第157話 消えた地下牢
西区の草地がすでに目の前に見えていた。
空はまだ明るくなっていない。
西門の上に並ぶ松明が風を受け何度も揺れている。
草地の表面には薄い夜露が降りていた。
アーガは速い足取りで進んだ。
イータはすぐ後ろをついてくる。
顔色は青白く、指でずっと服の裾を握り締めていた。
エイヴン、レックス、冒険者ギルドの警備員、さらに急遽呼び出された数人の冒険者も後ろからついてきている。
エラとサミュエルも同行していた。
サミュエルは道中ほとんど口を開かなかった。
時折エラへ落ち着くよう低い声で話しかけるだけだった。
その態度が冷静であればあるほど、周囲の冒険者たちがアーガへ向ける視線は少しずつ微妙なものへ変わっていった。
アーガは気にしなかった。
真っすぐ幹の曲がった木のそばまで歩く。
そして草地の北側で足を止めた。
「ここだ」
アーガはその場へしゃがみ込んだ。
手を伸ばし草葉を掻き分ける。
昨夜自分で元へ戻した草の蓋は、間違いなくこの場所にあるはずだった。
しかし指先が地面へ触れた瞬間、アーガの動きが止まる。
隙間がない。
眉を寄せ、場所を少し変えてもう一度探る。
やはり何も見つからなかった。
地面は平らだった。
草も途切れることなく生えている。
まるで一度も掘り返されたことなどないかのように。
イータもすぐにしゃがみ込んだ。
鼻先を何度か動かす。
その顔色がさらに悪くなっていった。
「アーガ様……」
アーガは答えなかった。
指を土の縁へ強く差し込み、昨夜見つけた細い隙間を探す。
だがどこにもない。
地下への入口は、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
少し離れた場所から、エラが冷たい目でアーガを見ている。
「入口は?」
アーガは勢いよく顔を上げた。
「あり得ない」
レックスが鼻で笑う。
「何があり得ないんだ? 地下通路がここにあるんじゃなかったのか?」
「昨夜はここにあった」
アーガの声が低くなる。
「俺が自分の手で開けた」
エイヴンはすぐに何かを言おうとはしなかった。
アーガの隣まで歩き、同じようにしゃがみ込む。
地面を注意深く確認したあと、短く言った。
「掘ってみよう」
ギルドの警備員たちは互いの顔を見合わせた。
それでも最後には道具を用意し、地面を掘り始める。
草の層が剥がされる。
湿った土が少しずつ横へ積み上げられていった。
その場にいる全員が、徐々に深くなっていく穴を見つめている。
アーガは穴のそばに立ち、指を強く握り締めていた。
もう少し深く掘れば木の板が出てくるはずだ。
その下には地中へ続く土の階段がある。
掘り進めさえすれば、必ずあの密道が姿を現す。
しかし何もなかった。
人の腰ほどの深さまで掘っても、その下にあるのは普通の土だけだった。
木の板も階段も空洞もない。
地下へ通じる入口は、どこにも存在していなかった。
アーガの表情が完全に変わった。
「もっと掘れ」
警備員の一人が顔を上げる。
「これ以上掘っても――」
「周囲も掘ってくれ」
声は大きくなかったが、重く押しつけるような響きがあった。
警備員はギルドの受付員へ視線を向ける。
受付員の表情も酷く険しかった。
それでもしばらく迷ったあとに頷く。
捜索は続けられた。
さらに深く、さらに広く。
周囲の地面まで次々と掘り返していく。
やがて東の空が少しずつ白くなり始めた。
草地の周囲には次第に人が集まってくる。
早起きした近所の住民、通りかかった冒険者、騒ぎを聞きつけた商人たち。
全員が少し離れた場所に立ち、小声で何かを話していた。
穴はさらに深くなっていく。
だが結果は変わらなかった。
何もない。
エラの目はすでに氷のように冷たくなっていた。
「もう十分でしょう?」
アーガは彼女を見なかった。
穴の縁まで歩き、掘り出された土を一握り取る。
指先でゆっくりと擦り潰した。
普通の土だった。
周囲の地面と何も変わらない。
「昨夜の見張りは土属性の能力を使っていた」
アーガは顔を上げ、周囲にいる者たちへ向かって言う。
「奴らが入口を埋めたんだ」
周囲が騒めいた。
「埋めた?」
「これだけの時間で?」
