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第160話 濡れ衣

扉の外で、足音が止まった。


「アイラ様?」


扉越しに聞こえてきた男の声には、敬意と同時に警戒が滲んでいた。


アイラはレイピアを握ったまま、アーガから視線を逸らさない。


アーガは部屋の中央に立っている。その背後では、リナが壁際にもたれかかっていた。


顔色は青白く、呼吸も弱い。衣服に染みついた血の大半はすでに乾いていたが、それでも目を背けたくなるほど痛々しかった。


扉の外から、もう一度ノックの音が響く。


「アイラ様、ご無事ですか?」


アイラは答えなかった。


僅かに剣先を下げ、硬く冷たい声で告げる。


「そこを退いて」


アーガは動かなかった。


「説明を聞く気はないのか?」


「説明ですって?」


アイラは冷笑した。


「真夜中に私の部屋へ忍び込み、傷だらけの女性を連れてきた挙げ句、サミュエルが人身売買をしていると言い出した。ジャヤ、あなたはそれを説明と呼ぶつもり?」


アーガは真っ直ぐに彼女を見た。


「説明らしく聞こえるかどうかはどうでもいい。地下室を自分の目で確認しろ」


「昼間も同じことを言っていたわね」


「昼間は入口を塞がれた」


「今度もそう言い張るつもり?」


アイラの眼差しが、さらに冷たくなる。


次の瞬間、彼女が動いた。


月明かりを反射したレイピアが、一直線にアーガへ突き出される。


アーガは身体を捻って躱したが、完全には避けきれなかった。剣先が肩を掠め、衣服が細く裂ける。


アイラは遊侠級上位。


通常の状態で正面から戦えば、アーガに彼女を押さえ込むことは難しい。


それ以上に厄介なのは、リナのそばを離れられないことだった。今のリナは一人で立つことすらできない。扉の外にいる者たちに見つかれば、状況はさらに悪化する。


アーガは床を強く蹴った。


黄カード2《チーター》の力が両脚へ流れ込み、一気に加速する。


しかし、向かった先はアイラではない。壁際に沿って移動し、扉の近くへ回り込もうとした。


アイラはすぐに意図を見抜く。


「逃げるつもり?」


横薙ぎに振るわれたレイピアが、アーガの進路を塞いだ。


アーガは腕を上げて剣身を弾く。衝撃で腕が痺れた。


長く打ち合う余裕はない。


反動を利用して身体を翻し、机のそばへ着地する。肩が机へぶつかり、上に置かれていた硝子の杯が倒れた。


水が床一面へ広がっていく。


扉の外にいた者たちも、ようやく異変へ気づいた。


「アイラ様!」


扉の取っ手が回される。


アイラは振り返ることなく、鋭い声を飛ばした。


「入ってこないで!」


外にいる者が、一瞬だけ躊躇した。


その隙を逃さず、アーガは窓へ向かって駆け出す。


腰には簡易信号弾が一つ残っていた。城外で依頼を行う際、魔物との遭遇や道に迷った場合に備えて購入したものだ。


まさか、それが外部の人間を呼び寄せる最後の手段になるとは思ってもいなかった。


背後から剣光が迫る。


アーガは足を止めざるを得ず、振り返って刺突を避けた。


レイピアの先端が頬のすぐ横を通り過ぎ、黒い髪を数本切り落とす。


逃げ道を失ったアーガは、壁際まで追い込まれた。


アイラが一歩ずつ距離を詰め、レイピアの切っ先を胸へ向ける。


「ここまでよ」


アーガの呼吸はそれほど乱れていなかったが、その瞳は深く沈んでいた。


片手を上げ、部屋の隅を指さす。


「自分の目で見ろ」


アイラが眉を寄せる。


アーガは声を抑えて続けた。


「彼女は俺の仲間だ。昨夜、俺を逃がして情報を外へ持ち出させるため、地下牢へ残って追手を食い止めた」


壁にもたれかかるリナへ視線を向ける。


「身体の傷を見ろ。俺が芝居のためにつけたように見えるか?」


アイラの視線が、ようやくリナへ移った。


リナの顔色は、透き通るほど白かった。


手首には、長時間鎖で拘束されたことで生じた青黒い痣が残っている。背中や肩に刻まれた傷も、普通の戦闘で負ったものには見えない。


長時間にわたる尋問と拷問。


そう考えた方が自然な傷だった。


アイラの表情が、僅かに変化する。


アーガは続けた。


「この部屋の下にも地下室がある。入口は、俺がさっき飛び出してきた場所だ」


「中には子供たちがいる。攫われてきた人間も閉じ込められている」


「サミュエルは、お前が思っているような人間じゃない。お前の名声を利用し、《晨星の家》が潔白だと皆に信じ込ませているだけだ」


アイラの剣を握る指へ力がこもる。


「黙って」


「動揺しているな」


「黙りなさい」


