第163話 戦闘
熱風が部屋の中へ広がった。
アイラはすぐには剣を振るわなかった。
アーガの身体に浮かび上がった赤い紋様を見つめる。その眼差しは先ほどよりも冷たかった。
炎の光が緑色の長髪へ映り込み、端正だった顔立ちに鋭さを加えている。
「その力は何?」
アーガは答えなかった。
青カード2《血怒化》を組み込んでいるため、炎熱形態121号は決して身体への負担が軽い形態ではない。
一秒ごとに体力が削られていく。
長引かせるわけにはいかなかった。
アイラがレイピアを持ち上げる。
次の瞬間、剣先から三本の斬撃が放たれた。
地面すれすれを走り、アーガの両脚へ迫る。
アーガは身体を横へずらして一撃目を避け、小腕を上げて二撃目を受け止めた。
斬撃が外側の硬質装甲へ衝突し、耳障りな音を響かせる。
三撃目は軌道を変え、アーガの背後へ回り込んだ。
窓際へ退く道を塞ぐための一撃だった。
アイラは後退する余地を与えない。
斬撃のすぐ後を追い、銀色の線と化したレイピアでアーガの胸を突く。
速い。
アーガは床を強く踏み込んだ。
後ろへ逃げるのではなく、迫る剣先へ向かって突進する。
黄カード1《棕熊》の力で重心を低く保ち、爆発的な力で剣の脇を擦り抜けた。
レイピアが肩口の外套を貫き、細い血の筋を引く。
それでもアーガは止まらず、アイラの懐へ半歩踏み込んでいた。
炎をまとった拳を剣を握る手首へ叩き込む。
アイラの目が鋭く細められた。
手首を僅かに返し、その動きに合わせてレイピアを引き戻す。
アーガの拳は空を切り、炎だけが床板へ激突した。
木材が黒く焦げ、粉々に砕け散る。
「外へ出なさい」
アイラが冷たく言った。
アーガは顔を上げる。
アイラは一度だけ扉の方角を見た。
ここは「晨星の家」だ。
隣の部屋には子供たちがいる。
アーガは迷わなかった。
振り返ると窓を突き破り、そのまま二階から飛び降りる。
アイラもすぐ後を追った。
二人は前後して中庭へ着地する。
夜は深く、中庭を照らしているのは数個の灯りだけだった。
白い壁。綺麗に刈り揃えられた低木。
子供たちが昼間に遊んでいた木馬や球。
すべてが静かに置かれ、何の問題もない場所のように見えた。
アイラは羽のように軽く着地する。
一方、アーガの着地は重かった。
両足の下から地面へ二本の亀裂が走り、靴底から火花が散る。
「ここなら構わないわ」
アイラは再び剣を振るった。
今度は斬撃ではない。直接の刺突だった。
彼女の手に握られたレイピアは、目で追うことが難しいほど速い。
一撃目は喉。
二撃目は肩。
三撃目は腹部。
どれも急所だけは避けていたが、命中すれば戦闘を続けられなくなるだけの威力があった。
アーガは続けて後退する。
一撃目が頬を掠め、二撃目は小腕の装甲で防いだ。
三撃目が脇腹へ突き刺さる。
緑カード1《穿刺》の魔力とレイピアが衝突し、細かな破裂音を響かせた。
アーガは低く呻きながら、反対の手で剣身をつかもうとする。
アイラは即座に剣を引いた。
しかし、アーガの掌はすでに剣の峰へ触れていた。
炎が金属を伝い、剣柄へ向かって走る。
アイラは眉を寄せた。
一瞬だけ手を緩め、すぐに剣柄を握り直しながら大きく後退する。
予想していたよりも反応が速い。
実力だけではない。
戦闘経験も決して浅くなかった。
アーガは再び地面を蹴った。
アイラがレイピアを横へ構える。
――ガンッ!
