第161話 投獄
暮星城の牢獄は、アーガが想像していたよりも清潔だった。
少なくとも、壁には赤骸城のような洗っても落ちない血痕はなく、床から長年何かが腐り続けたような悪臭が漂うこともない。
鉄格子の外にある廊下は毎日掃除されていた。食事は粗末だったが、決まった時間に運ばれてくる。
だからこそ、余計に皮肉だった。
ここは清潔で、規則正しく、体裁が整っている。
まるで、暮星城そのもののように。
アーガは牢の隅へ座り、冷たい石壁に背中を預けていた。
両手首には、鉄の枷で擦れた赤い痕がまだ残っている。
投獄されてから、すでに三日が経っていた。
その間、衛兵隊の人間が二度、取り調べに来た。
尋ねられる内容は、ほとんど同じだった。
なぜ深夜に暮星邸へ侵入したのか。
なぜアイラの部屋へ入ったのか。
なぜサミュエル・グラントを告発したのか。
そして――なぜ証拠がないのか。
アーガは話せることをすべて話した。
だが、どれだけ説明しても、最後には必ず同じ問いへ戻ってしまう。
「証拠は?」
ない。
入口もない。
地下牢もない。
子供たちもいない。
アーガの主張を裏付けるものは、何一つ残っていなかった。
リナの身体に刻まれていた傷さえも、サミュエルは簡単な一言でアーガへ押し返した。
――あなた自身が彼女を傷つけ、私へ罪を着せようとしたのではありませんか?
乱暴で、馬鹿げた言い分だった。
だが、効果はあった。
アーガには、それを否定する証拠がなかったからだ。
◇ ◇ ◇
四日目の夜。
アーガは一睡もせず、朝まで目を開けたまま座っていた。
城西の草地と、南門の地下通路で起きたことを何度も思い返す。
最初に疑ったのは、土属性の魔法だった。
城西の草地にあった入口は塞がれ、南門にある屋敷の隠し扉も消えていた。
誰かが土や地形を操り、すべてを元どおりに埋めたと考えれば、一応は説明できる。
だが、考えれば考えるほど違和感が増していった。
城西の草地にあったのは、小さな穴などではない。
地下へ続く土の階段。
長い通路。
鉄の扉。
さらに、その奥には広大な地下牢が存在していた。
南門側は、さらに複雑だ。
通路は牢獄と屋敷の両方につながっている。
あれほど広い地下施設を短時間で完全に処理し、目立った痕跡さえ残さない。
そんなことは、並の土属性魔法では不可能だった。
少なくとも校尉級。
あるいは、それ以上の実力が必要になる。
だが、サミュエルがその階級の魔法使いを自由に雇えるのなら、わざわざこれほど面倒な手段を使う必要はないはずだ。
空間魔法も疑った。
入口を別の場所へ移した。
通路そのものを異空間へ隠し、外部から見つけられないようにした。
しかし、空間魔法は土属性魔法よりも遥かに珍しく、術を維持するための代償も大きい。
子供を攫って売るためだけに、暮星城のような場所で広範囲の空間術式を長期間維持する。
やはり、現実的ではなかった。
◇ ◇ ◇
六日目。
アーガは、自分の判断そのものを疑い始めた。
地下牢が存在したことを疑っているわけではない。
ノアを、この目で見た。
捕らえられた子供たちも見た。
そして、自分の手でリナを背負い、あの場所から連れ出した。
疑っているのは、考える方向だった。
もしかすると、自分は最初から間違っていたのではないか。
そして、アイラも共犯なのではないかと疑い始めていた。
「地下通路が消えた」
その事実そのものが、罠だったのかもしれない。
敵はアーガに、地形へ問題があると思わせた。
土。
入口。
空間。
そうしたものへ意識を向けさせたのだ。
だが、敵が本当に隠していたのが、地下通路そのものではなく――人間の《知覚》だったとしたら?
