第159話 暮星邸
アーガはすぐに魔法錠を壊そうとはせず、牢の前に立ったまま遠くの物音へ意識を集中させた。
地下通路からは、ときおり誰かの足音が聞こえてくる。通り過ぎる者もいれば、低い声で言葉を交わしている者もいた。さらに奥からは、堪えきれずに漏れた子供の泣き声も響いていた。
どの音もひどく小さい。分厚い壁と何らかの魔法によって遮られ、曖昧な余韻だけがこちらへ届いているようだった。
リナは牢の壁に背中を預け、浅い呼吸を繰り返している。アーガは携帯していた小袋から治療薬を一本取り出し、鉄格子の隙間から差し入れた。
「先に飲め」
リナが手を伸ばすと、手首につながれた鉄鎖が小さな音を立てた。その動きはひどく遅く、薬瓶を握るだけでも相当な力を必要としているようだった。
アーガはリナが薬を飲み切るまで見届けたが、その視線は暗赤色の魔法錠から離れなかった。
錠に刻まれた紋様は複雑だ。力ずくで破壊すれば、間違いなく大きな音が出る。
だが、これ以上好機を待っている時間もなかった。
イータはすでに外へ助けを求めに向かっている。しかし、無事に人を連れて戻れるかどうかも、連れてきた者たちが今度こそ話を信じるかどうかも分からない。
アーガは壁に掛けられていた尋問用の鉄鉤を一本取り、布を掌と鎖の接合部へ巻きつけた。少しでも音を抑えるためだ。
彼が狙ったのは魔法錠そのものではなく、牢の扉を壁へ固定している側面の鋲だった。
鉄鉤を隙間へ差し込み、黄カード1《棕熊》の力を少しずつ加えていく。鋲が僅かに歪んだところで、今度は細い蔓を錠の内部へ潜り込ませた。
複雑に組み合わされた部品を一つずつ探り、慎重に動かしていく。
やがて、錠の奥から極めて小さな音が聞こえた。
――カチッ。
アーガが手を添えると、重い牢の扉がゆっくりと開いた。
リナが顔を上げる。
「アーガ様……」
「話すな」
アーガは牢の中へ入り、リナの手首を拘束している鎖を外していった。床へ落ちようとした鉄鎖は細い蔓で受け止め、音を立てないようにする。
近くで確認すると、リナの傷は先ほど考えていたよりも遥かに重かった。
肩、両腕、背中には無数の鞭の痕と、鈍器で殴られたような傷が残っている。右足首も酷く腫れていた。間違いなく拷問を受けており、相手はほとんど手加減していない。
アーガは残っていた止血薬を清潔な布へ振りかけ、特に酷い傷だけを簡単に処置した。
薬と布が傷口へ触れるたびにリナの指先が小さく震えたが、それでも彼女は一度も声を漏らさなかった。
「歩けるか?」
リナは壁へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
しかし、一歩踏み出した瞬間、身体が大きく横へ傾いた。
アーガはすぐに腕を伸ばして彼女を支える。
「もう歩かなくていい」
そう言うと、リナへ背を向けてその場にしゃがみ込んだ。
リナを背負った瞬間、アーガは彼女の身体が以前よりも明らかに軽くなっていることに気づいた。
背中へ身体を預けたリナの浅い呼吸が、アーガの首筋へ触れる。何かを言おうとしたようだったが、結局は何も言わず、彼の肩を弱く掴んだだけだった。
アーガは牢を出て、来た道を戻り始めた。
地下通路は静かだった。
あまりにも静かすぎる。
二つ目の牢の前を通り過ぎた、そのとき。
前方から低い咳払いが聞こえた。
アーガの足が止まる。
通路の曲がり角から、一人の男がゆっくりと姿を現した。
それほど大柄な男ではない。黒い外衣を羽織り、乱れた髪が額へ垂れている。武器も持っていなかった。
それなのに、男から感じる圧迫感は異常なほど重かった。
男がアーガへ視線を向けた瞬間、身体が本能的に強張る。
昨夜の見張りではない。
こいつは、さらに強い。
男はアーガの背中にいるリナを見たあと、開いたままの牢へ目を向けた。