「どれだけ大規模な作業になるんだ?」
そのときサミュエルがようやく口を開いた。
怒ってはいなかった。
ただ、もう話の通じない相手を前にしているかのように小さく溜息を吐く。
「ジャヤさん」
アーガはサミュエルを見る。
サミュエルはエラの隣に立っていた。
その表情には疲労と抑えた苦しさが浮かんでいる。
「最初に、あなたはここへ地下牢があると言いました。今その地下牢が見つからないと分かると、今度は誰かが土属性の魔法で埋めたと言うのですね」
声はあくまでも穏やかだった。
「ですがあなたの話では、ここにあったのは単なる穴ではありません。地下牢まで続く通路です。それほど広い範囲の地中を、この短時間ですべて処理し、痕跡さえ残さず、ギルドの警備員や冒険者が調べても異常を見つけられない状態にする」
サミュエルは一度言葉を止め、困ったように僅かな苦笑を浮かべた。
「それには少なくとも、城主級の土属性魔法使いが必要なのではありませんか?」
周囲は一瞬静まり返った。
サミュエルは続ける。
「私はただの商人です。そのような実力者を雇う力など、どこにあるのでしょうか?」
その言葉を聞き、周囲の者たちの目が変わった。
確かに、もしそんな力を持つ者がいるのなら、なぜわざわざ子供を誘拐するために使うのか。
なぜサミュエルのような慈善活動で知られる商人が、これほど大きな危険を冒す必要があるのか。
エラが一歩前へ出た。
「ジャヤ」
初めて彼女がその名を呼ぶ声に、僅かな柔らかささえなかった。
「まだ作り話を続けるつもり?」
イータがすぐに顔を上げる。
「作り話ではありません! 私たちは本当に下へ入りました! あそこにはたくさんの子供がいて、ノアも――」
「その子供はどこにいるの?」
エラが言葉を遮った。
「牢は? 入口は? 証拠はどこ?」
イータの顔からさらに血の気が引いていく。
指先に小さな氷霜が浮かんだが、すぐに消える。
エラへ攻撃しようとしたわけではない。
ただ感情を抑えることができなかっただけだった。
アーガは片手を伸ばし、イータを背後へ庇う。
その動きを見たエラの目に、さらに強い怒りが浮かんだ。
「その子まであなたの嘘へ巻き込んだの?」
「イータは嘘をついていない」
「なら証明してみなさい」
アーガは黙った。
証明できない。
少なくとも今この場では何も証明できなかった。
目の前にあるのは、何も出てこなかった大きな穴だけだ。
リナはいない。
ノアもいない。
地下牢に閉じ込められていた子供たちも、誰一人この場所にはいない。
アーガに言えるのはただ一つ。
自分は見た。
それだけだった。
だが今その言葉には何の重みもなかった。
レックスが冷たく笑う。
「大騒ぎした結果、掘り出したのは土だけか?」
近くにいた者が小さな声で悪態を吐いた。
「昇級するためなら何でも言うんだな」
「サミュエルさんが孤児院を支援して何年になると思っている?」
「エラさんだってあそこで暮らしているんだぞ。子供を売る場所なわけがないだろ」
「どうせ金貨三枚が欲しかったんだ」
「夜中にギルドまで巻き込みやがって」
声は少しずつ増えていった。
最初は小さな囁きにすぎなかった。
しかしやがてはっきりと罵声を浴びせる者が現れる。
「嘘つき!」
「暮星城から出ていけ!」
「サミュエルさんを陥れようとするなんて最低だ!」
誰が投げたのか、腐った果実が一つ飛んできた。
果実はアーガの肩へぶつかる。
潰れた果汁が飛び散り、外套の表面を流れ落ちた。
イータは驚き身体を震わせる。
続いて別の果実がイータへ向かって飛んできた。
アーガは身体を横へ動かし、背中で受け止める。
――ベチャッ。
鈍い音とともに果汁が外套へ広がった。
「アーガ様……」
イータの声が震えている。
「下を向いていろ」
アーガはイータを背後へ隠した。
さらに何人かが何かを投げようとするが、エイヴンが片手を上げて止めた。
「もうやめろ」
声は大きくなかった。
それでも周囲の者たちは僅かに静かになった。
レックスがエイヴンを見る。
「まだこの小僧を信じているのか?」
エイヴンは答えなかった。
一度掘り返された穴へ視線を向け、続いてアーガを見た。