アーガは彼女を見据えた。


「分からないわけじゃない。ただ、信じるのが怖いだけだ」


アイラの呼吸が、一瞬だけ乱れた。


そのとき、部屋の扉が外側から押し開けられた。


サミュエルが入ってくる。


背後には数名の護衛と、先ほど扉の外から声をかけていた男が続いていた。


サミュエルは濃い色の上着を羽織っている。眠っていたところを急いで起こされたような格好だった。


それでも表情は落ち着いており、顔には過不足のない心配が浮かんでいる。


「アイラ!」


部屋の中の光景を見た瞬間、サミュエルの顔色が変わった。


「ジャヤさん……どうして、あなたがここに?」


アーガは答えなかった。


全員の視線が自分へ集まった瞬間、窓へ向かって突進する。


アイラの反応は速かった。


追いすがるレイピアが肩へ突き刺さり、新たな血が飛び散る。


それでもアーガは止まらない。


窓枠へ体当たりし、強引に窓を押し開けると、腰に下げていた信号弾を作動させた。


赤い光が夜空へ駆け上がる。


直後、鋭い爆発音が屋敷の上空で響き渡った。


眠っていた屋敷全体が、一斉に騒がしくなる。


その瞬間だけ、サミュエルの表情が暗く沈んだ。


だが、その変化はあまりにも短かった。


誰かが気づくよりも早く、彼の顔には悲しみと怒りが入り混じった表情が浮かんでいた。


「ジャヤさん、いったい何をするつもりなのですか?」


護衛たちが一斉に飛びかかり、アーガを床へ押さえつける。


アーガは最後まで抵抗しなかった。


信号弾を見れば、イータや衛兵たちはすぐに来る。


ここで無理やり逃げれば、住居への不法侵入、アイラへの襲撃、そしてリナを傷つけたという罪まで、自ら認めることになってしまう。


床へ押さえつけられながら、アーガは顔を上げてサミュエルを見た。


「この下に、地下通路がある」


サミュエルは目を閉じた。


まるで、もう我慢の限界だと言わんばかりだった。


「もう、やめてください」


アイラはその場に立ったまま、酷く青ざめた顔をしている。


アーガとリナを交互に見つめる瞳には、初めて明らかな迷いが浮かんでいた。


しばらくすると、屋敷の外から大勢の足音が近づいてきた。


信号弾に気づいた夜間巡回隊と、数名の冒険者たちだった。


その中には、エイヴンの姿もある。


床へ押さえつけられているアーガを見ると、彼はすぐに眉を寄せた。


「ジャヤ?」


アーガは顔を上げる。


「地下室の入口は、この屋敷の中にある。俺はついさっき、その地下から出てきた」


衛兵隊長がサミュエルへ視線を向けた。


サミュエルは顔を青ざめさせ、怒りを押し殺した声で答える。


「そこまで言い張るのであれば、調べてください」


アイラがすぐに部屋の床へ目を向ける。


アーガは絨毯の下を指さした。


「そこだ」


衛兵たちが絨毯を剥がす。


しかし、その下にあったのは、綺麗に並べられた木の床板だけだった。


隠し扉はない。


亀裂もない。


土も露出していない。


何かを破壊した痕跡すら残っていなかった。


アーガの瞳孔が僅かに縮む。


「あり得ない……」


その言葉を口にしたのは、これで二度目だった。


昼間の城西にある草地。


そして、今この屋敷でも。


衛兵は床板を叩いて音を確認し、工具を使って数枚を剥がした。


その下にあったのは、ごく普通の支柱と石造りの基礎だけだった。


地下へ続く空間など、どこにも存在しない。


エイヴンも膝をつき、床板の隙間を念入りに調べる。


やがて、その表情が少しずつ険しくなった。


「入口はない」


アーガの指が、ゆっくりと握り締められる。


確かに、ここから出てきた。


リナを背負い、地下通路の隠し扉を破壊し、この屋敷の廊下へ飛び出した。


そこからアイラの部屋へ逃げ込んだのだ。


入口が、これほど短時間で消えるはずがない。


ただし――。


城西の地下通路を塞いだものと、同じ手段が使われたのだとすれば。


サミュエルは剥がされた床板を見つめ、ついに怒りを抑えきれなくなったように口を開いた。


「ジャヤさん」


決して大きな声ではなかった。


それでも部屋にいる全員が、口を閉ざした。


「昼間、あなたは城西の草地に地下牢があると言いました。しかし、何も見つからなかった」


「そして今度は、真夜中にアイラの部屋へ侵入し、傷だらけの女性を背負ったまま、私の屋敷の地下に牢獄があると言い張っている」


サミュエルはリナを指し、その顔に深い悲しみを浮かべた。


「彼女がこれほど酷い傷を負っていることには、私も心を痛めています」


「しかし、だからといって、すべての罪を私へ押しつけることは許されません」