その顔には、ほとんど感情が浮かんでいない。
「お前が、昨夜逃げた鼠か?」
アーガは答えなかった。
男は片手を上げ、眠りから覚めたばかりのように首を軽く揉む。
「もう大人しくしていると思ったんだがな」
そう言って、男が一歩踏み出した。
次の瞬間、その姿が消えた。
速い。
あまりにも速すぎる。
背後から空気を切り裂く音が聞こえた瞬間、アーガは考えるよりも先に黄カード2《チーター》を発動した。
横へ大きく跳び、右側の脇道へ飛び込む。
直後、男の掌がアーガの肩を掠め、そのまま石壁へ触れた。
大きな音はしなかった。
しかし、触れられた石壁の一部が、掌の形に深く陥没していた。
リナの呼吸が明らかに止まりかける。
「動くな」
アーガは低く言い、振り返ることなく通路を駆け抜けた。
地下道は、想像していた以上に複雑だった。
南門の廃屋へ続く道は、無数にある支道の一つでしかない。奥へ進むほど分かれ道が増え、牢へ続く道もあれば、倉庫らしき場所へ続く道もある。どこにつながっているのか分からない道まで存在していた。
アーガは記憶を頼りに方向を判断したが、追ってくる男が速すぎる。立ち止まって道を確認する余裕などなかった。
男はずっと後ろをついてきていた。
近づきすぎることもなく、離れすぎることもない。
まるでアーガがあとどれほど走れるのか、試しているかのようだった。
狭い通路を駆け抜けた先で、アーガは足を止めた。
行き止まりだった。
いや、違う。
頭上に一枚の木板があり、その隙間から僅かな光が漏れている。
上に空間がある。
アーガは迷わず赤カード3《草》を発動した。
足元から伸びた何本もの蔓が両側の壁へ絡みつき、アーガの身体を上へ押し上げる。
同時に黄カード1《棕熊》の力を右腕へ集中させ、頭上の木板へ拳を叩きつけた。
一撃目で木板に亀裂が走った。
二撃目で砕けた木片と土が降り注ぐ。
三撃目で隠されていた扉全体が、力ずくで打ち破られた。
アーガはリナを背負ったまま上の空間へ飛び出した。
着地した足が触れたのは、柔らかく厚みのある絨毯だった。
廃屋ではない。
倉庫でもない。
そこは一つの邸宅だった。
廊下の両側には装飾の施された壁灯が並び、床には暗赤色の長い絨毯が敷かれている。壁には油絵が掛けられ、銀製の燭台が飾られていた。
空気の中には淡い香の匂いが漂っている。
地下牢に充満していた黴と血の臭いとは、あまりにも違っていた。
だが、周囲を確認している時間はない。
背後の壊れた隠し扉から、男の足音が近づいてくる。
アーガはリナを背負ったまま、最も近くにあった扉へ飛び込み、すぐに背後の扉を閉めた。
部屋の中は暗かった。
窓辺から、僅かな月光だけが差し込んでいる。
アーガがリナを壁際へ下ろした、そのとき。
寝台の方から小さな物音が聞こえた。
誰かいる。
アーガが顔を上げるのと、寝台にいた人物が身体を起こすのはほぼ同時だった。
緑色の長い髪が肩から滑り落ち、淡い色の寝衣が月光を受けて冷たく光る。
エラは最初、何が起きているのか分からない様子だった。
しかし、部屋の中に立っているアーガと、壁際にいる全身傷だらけのリナを見た瞬間、その表情が一変した。
「ジャヤ?」
エラは寝台から飛び起きるように立ち上がり、枕元に置かれていた細剣へ手を伸ばした。
「この恥知らずが!」
アーガは一歩で距離を詰めた。
エラが人を呼ぶ前に片手で口を塞ぎ、そのまま寝台の端へ押し戻す。
エラの目が鋭くなり、すぐに膝を跳ね上げてアーガの腹部を狙った。
アーガは身体を捻って攻撃を避ける。
「叫ぶな」
エラは激しく抵抗した。
アーガは両手首を押さえつけ、さらに声を低くする。
「お前は騙されている。サミュエルは人身売買をしている。地下には牢があって、子供も誘拐された大人も閉じ込められている」
エラの瞳孔が、ほんの僅かに縮んだ。
