜番をしていた数名の護衛。
全員の視線が、中庭へ集まる。
そこには、アイラが倒れていた。
肩口の寝間着は引き裂かれ、白い布地の一部が血で赤く染まっている。
意識を失ってはいない。
ただ、先ほど受けた一撃の影響で、すぐに立ち上がれない状態だった。
その少し先には、アーガが立っている。
身体からはまだ熱気が立ち上り、肩と両腕には血が滲んでいた。
足元の芝生は黒く焦げ、先ほど《焱炎火・裂刺》が撃ち抜いた白壁の穴からは、薄い煙が上がっている。
その光景を見た全員が言葉を失った。
やがて、廊下の奥からサミュエルが早足で現れた。
濃い色の上着を羽織っている。
普段の穏やかで余裕のある表情を保てていないのは、これが初めてだった。
地面に倒れたアイラを見た瞬間、瞳孔が大きく縮む。
すぐに怒声を上げた。
「ジャヤ! またここへ侵入するとは、どういうつもりだ!」
数名の護衛が、すぐにアーガを取り囲もうとする。
しかし、アーガは彼らを見なかった。
視線はサミュエルだけへ向けられている。
「地下にいる奴の能力は、結界魔法だな」
サミュエルの足が止まった。
ほんの一瞬だった。
あまりにも短い変化だったが、アーガは見逃さなかった。
アイラも、その反応を見ていた。
サミュエルはすぐに表情を取り繕い、眉をひそめる。
「今度は何を言い出すつもりだ?」
アーガは小さく笑った。
「悪いな。俺は子供の頃、幸運にも同じような魔法を見たことがある」
唇の端に残っていた血を、手の甲で拭う。
「土属性魔法でも、空間魔法でもなかった」
「入口は消えていない。地下通路も埋められていない」
「結界に覆われた範囲では、外にいる人間がどれだけ掘っても、どれだけ捜しても、お前たちが見せたいものにしか触れられない」
中庭が一瞬、静まり返った。
周囲にいる者たちにはアーガが何を言っているのか理解できていない。
しかし、サミュエルには伝わっていた。
その顔色がついに明確に変わった。
アーガは南門の方角を見上げる。
遠方の騒ぎは次第に大きくなっていた。
誰かが叫び、大勢が走り回っている。
信号弾が残した赤い光も、まだ完全には消えていない。ぼやけた傷痕のように、夜空へ残っていた。
「今、俺の仲間が南門付近で騒ぎを起こしている」
アーガは言った。
「お前たちは、あちらで何が起きるか分からない状態を放置できない」
「だから結界の力は、南門側へ移された。違うか?」
サミュエルの指が、ゆっくりと握り締められる。
アーガはその反応を見つめた。
「なら――」
最後まで言葉を続けなかった。
再び、大王カードを起動する。
倒れたままのアイラが顔を上げた。
まだ顔色は青白い。
何かを言おうとしたが肩の痛みに表情を歪め、声を出せなかった。
アーガは彼女を見なかった。
右腕を持ち上げる。
赤い炎の紋様と、棘のように尖った魔力が同時に腕へ絡みついた。
炎熱形態の負荷が再び全身へ押し寄せる。
骨と筋肉が、内側から炎によって無理やり押し広げられていくようだった。
《血怒化》が傷の痛みを曖昧にする。
同時に、アーガの呼吸はさらに重くなっていった。
サミュエルの顔から、ついに余裕が消えた。
アーガが地面を踏みつける。
足元が砕け、灼熱の気流が中庭全体へ広がった。
拳を振り上げる。
炎と《穿刺》の魔力が、拳の一点へ極限まで圧縮されていく。
「焱炎火・裂刺」
次の瞬間。
アーガの拳が地面へ叩き込まれた。
――轟ッ!