アーガはサミュエルを睨みつけた。


「なら、リナの傷を説明してみろ」


サミュエルはリナへ顔を向けた。


その表情は複雑だった。


怒っているようにも、心から憐れんでいるようにも見える。


「私に分かるはずがないでしょう」


静かに言った。


「あなた自身が彼女を傷つけ、私へ罪を着せるためにここへ連れてきたのかもしれない」


イータは、この場にいない。


リナも弱りきっており、まともに言葉を発することができなかった。


そして、アーガには証拠がない。


アイラの顔から、一瞬で血の気が引いた。


反射的にリナを見る。


リナは壁際にもたれたまま、何かを伝えようと唇を動かした。


しかし、漏れたのは掠かな吐息だけだった。


サミュエルは、さらに言葉を重ねる。


「アイラ、君も見ただろう」


「彼は君の部屋へ押し入り、君へ近づこうとした。そのうえ、屋敷の護衛まで襲っている」


「ここから逃れるためなら、彼はどんな嘘でも口にする」


アイラはすぐには答えなかった。


視線は、リナへ向けられたままだった。


あの傷は本物だ。


芝居で作れるようなものではない。


しかし、床の下には何もなかった。


昼間に調べた城西の草地にも、何も存在しなかった。


一度だけなら、まだ何かを疑うことができたかもしれない。


だが、二度とも同じ結果だった。


アイラの指が、僅かに震える。


彼女は、アーガの言葉を信じたくなかった。


衛兵隊長が前へ出た。


「ジャヤさん。住居への不法侵入、深夜に女性の部屋へ押し入ったこと、屋敷の護衛への襲撃、治安を乱したこと」


「さらに、暮星城の住民に対する虚偽の告発も疑われています。詳しい話を聞くため、我々と来ていただきます」


アーガは衛兵隊長を一度見た。


「リナも連れていく」


サミュエルが答えるより先に、アイラが口を開いた。


「彼女はここへ残して、治療を受けさせるわ」


アーガが彼女を見る。


アイラはその視線を避け、低い声で続けた。


「少なくとも……今の彼女を、あなたと一緒に行かせることはできない」


その言葉を聞いた瞬間、アーガの目が冷たくなった。


「俺がリナを傷つけたと思っているのか?」


アイラは答えなかった。


サミュエルが穏やかな声を挟む。


「医師を呼びます。彼女が傷ついている以上、事件の真相がどうであろうと、放置するつもりはありません」


あまりにも立派な言葉だった。


その場にいる衛兵や冒険者たちでさえ、反論する部分を見つけられないほどに。


アーガは突然、小さく笑った。


笑みは薄く、酷く冷たい。


「サミュエル」


大勢の前で、敬称をつけずにその名を呼んだのは初めてだった。


「俺が二度と外へ出られないよう、せいぜい祈っておけ」


サミュエルは怒らなかった。


ただ、さらに深く失望したような表情を浮かべる。


「ジャヤさん、あなたはもう正気ではありません」


衛兵が近づき、アーガの両手首へ鉄の枷をかけた。


エイヴンが眉を寄せ、何かを言おうとする。


しかし、衛兵隊長が片手を上げて制止した。


「エイヴンさん。これは衛兵隊の管轄です」


アーガは部屋の外へ連れ出された。


リナのそばを通り過ぎるとき、ほんの一瞬だけ足を止める。


リナは懸命に顔を上げた。


赤くなった目から、今にも涙が零れ落ちそうだった。


「ジャヤ……様……」


アーガは長く振り返らなかった。


「生き延びろ」


それだけを残し、衛兵に背中を押されて歩き出す。


屋敷の廊下には、眩しいほどの明かりが灯されていた。


左右には使用人や護衛が並び、その視線が針のようにアーガへ突き刺さる。


アイラは部屋の入口に立っていた。


長い緑色の髪が肩へ垂れ、顔は青白い。


連行されていくアーガを見送ったあと、部屋の中で傷だらけになっているリナへ視線を戻す。


その瞬間、初めて足元の床が揺れているように感じた。


サミュエルが隣へ歩み寄り、優しく声をかける。


「もう怖がらなくていい。すべて終わった」


アイラは答えなかった。


アーガが《暮星邸》から連れ出された頃、空の端には僅かな灰白色が広がり始めていた。


信号弾が残した赤い煙は、まだ完全には消えていない。


それはまるで引き裂かれた傷口のように、明るくなり始めた空へ長く残っていた。


やがて。


暮星城の牢獄にある重い鉄扉が、アーガの背後で閉じられる。


轟音が響き渡った。


最後に残っていた僅かな朝の光さえ、深い闇の中へ呑み込まれた。


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