第158話 南門の地下道
《灰鳩亭》へ戻ったとき、イータの服にはまだ泥と腐った果汁が付着していた。
宿へ戻るまで、彼女は一言も話さなかった。
部屋へ入ると、イータは中央で立ち止まった。
顔を伏せ、指で服の裾を強く握っている。
外套の端に付いた汚れは、袖口にまで広がっていた。
何も悪いことなどしていない。
それなのに、まるで自分が何か間違ったことをしてしまったかのようだった。
アーガは扉を閉めた。
しばらく黙ったあと、イータの前まで歩いていく。
イータが顔を上げた。
目の縁には、まだ僅かに赤みが残っている。
「アーガ様……」
アーガは手を伸ばし、イータの髪を軽く撫でた。
イータは驚いたように一度、目を瞬かせる。
「風呂へ入ってこい。服も着替えろ。今日のことは気にするな」
イータは小さな声で答える。
「でも、誰も私たちのことを信じてくれませんでした」
「それは、あいつらの問題だ」
「リナお姉ちゃんは、まだ地下にいるんですよね」
「ああ」
アーガの声はとても落ち着いていた。
あまりにも平静だったため、イータはかえって不思議そうに彼を見上げた。
アーガは手を離す。
そばに置かれていた清潔な服を取り、イータへ差し出した。
「こういうときほど焦るな。まず自分の身を整えろ。このあと、まだやることがある」
イータは服を受け取った。
そして小さく頷く。
「はい」
◇ ◇ ◇
イータが一階の浴室へ向かったあと、部屋にはアーガ一人だけが残された。
窓を閉める。
カーテンも引いた。
そして机の前へ座る。
金の入った袋、依頼書、暮星城の簡単な地図。
それらを一つずつ机の上へ並べていく。
西区の草地、《晨星の家》、白楡通り、西門、山の麓、ダニーの両親が殺された場所。
アーガはそれぞれの場所を指の関節で軽く叩いていった。
ノアの失踪だけを考えれば、一人の子供が草地から突然消えたようにしか見えない。
だが、今のアーガの頭には一つの考えが浮かんでいた。
奴らは一部の子供の両親を殺している。
そして身寄りを失った子供たちを、善意を装って引き取る。
外では孤児を救う慈善家として評判を高める。
エルフ族であるエラの名声も利用し、表向きの活動をさらに大きくしていく。
その一方で、別の子供たちは密かに誘拐され、人身売買の商品として扱われている。
アーガの指先が地図上の西区で止まった。
西門近くにあった入口は、すでに完全に埋められている。
サミュエルがあれほど素早く入口を処理できたということは、あそこが唯一の出入口ではない。
そうでなければ、たった一晩で入口を捨て、自分たちの退路まで失うような真似はできない。
子供たちを長期間拘束し、別の場所へ運ぶための地下牢。
それを運営するのに、出入口が一つだけということは考えにくい。
運搬、見張りの交代、子供たちの移送、何か問題が起きた場合の対応。
それぞれに別の経路が必要になる。
アーガの視線が地図の下側へ移っていく。
南門。
暮星城の南側は主要な交易路ではない。
人通りは西門よりもさらに少なかった。
あの一帯には古い倉庫が何棟か並んでいる。
大きな屋敷や誰も使っていない空き家も多い。
巡回する衛兵の数は少なくないが、普段暮らしている住民は少なく、夜になれば周囲はさらに静かになる。
(俺がサミュエルなら……)
アーガは南門周辺の区画を見つめた。
その目が少しずつ鋭くなっていく。
(あそこに、二つ目の入口を作る)
◇ ◇ ◇
イータが風呂から戻ってきた。
髪にはまだ僅かに水気が残っている。
すでに清潔な服へ着替えていた。
顔色も先ほどよりは少しだけ良くなっている。
しかし、その目にはまだ不安が残っていた。
アーガは地図を畳む。
「行くぞ」
イータはすぐに顔を上げた。
「どこへ行くんですか?」
「南門だ」
イータはそれ以上何も聞かなかった。
二人は宿の正面玄関を使わず、裏手の路地へ出た。
人通りの少ない細道をいくつも抜け、南区へ向かって進んでいく。
暮星城の一日は、まだ完全には終わっていなかった。
通りには今もそれなりに人が歩いている。
アーガは急がなかった。
特別に身を隠そうともしない。
ただの通行人を装い、イータを連れて南へ歩いていく。
南門へ近づくにつれて、通りは少しずつ静かになった。
西区のような賑やかな露店はない。
主通りのように人が密集している場所もなかった。
道の両側に並んでいるのは、倉庫、古びた屋敷、高い塀。
塀には蔓草が絡みつき、門に付いた金属の輪は錆びていた。
長い間、誰も真剣に手入れをしていないように見える。
イータの鼻先が僅かに動いた。
「ここは匂いが薄いです」
「薄い?」
「押さえ込まれているような匂いです。何もないわけではありません。でも不自然なくらい、匂いが弱くなっています」
アーガは足を止めた。
前方には使われなくなった小さな屋敷跡があった。
塀の一部が崩れている。
内側の庭には背の高い雑草が生い茂っていた。
庭の奥は一本の排水路へつながっている。
さらに先には、南門近くの城壁が落とす濃い影があった。
昼間でさえ、ほとんど人が通らない場所だ。
夜になれば、さらに人目はなくなるだろう。
アーガは低い塀へ手を掛けた。
そのまま乗り越え、庭へ降りる。
イータもすぐに後を追った。
指先には薄い氷霜が浮かんでいる。
イータは庭の中へしゃがみ込んだ。
片手を地面へ押し当てる。