中庭全体が激しく揺れた。
拳を中心に地面が裂け、焦げた亀裂が蜘蛛の巣のように四方へ走っていく。
芝生がめくれ上がる。
泥が噴き飛ぶ。
白い敷石が一枚ずつ砕け、その下から空洞へ響く鈍い音が聞こえた。
そして。
地面が崩落した。
その下から、暗闇が姿を現す。
ただの穴ではない。
広大な地下空間だった。
中庭の明かり。
月光。
そして、僅かに残った炎の光。
それらが崩れた地面の下へ差し込み、地下の光景を照らし出した。
並んでいるのは無数の黒い鉄格子。
湿った石壁。
そして――。
牢の中で身体を丸めている、大勢の子供たち。
一人の子供が、頭上から差し込んだ光を見上げた。
呆然としたまま動かない。
やがて、別の子供が泣き始める。
鉄格子を握った子供が、掠れた声を絞り出した。
「助けて……」
その瞬間。
中庭にいた全員が完全に動きを止めた。
地上にいた孤児院の子供たちも。
世話係も。
護衛も。
まるでその場へ縫いつけられたように地下牢を見つめている。
アイラも大きく目を見開いていた。
足元に広がる巨大な穴。
その奥に並ぶ牢獄。
そして、晨星の家の真下へ閉じ込められていた子供たち。
アイラの顔から、ゆっくりと血の気が引いていく。
「そんな……」
僅かな声が漏れた。
「あり得ない……」
誰も答えなかった。
答える必要などなかった。
証拠が、目の前に存在していたからだ。
◇ ◇ ◇
遠くから、衛兵たちの足音が近づいてきた。
南門で起きた騒動によって、巡回中の衛兵隊や冒険者たちはすでに外へ出ていた。
さらに晨星の家で起きた轟音を聞き、こちらへ進路を変えたのだろう。
衛兵隊長が中庭へ駆け込んできた。
最初に目へ入ったのは、地面へ走る無数の亀裂だった。
次に、崩落した先に広がる地下牢。
その場で身体を硬直させる。
後ろから続いてきた衛兵たちも、一斉に足を止めた。
「これは……」
反射的に剣を抜く者もいた。
すぐに崩落した地面の縁へ駆け寄り、地下にいる子供たちの状態を確認する者もいる。
エイヴンも来ていた。
人混みの後方へ立ち、地下牢を見下ろす。
その表情は完全に険しいものへ変わっていた。
レックスも大斧を担いだまま、人を押し退けて前へ出てくる。
地下に広がる光景を確認すると、何かを言おうと唇を動かした。
しかし、普段のような悪態は一言も出てこなかった。
アーガは崩落した地面の縁に立っていた。炎熱形態が少しずつ解除されていく。炎が消え、身体に浮かんでいた紋様も暗くなる。
最後に腰のベルトが光の粒となり、空気へ溶けた。
アーガの顔色は青白い。身体が僅かに揺れたものの、どうにか踏みとどまった。
そして、サミュエルへ視線を向ける。
口元に、僅かな嘲笑を浮かべた。
「悪かったな」
サミュエルの顔は、怒りで青ざめていた。
アーガは決して大声を出していない。それでも、中庭にいる全員へ届くほどはっきりと言った。
「お前の商売を台無しにしてしまった」
その一言によって、すべての視線がサミュエルへ集まった。
衛兵隊長が勢いよく振り返る。
アイラも彼を見た。
驚愕。
困惑。
恐怖。
さまざまな感情が混ざり合い、その瞳は今にも砕けてしまいそうだった。
サミュエルはその場から動かなかった。
ほんの一瞬。
顔に浮かんでいた怒りも、動揺も、追い詰められた焦りも、すべて消えた。代わりに現れたのは逃げ道を失った者の冷静さだった。
サミュエルは突然、アイラへ顔を向ける。
そして、信じられないものを見たような、深く傷ついた表情を作った。
「アイラ……」
アイラが呆然と彼を見る。
サミュエルは半歩後退した。
まるで今、この瞬間に恐ろしい真相を理解したかのように。
「どうしてだ……?」
中庭にいる者たちは、まだ意図を理解できていなかった。
だが、アーガの目が鋭く細められる。
サミュエルが何をしようとしているのか、すぐに分かった。
サミュエルは地下牢を指さした。声は震えている。
しかし、その言葉は恐ろしいほど明瞭だった。
「私は、君がただ子供たちの力になりたいのだと思っていた」
「君が晨星の家に住んでいるのも、本当に子供たちを想っているからだと……」
「それなのに、なぜこんなことを?」
アイラの顔が、一瞬で真っ白になった。
「何を……言っているの?」
サミュエルは苦しげに目を閉じた。
「捕らえられていた子供たちが見ているのは、孤児院にいる者だけだ」
「世話係、使用人……そして君」
「晨星の家の日常的な仕事は、ずっと君が取り仕切っていた」