その考えが浮かんだものの、アーガはすぐに頭の片隅へ押し込んだ。
まだ足りない。
何かが、一つ欠けている。
◇ ◇ ◇
十日目の朝。
牢の扉が開かれた。
外に立っていた衛兵が、冷淡な声で告げる。
「ジャヤ、出ろ」
アーガは顔を上げた。
衛兵は牢の鍵を開け、外へ出るよう顎で示す。
廊下の先では、衛兵隊の書記官が一通の書類を手にしていた。
無表情のまま、記された内容を読み上げる。
「ジャヤ。暮星邸への不法侵入、ギルドの秩序を乱した行為、ならびに本市の住民であるサミュエル・グラント氏への虚偽の告発」
「サミュエル氏が民事上の賠償を求めない意向を示しており、実際の死者も出ていないことから、十日間の拘留をもって釈放とする」
書記官は一度だけアーガを見た。
「ただし、暮星城はこれ以上混乱を起こす者を歓迎しない」
「お前を市外へ追放し、今後三ヶ月間の入城を禁ずる」
アーガは何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
牢獄の外へ出ると、降り注ぐ日差しが目に刺さった。
十日ぶりに浴びる光は眩しく、目の奥が僅かに痛む。
暮星城の通りは、以前と変わらず賑わっていた。
パンを買う者。
馬車を走らせる御者。
冒険者ギルドの方角から歩いてくる冒険者。
道端では、サミュエルがまた孤児院へどれほどの品を寄付したのかを話している者もいた。
十日が経っても、この街は何一つ変わっていない。
変わったのは、アーガだけだった。
衛兵たちは、そのまま彼を城門まで連れていった。
城門の外では、イータとリナが待っていた。
アーガの姿を見つけた瞬間、イータは二歩ほど駆け出した。
しかし、すぐに足を止める。
感情のまま飛びつくことを、必死に堪えているようだった。
目の周りは赤く、白い耳も力なく垂れていた。
その隣には、リナが立っている。
清潔な服へ着替えていた。
顔色はまだ白く、歩くときには右脚を少し庇っている。それでも、自分の力で立てる程度には回復していた。
手首の傷は布で覆われており、その端から薄い痣だけが見えている。
アーガはリナを見つめ、僅かに足を止めた。
「傷はどうだ?」
リナは小さく首を横へ振った。
「もう、かなりよくなりました」
「連中に何かされたか?」
「いいえ」
リナは静かに答えた。
「アイラ様が医師を呼んで、傷の手当てをさせてくれました。その後、私は屋敷から出されて……ずっとイータがそばにいてくれました」
「なら、アイラは共犯じゃなかったらしいな」
イータがすぐに口を開く。
「私、冒険者ギルドにも行きました」
「でも、証拠がない以上、サミュエルさんの場所へ勝手に踏み込むことはできないって……」
話しているうちに、イータの声はどんどん小さくなっていった。
アーガは彼女を責めなかった。
「十分だ。お前はよくやってくれた」
イータは唇を噛み、何も答えなかった。
城門の外から吹く風には、草葉と土の匂いが混じっている。
遠方には変わらず山脈が横たわり、最も高い雪峰が陽光を反射して白く輝いていた。
アーガは振り返り、暮星城を見上げる。
体裁が整い、明るく、秩序のある街。
そして、その秩序は三人を城外へ追い出した。
「行こう」
アーガが言った。
リナが僅かに目を見開く。
「どこへ行くのですか?」
「ここを離れる」
アーガは静かに答えた。
「この街は、俺たちには合わない」
イータは顔を上げた。
ノアのことを言いたかったのだろう。
捕らえられている子供たちのことも、地下牢のことも。
だが、結局は何も口にできなかった。
三人は城外の道を歩き始めた。
しばらくの間、誰も言葉を発しなかった。
アーガの歩みは速くない。
十日間も牢へ閉じ込められていた身体には、日差しに慣れる時間が必要だった。
リナは彼の隣を歩き、イータは反対側についていく。
イータは何度も、背後の暮星城を振り返っていた。
しばらく歩いたところで、リナがふいに口を開く。
「アーガ様」
「何だ?」
「私が地下牢に捕まっていたとき……ずっと、落ち着かなかったんです」