冷気が音もなく周囲へ広がっていった。
草葉の表面へ薄い霜が生まれる。
白い粉を撒いたように、少しずつ庭全体へ広がっていく。
しばらくすると、一か所だけほかよりも早く霜が溶け始めた。
そこでは僅かに空気が流れている。
アーガはその場所へ歩いた。
草を掻き分ける。
地面の縁へ指を這わせると、すぐに細い隙間へ触れた。
「見つけた」
イータの顔色が変わる。
「誰かに知らせましょう」
アーガはすぐには答えなかった。
地面にある隙間を見つめたまま、低い声で言う。
「もう、俺たちの話は信用されない」
「でも……」
「証拠がなければ、何人連れてきても西区の草地と同じことになる。今度は先に証拠を見つける」
イータは唇を結んだ。
アーガの言っていることが間違っていないと分かっていた。
二人は力を合わせ、地面の蓋を持ち上げる。
その下には、同じように土の階段があった。
湿っている。
冷たい。
空気には黴の臭いが混ざっていた。
ただし、今度の入口から漂う臭いは西区の地下道よりも強かった。
アーガが先に下りる。
イータも後ろへ続いた。
◇ ◇ ◇
地下道は西区にあったものより広かった。
壁には何か重い物を引きずった痕跡が何本も残っている。
二人は慎重に奥へ進んだ。
それほど時間もかからず、一枚目の鉄扉が見えてきた。
扉の向こうには再び牢が並んでいた。
だが、ここに閉じ込められているのは子供だけではなかった。
破れた服を身につけた何人かの大人もいる。
意識を失い床へ倒れている者。
目を開けていながら、すでに助けを求めることさえ諦めたような者。
さらに奥から、押し殺された泣き声が聞こえてくる。
非常に小さい。
何かの壁によって遮られているようだった。
イータの顔から少しずつ血の気が引いていく。
アーガは止まらなかった。
牢の中を一部屋ずつ確認していく。
リナを探していた。
そして最も奥まで進んだとき、壁に一つの暗い魔法灯が掛けられていた。
その灯りの下には、ほかと離れた独立した牢がある。
リナはその中に閉じ込められていた。
壁へ背中を預けている。
両手首には鉄鎖が掛けられていた。
淡い色の服には血と泥が付着している。
金色の長い髪は乱れ、顔の半分を覆っていた。
身体には明らかに拷問を受けた痕跡が残っている。
意識は失っていない。
だが、顔を上げる力さえほとんど残っていないようだった。
アーガは牢の前へ立った。
その身体が突然動きを止める。
イータは口元を両手で押さえた。
目から一気に涙が溢れる。
「リナお姉ちゃん……」
その声を聞き、リナの睫毛が僅かに震えた。
ゆっくりと顔を上げる。
アーガの姿を見た瞬間、その瞳にほんの僅かだけ光が戻った。
「アーガ……様……」
声はほとんど聞こえないほど弱かった。
アーガの指がゆっくりと握り締められる。
牢の魔法錠には暗い赤色の紋様が浮かんでいた。
通常の牢に使われているものより、明らかに複雑な構造をしている。
すぐそばの壁には血の付いた鞭、いくつもの拷問道具が掛けられていた。
胸の奥から、氷のような怒りが込み上げてくる。
激しく燃え上がるような怒りではない。
逆だった。
深く、どこまでも冷たく沈んでいく。
イータの指先には、すでに白い霜が集まっていた。
声も強く震えている。
「アーガ様、リナお姉ちゃんを助けましょう」
「助ける」
アーガは牢の扉を見つめた。
その声は恐ろしいほど低かった。
だが、すぐに錠を壊そうとはしない。
この場所には間違いなく見張りがいる。
さらにリナが最も奥にある牢へ入れられているということは、敵は彼女が重要な存在だと理解している。
力ずくで錠を壊せば、地下全体へ異変を知らせてしまう可能性が高い。
アーガは深く息を吸った。
胸の内にある殺意を無理やり押し込める。
そしてイータへ振り返った。
「お前は外へ出ろ」
イータは目を見開く。
「嫌です」
「衛兵か、ギルドの人間を連れてこい。信じるかどうかは関係ない。とにかく人をここへ連れてくるんだ。エイヴンを探せ。受付員でもいい。レックスでも構わない。南門近くの廃屋の下に地下道があると伝えろ」
イータは首を横へ振った。
「アーガ様はどうするんですか?」
「俺は残る」
「でも――」
「イータ」
アーガは初めて強い口調で名前を呼んだ。
イータの言葉が止まる。
アーガは真っすぐに彼女を見た。
声を低く抑える。
「リナはもう長く持たない。子供たちも同じだ。誰かが外へ知らせなければならない。何かあれば信号弾を撃ってお前へ知らせる」
イータは唇を強く噛んだ。
牢の中にいるリナを見る。
続いてアーガへ視線を戻した。
「誰も来てくれなかったら?」
アーガは牢へ向き直る。
暗赤色の魔法錠を見つめた。
「そのときは、俺一人でリナを連れ出す」
イータの目の縁が赤くなる。
だが、今度は迷わなかった。
強く頷く。
「必ず人を連れてきます」
アーガは振り返らない。
「急げ」
イータは身を翻した。
来た道を全力で走り始める。
その足音は、すぐに地下道の奥へ消えていった。
アーガは牢の前に一人で立っていた。
片手を上げ、暗赤色の魔法錠へ触れる。
牢の中でリナが小さく首を横へ振った。
止めようとしているのだろう。
アーガは彼女を見た。
声はとても静かだった。
「何も話すな」
その瞳には、僅かな温度さえ残っていなかった。
「俺がお前を連れて帰る」