拳と剣が激突した。
アイラは半歩後ろへ押され、アーガの小腕にも剣気による裂傷が走る。
それでもアーガは止まらない。
二発目。
三発目。
次々と拳を叩きつけ、アイラの剣を振るう範囲を狭めていく。
アイラが得意とするのは、距離と速度を生かした戦いだ。
剣気で敵を切り裂き、鋭い刺突で動きを封じ、決して懐へ入らせない。
だが、炎熱形態のアーガは傷を恐れなかった。
致命傷でない攻撃ならば、あえて受ける。
その代わり、二人の距離を半歩以内まで強引に縮めてくる。
アイラは初めて、はっきりと眉をひそめた。
「あなた、正気なの?」
「まだ足りない」
アーガの声は低く沈んでいた。
「何が?」
「お前に俺の話を聞かせるには、まだ足りない」
アイラの目が冷たく光る。
その速度が一気に上昇した。
レイピアから七つの剣影が放たれ、アーガの周囲に残されたすべての隙間を塞ぐ。
避けきれない。
アーガも、すべて避けるつもりはなかった。
《棕熊》の力を両腕へ集中させ、硬質装甲で身体の前を覆う。
交差させた両腕で三撃を防いだ。
四撃目が肩を切り裂き、五撃目の剣気が脚へ血の筋を刻む。
六撃目が胸を狙った。
その瞬間、アーガは突然左腕を下ろした。
レイピアの切っ先が装甲の端へ突き刺さる。
しかし、完全には貫通しない。
その僅かな時間を利用し、アーガは右手でアイラの手首をつかんだ。
炎が指先から燃え移る。
アイラの表情が僅かに変わった。
至近距離から剣気を炸裂させ、アーガの掌へ何本もの傷を刻む。
それでも、アーガは手を放さなかった。
《血怒化》の影響を受けた瞳は深く暗い。
すべての感情を、燃え盛る炎の中へ押し込めているようだった。
「つかまえた」
アイラは即座に膝を持ち上げ、アーガの腹部へ叩き込む。
アーガはまともにその一撃を受けた。
身体が揺れる。
それでも後退しなかった。
すでに反対の手を握り締め、《穿刺》の魔力を拳の先端へ集中させている。
狙いはアイラの肩だった。
アイラは剣を手放し、後方へ飛び退くしかなかった。
レイピアが手から離れ、回転しながら近くの芝生へ突き刺さる。
アーガは急所を追撃しなかった。
アイラは地面を転がると同時に腕を伸ばし、再びレイピアをつかみ取る。
次の瞬間、数十枚もの小さな剣気が彼女の周囲へ浮かび上がった。
透明な刃のような剣気が、アイラを守るように旋回する。
アーガはその光景を見つめ、僅かに呼吸を乱した。
この形態も、間もなく限界を迎える。
これ以上長引けば、《血怒化》の反動が先にアーガの身体を引き裂くだろう。
アーガは片手でベルトへ触れた。
危険を察したアイラが、すぐに腕を振り下ろす。
周囲を回っていた剣気が一斉に放たれた。
アーガは地面を転がり、迫る刃を避ける。
そのままカードケースへ手を伸ばし、白と黒の二色に分かれた一枚のカードを引き抜いた。
――大王カード。
夜の中でカードの表面が輝く。
それは、何も語らない仮面のように見えた。
アーガは大王カードをベルト中央へ差し込む。
低く重い駆動音が響いた。
赤、黄、青、緑。
四つのカード紋が同時に輝き、最後には白と黒の光によって一つに押し固められる。
炎がアーガの肩と背中から噴き出した。
《穿刺》の紋様が両腕に沿って前方へ伸び、灼熱の鋭い円錐を形成していく。
アイラの瞳孔が僅かに縮んだ。
「あなた――」
アーガはベルトを押し込んだ。
「焱炎火・裂刺」
次の瞬間、アーガの姿が消えた。
中庭に灯されていた明かりが、一本の光線へ引き伸ばされて見えるほどの速度だった。
アイラは両手を前へ突き出す。
風が圧縮され、彼女の前に分厚い障壁を作り出した。
だが、炎をまとった尖錐はアイラの胸を正面から狙ってはいなかった。
衝突する直前、軌道が僅かに横へずれる。
――轟ッ!
炎の棘が風の壁を貫通し、アイラの肩口を掠めた。
炎と《穿刺》の魔力が服を引き裂き、皮膚へ深紅の傷を残す。
それでも鎖骨と急所は正確に避けられていた。
行き場を失った残りの力はすべて背後の白い壁へ叩き込まれる。壁面に焦げた巨大な穴が開いた。
アイラの身体は衝撃によって吹き飛ばされ、芝生の上へ落ちる。
周囲の剣気も消滅した。中庭に静寂が戻る。
アーガは倒れたアイラの前に立っていた。
身体を覆っていた炎熱形態が、少しずつ解除されていく。
炎は消え、硬質装甲も光の粒となって砕けた。
最後に腰のベルトも姿を消す。
呼吸は大きく乱れていた。
肩と両腕から血が流れている。
それでも、勝ったのはアーガだった。
アイラは身体を起こそうとした。
だが、肩に鋭い痛みが走り、途中で動きを止める。
命に関わる傷ではない。
重傷と呼べるほどでもなかった。
しかし、しばらく戦闘を続けられなくするには十分だった。
アイラはアーガを見上げた。
その瞳には怒りと、隠しきれない動揺が浮かんでいる。
「どうして、最後まで刺さなかったの?」
アーガは、その問いには答えなかった。
南門の方角へ顔を向ける。
遠く離れた夜空に、突然一発の信号弾が上がった。
赤い光が南門付近の上空で炸裂する。続いて、微かな騒ぎ声が届いた。
大勢の人間が動き始めたような音。
あるいは――。
何かに覆い隠されていた場所が、ついにその一部を露わにした音。
アーガは夜空へ広がっていく赤い光を見つめた。
そして、低い声で告げる。
「始まった」