「奴は、お前の名声を看板にして外向けの商売をしているだけだ」
一瞬浮かんだ動揺は、すぐに深い怒りによって塗り潰された。
エラはアーガの掌へ噛みついた。
「っ……!」
痛みにアーガの手が緩む。
エラはその隙に胸へ蹴りを叩き込み、反動を利用して寝台から飛び降りた。
すでに細剣は彼女の手に握られている。
月光を受けた剣先が、冷たい光を放った。
「もう十分よ」
エラの声は氷のように冷たかった。
「昼間、サミュエルを陥れただけでは足りないの? 夜中に私の部屋へ忍び込んで、傷だらけの女まで連れてきて芝居をするつもり?」
「芝居じゃない」
「なら、あなたがその子を傷つけたのね」
アーガの目が沈む。
「自分の目で傷を見ろ。地下の見張りが拷問した痕だ」
エラは一度だけリナへ視線を向けた。
リナは壁へ身体を預け、顔色は真っ白だった。自力で立つことさえ難しい状態だ。
エラの視線が一瞬止まる。
だが、本当に一瞬だけだった。
「あなたがどんな方法でその子を傷つけたのかも、なぜこんなことをしているのかも、私には分からない」
エラは再び剣を構えた。
「でも、今夜はもう嘘をついて逃げることはできない」
廊下から足音が聞こえてきた。
まだ遠いが、確実に近づいている。
地下にいた男も、間もなく上がってくるはずだ。
これ以上、エラへ説明している時間はない。
「退け」
エラは細剣を強く握る。
「断るわ」
剣光が一瞬でアーガへ迫った。
アーガは身体を横へ向けて刃を避けたが、剣から伸びた鋭い気配が肩の皮膚を浅く切り裂いた。
血が一筋、服の上へ滲んでいく。
エラの動きは速かった。
身のこなしは軽く、剣の軌道にも無駄がない。長い時間、正式な訓練を受けてきた者の剣だった。
遊侠級上位。
正面から戦えば、今のアーガが勝つことは難しい。
まして、背後には負傷したリナがいる。
エラは休む時間を与えず、二本目の刺突をアーガの胸へ放った。
アーガは赤カード3《草》を発動する。
床板の隙間から伸び上がった蔓が剣先へ絡みつき、攻撃を受け止めた。
しかし、細剣はそのまま蔓を貫いた。
エラが手首を返すと、刃が横へ走り、蔓を切断する。
アーガはその僅かな時間を利用して後退し、リナの前へ立った。
「いつまで芝居を続けるつもり?」
アーガはエラを真っすぐ見た。
「お前は後悔する」
「私が今、一番後悔しているのは、昼間あなたを衛兵へ引き渡さなかったことよ」
エラが再び踏み込んだ。
アーガは床を蹴り、黄カード2《チーター》の力を発動する。
身体が床を這うような低い軌道で加速した。
彼女の急所を狙うつもりはない。
ただ横を抜け、扉へ向かおうとした。
しかし、エラはその動きを読んでいた。
細剣が横薙ぎに振るわれ、アーガは足を止めざるを得なくなる。
剣光と拳が狭い部屋の中で交錯した。
机の上にあった花瓶が衝撃で床へ落ち、粉々に砕ける。
細剣の先が窓辺を走り、厚いカーテンへ長い切れ目を作った。
壁際では、リナが必死に片手を上げていた。
蔓を出そうとしている。
しかし、傷が深すぎた。
魔力を集めた瞬間、リナは激しく咳き込み、口元から赤い血を零した。
アーガの目が鋭くなる。
「動くな」
リナの咳を聞いたエラも、ほんの一瞬だけ動きを鈍らせた。
そのとき。
廊下の足音が、突然すぐ近くまで迫った。
――コン、コン。
扉が叩かれる。
「エラ様?」
エラの細剣が空中で止まった。
アーガも動きを止める。
扉の外から聞こえた声は礼儀正しいものだったが、強い警戒が混じっていた。
「お部屋で、何かございましたか?」
アーガはエラを見る。
エラもアーガを見返していた。
僅かな時間、部屋の空気が限界まで張り詰める。
壁際で、リナが弱々しい声を漏らした。
「アーガ様……」
アーガは答えなかった。
自分にはもう、退路が残されていない。
そう理解していた。




