第16話 尊厳
周囲の話し声が、ぴたりと止まった。
多くの受験生が一斉に振り返る。
公告壁の前に集まっていた者たちまで人混みを抜け、こちらへ近づいてきた。
「白い手袋……?」
「騎士同士が使う、正式な挑戦の作法だ」
「ベルマン家のお嬢様が、自分から決闘を申し込んだのか?」
アーガは足元に落ちた手袋を見つめたまま、しばらく反応できなかった。
(決闘?)
(でも、僕は魔導師なんだけど……)
(どうして騎士の作法で挑んでくるんだ?)
いつまで経っても動こうとしないアーガを見て、リサは眉をひそめた。
「あなたはカードを使っていいわ」
「私も本物の剣ではなく、木剣を使う。それなら公平でしょう?」
「公平かどうかの問題じゃなくて……」
アーガは周囲を見回した。
見物人はますます増え、囁き声も次第に大きくなっている。
グレイクリフ王国の貴族社会において、白手袋による挑戦は、必ずしも命を懸けた決闘を意味するわけではない。
それでも、双方の名誉に関わる正式な行為であることに変わりはなかった。
ましてやリサは、これほど大勢の前で手袋を投げつけてきた。
ここで拒めば、その話は瞬く間に学院中へ広まるだろう。
「何を迷っているの?」
リサが挑発するように言った。
「さっきの試験では、あれだけ大したことをしてみせたでしょう?」
「それなのに、私の挑戦を受ける勇気はないの?」
「僕は、どうして決闘するのか聞きたいだけで――」
「今さら逃げたら、どんな評判が立つかは知らないけれど」
リサはアーガの言葉を遮った。
周囲のざわめきが、さらに大きくなる。
アーガはしばらく黙っていた。
やがて腰を曲げ、芝生の上に落ちた白い手袋を拾い上げる。
「分かった」
顔を上げ、リサの瞳を正面から見つめた。
「その決闘、受けるよ」
人群から、興奮した歓声が上がった。
見物人たちは自発的に四方へ下がり、広場の端へ十分な広さの空間を作り出す。
リサは近くにいた、眼鏡をかけた少年を指さした。
「あなた、審判をしなさい」
少年は左右を見回した。
自分が指名されたのだと理解した瞬間、顔が一気に赤くなる。
「ぼ、僕ですか?」
「何か問題でも?」
「ありません!」
少年は慌てて二人の間へ走ってきた。
騒ぎに気づいた学院職員たちは、すぐには止めようとしなかった。
入学試験の期間中、危険な武器を使わない受験生同士の模擬戦は、決して珍しいことではない。
命に関わる攻撃さえ行わなければ、近くの教師も、制御不能になったときにだけ介入するつもりのようだった。
リサはすぐに、近くの者から細身の木剣を借りた。
空地の反対側へ移動し、長い金髪を改めて強く束ねる。
そして片手で木剣を構え、教本どおりの美しい攻撃姿勢を取った。
アーガとの距離は、およそ二十歩。
アーガも右手を腰のカードケースへ添えた。
夕日が、二人の影を長く引き伸ばしている。
広場の片側から吹き抜けた風が、リサの金髪を舞い上げ、アーガの服の裾も揺らした。
(どう戦えばいい?)
アーガは、二人の距離と周囲の状況を素早く確認した。
昼寝をして食事も取ったことで、体力はかなり回復している。
魔力もある程度は戻っていた。
しかし、目の前にいるリサは、魔法部門の二位であると同時に、戦士部門の首席でもある。
赤の試験会場で見せた速度を、アーガははっきりと覚えていた。
一度接近を許せば、二枚目のカードを抜く暇さえ与えてもらえないかもしれない。
それでも、この決闘にはすでにラインハルト家の名誉まで関わっている。
簡単に降参するわけにはいかなかった。
二人の中央に立つ臨時の審判が、緊張した様子で唾を飲み込んだ。
「規則は……どちらかが降参するか、戦闘を続けられなくなった時点で終了です」
「目や喉など、命に関わる部分への攻撃は禁止します」
リサはわずかに腰を落とし、木剣の先を斜め下へ向けた。
その目つきは、すでに完全に変わっている。
先ほどまでの苛立ちは消え去り、強い集中力と戦意だけが残っていた。
「それでは――」
審判が右手を上げる。
周囲の人々も、次第に口を閉ざしていった。
「始め!」
腕が振り下ろされた瞬間、リサの足元から重い音が響いた。
地面を蹴った身体が、放たれた矢のように前へ飛び出す。
一瞬で二人の間の大半を駆け抜け、木剣が空気を切り裂きながら、アーガの正面へ突き出された。
アーガは目を見開き、同時に右手をカードケースへ差し込んだ。
先手を取ったリサは、赤の九《光》を発動していた。
淡い金色の光が木剣の表面を覆う。
さらに地面を強く蹴り、瞬く間に距離を詰めると、剣先をアーガの顔へ向けて突き出した。
アーガはすぐに赤の四《風》を抜く。
「風刃術!」
数本の風刃が正面から放たれた。
基礎魔法である風刃の威力は、それほど高くない。
それでも、相手の視界や動きを妨げるには十分なはずだった。
リサは上体を傾けて最初の二本をかわす。
続いて光をまとった木剣を連続で振るい、残りの風刃をすべて斬り払った。
その速度は、ほとんど落ちていない。
(速い!)