アーガはその目が何を意味しているのか理解していた。
完全に疑っているわけではない。
しかし今までと同じように無条件で信じることもできない。
ギルドの受付員は青ざめた顔をしていた。
サミュエルを見て、次にアーガへ視線を向ける。
最後に小さな声で告げた。
「ジャヤさん、今回の件についてはギルドで改めて記録します。ですが現時点ではあなたの告発を裏づける証拠が一つもありません」
アーガは何も言わなかった。
エラがアーガの目の前まで歩いてくる。
片手を剣の柄へ置いていた。
怒りを必死に抑え込んでいるようだった。
「サミュエルが責任を追及しないからといって、私までこの件を忘れると思わないで。あなたが傷つけたのは彼だけじゃない。《晨星の家》も、本当にあそこで守られている子供たちのことも侮辱したのよ」
アーガはエラの目を見返した。
「お前はそこまであいつを信じているのか?」
「私はあそこで暮らしている」
エラは冷たく言った。
「彼が子供たちのために何をしてきたのか、私は自分の目で見てきた。あなたは? 何一つ証拠を出せないのに、自分の一言だけを信じろと言うの?」
アーガは何も言えなかった。
サミュエルが静かにエラの肩へ手を置く。
「エラ」
そして一歩前へ出た。
アーガと向き合う。
周囲の者たちは再び口を閉ざした。
サミュエルの顔には勝者のような得意げな表情はなかった。
不当に疑われた者の激しい怒りもない。
そこに浮かんでいたのは、相手を許そうとするような疲れ切った寛容さだった。
「ジャヤさん、なぜあなたが私を告発したのか私には分かりません。本当に何かを見間違えたのかもしれない。あるいは誰かに騙されたのかもしれません」
サミュエルは静かに溜息を吐いた。
「今回のことについて、私は責任を追及しません」
エラが眉を寄せる。
「サミュエル――」
「もういいんだ」
サミュエルは首を横へ振った。
「彼も行方不明になった子供を捜そうとしていた。ただ方法を間違えてしまっただけだ」
その言葉に周囲の者たちは心を動かされたようだった。
「サミュエルさんは本当に優しいな」
「ここまで酷いことを言われたのに許すのか」
「俺だったらもう衛兵に捕まえさせている」
サミュエルはアーガを見る。
声は最後まで穏やかなままだった。
「ですがどうか暮星城から出ていってください」
アーガの指がゆっくりと握り締められる。
イータはアーガの背後で小さく震えていた。
戦いが怖いのではない。
この場所にいる全員が敵となり、どんな説明をしてもすべてが嘘として扱われてしまう。
その状況がただ恐ろしかった。
アーガは掘り返された穴へ目を向けた。
何もない。
昨夜見つけた入口、湿った地下通路、子供たちが閉じ込められていた地下牢、涙を流すノア、そして一人で残ったリナの背中。
そのすべてがまるで夢だったかのように消えている。
アーガは背を向けた。
「行くぞ」
イータは驚いたように顔を上げる。
「でもリナお姉ちゃんが……」
「今は行く」
低い声だった。
イータは唇を強く噛んだ。
目の縁を赤くしながらもアーガのあとを追う。
周囲の人々が自然と道を開けた。
だがそれは敬意からではない。
嫌悪からだった。
果物の皮、小さな泥の塊。
それらが二人の足元へ投げられる。
今も罵声を浴びせる者、冷たく笑う者、呆れたように首を振る者。
レックスは大斧を抱えその場へ立っていた。
顔には複雑な表情が浮かんでいる。
しかし最後まで口を開かなかった。
エイヴンは離れていくアーガの背中を見つめている。
眉を強く寄せたまま何かを考えていた。
エラは穴のそばに立ち、冷たい視線で二人を見送った。
サミュエルは周囲の人々へ落ち着くよう声をかける。
物を投げるのをやめさせ、誰かが落ちて怪我をしないよう、警備員へ穴を埋め戻すよう指示した。
一つ一つの行動が丁寧だった。
隙がなかった。
寛大だった。
不当に疑われながらも最後まで品位を失わなかった。
本物の善人にしか見えなかった。
アーガがイータを連れ人混みから抜け出した頃、空はすでに明るくなっていた。
朝日が城壁の向こう側から昇る。
その光は西区の草地を照らした。
そして腐った果汁と泥で汚れたアーガの外套も照らしていた。