アーガはリナへ目を向けた。
彼女の声は小さかった。
思い出したくもない時間を、無理に辿っているようだった。
「私は、一番奥にある場所へ閉じ込められていました」
「周囲はとても暗くて、外の音もほとんど聞こえませんでした」
「ですが、時々……子供たちの泣き声が聞こえたんです」
アーガの足が僅かに止まる。
リナは続けた。
「一人や二人ではありません」
「近くに大勢の子供が捕らえられているような……でも、声は何かに抑え込まれているように小さかったです」
「泣き声は途切れ途切れで、すぐ近くから聞こえることもあれば、遥か遠くから聞こえてくるようなこともありました」
イータの顔色が青ざめる。
「私とアーガ様が最初に入ったとき、ほとんどの子は泣いていませんでした」
「あの子たちは、泣くことを怖がっていたんです」
リナは答えた。
「ですが、私が閉じ込められていた場所は違いました。あそこでは、ずっと誰かが泣いていました」
「特に、夜中になると……」
アーガは完全に足を止めた。
道の上に立ったまま、マーサが以前口にしていた言葉を思い出す。
――あの子が泣いている夢を、何度も見るんです。
あのときは、子供を失った母親が見る幻だと思っていた。
だが、違ったとしたら?
マーサは子供の泣き声を夢の中で聞いていたのではない。
実際に聞いていたのだとしたら。
あまりにも小さく、曖昧で、夢の中から伝わってくるような声だった。
だから、マーサ自身にも現実の音なのか判別できなかった。
アーガの頭の中で、途切れていた線が一気につながった。
城西の草地を掘っても、入口は見つからなかった。
南門の屋敷にも、隠し扉は存在しなかった。
イータは、匂いが何かに抑え込まれていると言っていた。
捕らえられた子供たちの多くは、怖くて泣くことすらできない。
そして、激しく泣く子供は、さらに奥深い場所へ移される。
リナは、自分の近くで大勢の子供が泣いていたと言った。
地下通路が消えたのではない。
誰かが毎回、広大な地下施設を跡形もなく消していたわけでもない。
あの一帯には――結界が張られていたのだ。
「そういうことか……」
アーガの口元に、理解したような笑みが浮かぶ。
「昔、まだ七歳だった俺が王都で出会った、モルハンとモルブの兄弟」
「二人が地下の酒蔵に掛けていた魔法と、同じじゃないか」
結界は、中にあるものを消滅させる魔法ではない。
外にいる人間が、隠された部分へ本当の意味で触れられないようにするものだ。
入口は、今もそこにある。
通路も消えていない。
だが、結界に覆われている限り、外からどれほど掘り返し、どれほど捜索しても、触れられるのは偽装された《何の変哲もない地面》だけなのだ。
結界には、効果を及ぼせる範囲に限界がある。
そのため、大声で泣く子供たちは特定の場所へ集めて閉じ込められ、声が外へ漏れないようにしていた。
時には、扱いの難しい子供が結界の外に出され、そこで泣くこともある。
そして、リナまでその場所へ閉じ込められた理由。
リナはすでに十三歳だ。
大声で助けを求めれば、地上にいる人間に聞かれる可能性がある。
だから、最初から声が外へ届かない区域へ入れられたのだ。
アーガの眼差しが、少しずつ変わっていく。
その異変に気づいたイータが、すぐに尋ねた。
「アーガ様、どうしたんですか?」
アーガは振り返り、暮星城を見た。
城壁は陽光を受けて、変わらず明るく輝いている。
城門の衛兵たちも、いつもどおり通行人を調べていた。
あの街には、何の異常もないように見える。
だが、ようやく分かった。
自分がどこで間違えていたのか。
入口を見つける場所を間違えたのではない。
敵が、すべての人間に入口を《見えなくしていた》のだ。
「アーガ様?」
リナが小さく呼びかける。
アーガはしばらく黙ったあと、突然口を開いた。
「行くのはやめだ」
イータが目を見開く。
アーガは暮星城を見つめたまま、低く、はっきりと告げた。
「一つ、考えがある」