「寄付集めも、子供たちの受け入れも、外部との交渉も、表に立っていたのは君だった」
「サミュエル……」
アイラの声が震え始める。
「あなた、何を言おうとしているの?」
「信じたくはない」
サミュエルは低い声で答えた。
「だが、証拠は目の前にある」
(切り返しが早いな)
アーガは心の中で呟いた。
サミュエルは、周囲の視線を一斉にアイラへ向けさせた。
まるで、まだ自分が勝てると信じているかのように。
地下に子供たちが閉じ込められていた。
それは事実だ。
子供たちがサミュエルの名前を知らないことも、事実だった。
アイラが晨星の家で暮らし、外部との交渉を担当していたことも、この街の人間なら誰もが知っている。
自分を「何も知らずに騙されていた支援者」に変えてしまえば、アイラは最も都合のよい身代わりになる。
衛兵隊長も、事件が単純ではないことに気づいたらしい。
すぐに命令を出した。
「現場を封鎖しろ!」
「地下の子供たちを救出する!」
「晨星の家のすべての部屋を捜索しろ!」
衛兵たちが一斉に建物へ突入した。
世話係と使用人たちは中庭の一か所へ集められる。
地上にいた子供たちは、危険のない場所へ移された。地下牢の鉄錠も、すぐに力ずくで破壊される。捕らえられていた子供たちが、一人ずつ地上へ救い出されていった。
ほとんどの子供が怯え、衰弱している。
誰に捕まったのかと尋ねても、泣きながら曖昧な言葉を繰り返すだけだった。
「孤児院の人……」
「灰色の服を着た人たち……」
「僕たちを売るって……」
サミュエルの名前を正確に口にできる子供はいなかった。
かといって、アイラを犯人だと指さす者もいない。
しかし、それだけでアイラの疑いが晴れることはなかった。
ほどなくして、捜索を行っていた衛兵の一人が、アイラの部屋がある階から駆け下りてきた。
手には数冊の帳簿と、何通もの書簡を持っている。
「隊長!」
「アイラ様の部屋の隣にある本棚から、隠し棚を発見しました! 中にこれが!」
アイラが勢いよく顔を上げる。
「隠し棚?」
衛兵は帳簿と書簡を、衛兵隊長へ渡した。
隊長が数頁めくる。その表情は、読み進めるほど険しくなっていった。
記されていたのは、孤児の受け入れ名簿。
子供たちを移送した日付。さらに、アイラの名義で署名された何通もの確認書だった。
筆跡も印章も整っている。
資金の流れを示す記録まで存在し、その多くが孤児院内部での支出を示していた。
完全な証拠とは言えない。
それでも、疑いを抱かせるには十分だった。
アイラは頭から冷水を浴びせられたように、身体を硬直させた。
「私ではないわ」
声は、とても小さかった。
すぐに答える者はいない。
サミュエルは、苦しげな表情でアイラを見つめている。
「アイラ……私も、君ではないと信じたい」
アイラは呆然と彼を見返した。
この瞬間。
ようやく、何かを理解した。
すべてを理解できたわけではない。
それよりも恐ろしい感覚が、胸の奥から大きく裂けていった。
今夜、つい先ほどまで結婚式について話していた男。
子供たちのために尽くしてくれたことへ、感謝を伝えてきた男。
その顔には今、悲しみ、抑制、失望が浮かんでいる。
あまりにも自然で、あまりにも整った表情だった。
だからこそ、アイラは突然思った。
自分は一度も、この男の本当の姿を見たことがなかったのではないか。
アーガは少し離れた場所に立ち、そのすべてを冷たい目で見ていた。
容赦がない。
アイラへ罪を着せるための証拠まで、最初から用意していたのだ。
サミュエルは初めから、アイラを完全には信用していなかった。
彼女は晨星の家を飾る看板だった。
同時に、必要になれば差し出せる身代わりでもあった。
衛兵隊長が帳簿を閉じた。表情は重い。
「サミュエルさん、アイラ様」
「真相が明らかになるまで、お二人とも衛兵隊まで同行してください」
アイラは動かなかった。
まるで、声が耳へ届いていないようだった。
サミュエルは静かに答える。
「調査には全面的に協力します」
その態度は堂々としていた。
騙されていた被害者のような、深い疲労さえ滲ませている。
衛兵たちが近づき、それぞれを拘束した。
アイラは手首へ枷がかけられて、ようやく我に返った。
ゆっくりとアーガへ視線を向ける。
かつて誇り高く、澄んでいた瞳。
そこに今残っているのは、深い困惑と、砕かれた心だけだった。
晨星の家は、無数の灯りに照らされている。
そして暮星城の夜には、ついに一つの大きな亀裂が走った。