リサがすでに目前まで迫っている。
アーガは即座に黄色の三を発動し、一時的に高められた速度を利用して横へ飛び退いた。
それでも完全には避けきれなかった。
剣先が額をかすめ、皮膚に浅い傷を残す。
アーガは地面へ着くと、そのまま転がって数歩分の距離を取った。
しかし、リサは術式を準備する時間を与えない。
追いついた木剣が、再びアーガへ振り下ろされる。
アーガは慌てて土埃を巻き上げ、彼女の視界を遮ろうとした。
アーガの位置を見失ったリサは、すぐに黄色の五を抜いた。
真っ白な翼が背中から広がる。
翼は一度羽ばたいただけで、リサの身体を地面から持ち上げた。
飛行能力が続いたのは、ほんの一瞬だった。
だが、リサにとってはそれで十分だった。
土煙を上から飛び越え、アーガの頭上から降下する。
アーガは正面から振り下ろされた剣をどうにか避けた。
しかし、肩には一撃を受けてしまう。
身体が大きく揺らぎ、数歩後ろへよろめいた。
リサが着地すると、背中の翼はすぐに消えた。
二人の距離は、すでに近すぎる。
遠距離魔法を改めて使う暇などなかった。
アーガは黄色の一を発動し、強化された腕で連続する木剣の攻撃を受け止めた。
ヒグマの力を借りているにもかかわらず、衝撃で両腕が痺れていく。
別のカードを抜こうとする。
だが、リサはその動きを見逃さなかった。
木剣を下から跳ね上げる。
アーガの指から、カードが弾き飛ばされた。
見物人たちから、すぐに歓声が上がる。
「リサ様、速すぎる!」
「あれじゃ次のカードを使う暇がないぞ!」
アーガも、同じことに気づいていた。
この距離で術式を発動しようとしても、すべてリサに妨害されるだけだ。
ならば、距離を取ろうとするのをやめればいい。
アーガは木剣へ向かって、突然前へ踏み込んだ。
魔導師であるアーガが、自ら接近してくるとはリサも予想していなかった。
剣を引き戻すのが一瞬遅れる。
その隙に、アーガは腰から護身用の短剣を抜いた。
屋敷を出る日に、父から受け取った短剣だった。
鞘に収めたまま、リサの頬へ横薙ぎに振るう。
パシンッ!
リサの顔が横へ弾かれた。
白い頬には、すぐに赤い痕が浮かぶ。
しかし次の瞬間、木剣の柄がアーガの腹部へ深く突き刺さった。
アーガの身体が後方へ吹き飛ぶ。
そのまま地面へ倒れ込み、手から離れた短剣が石畳の上を滑っていった。
リサは痛む頬へ手を当てた。
その顔には、信じられないという感情が浮かんでいる。
「私の顔を殴ったの……?」
アーガは腹部を押さえ、苦しそうに何度か呼吸した。
残っている魔力は、すでにわずかしかない。
先ほどまで攻撃を受け続けていた両腕も、強く痛んでいた。
リサは地面に落ちた短剣へ気づいた。
鞘には、ラインハルト家の紋章が刻まれている。
しかし、フランを領地とする小さな貴族家は、王都ではほとんど名を知られていなかった。
「何、この紋章?」
リサは木剣の先で、短剣の鞘を軽くつついた。
「ラインハルト? 聞いたこともない家ね」
頬を打たれた怒りからか、その言葉は次第に刺々しくなっていく。
「こんな物をあなたに渡す人も、きっと大した見る目を持っていないのでしょうね」
その瞬間。
アーガの表情が変わった。
出発の日、アルドリックがこの短剣を手渡してくれたときの姿を思い出す。
そして、この短剣があったからこそ、地下酒蔵で縄を切り、自分で逃げる機会を作ることができた。
「黙れ」
リサには聞こえなかったらしい。
「何?」
「黙れと言ったんだ!」
アーガは勢いよく顔を上げた。
その声には、初めて隠すことのない怒りが込められていた。
突然怒鳴られたリサは、一瞬言葉を失う。
しかし、すぐに彼女も険しい表情を浮かべた。
「ただの古い短剣のことを言っただけでしょう?」
「どうして私が、あなたに怒鳴られなければならないの?」
「君に、誰かを勝手に評価する権利があるのか?」
アーガは膝へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
普通に魔法で戦い続けても、リサには勝てない。
相手の方が速く、基礎カードの術式も簡単に妨害されてしまう。
勝機があるとすれば、一つだけ。
リサから完全に冷静さを奪うことだった。
アーガは不意に笑った。
「王国騎士団長の娘も、大したことないんだな」
リサの目が冷たく細められる。
「何ですって?」
「魔法試験では僕に負けた」
アーガはわざと声を大きくし、周囲にいる全員へ聞こえるように続けた。
「今度は剣を持ち出して、七歳の魔導師を相手にしている。それなのに、こんなに時間がかかっている」
「ベルマン家の剣術は、その程度なの?」




