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第155話 地下牢

深夜の西区の草地は不気味なほど静かだった。


西門はすでに閉ざされている。


城壁の上に並ぶ松明が、風を受け僅かに揺れていた。


時折、門楼の上から衛兵の足音が聞こえてくる。


だが、かなり距離が離れているため、その音はぼんやりとしか届かなかった。


アーガは、幹の曲がった木のそばに立ち、足元の草地を見下ろしていた。


昼間に一度調べた。


夜にも、もう一度ここへ来た。


それでも、どれほど周囲を見回しても、一人の子供が突然姿を消せる場所には見えなかった。


リナはアーガの後ろに立ち、小さな声で尋ねる。


「アーガ様、やはり何も見つかりませんか?」


「何もない」


アーガは、その場へしゃがみ込んだ。


指で草葉を掻き分ける。


土は普通だった。


草の根も、特に変わったところはない。


この数日間、多くの人間がこの草地を歩いている。


足跡はすでに複雑に重なり、以前の痕跡を見分けることはできなかった。


ノアは、木の裏へ球を拾いに行き、そのまま姿を消した。


魔物に襲われたのなら、爪の跡が残るはずだ。


血痕、何かを引きずった跡、抵抗した痕跡もあるだろう。


人間の仕業だったとしても、何か一つくらい残っていてもよい。


しかし、何もない。


イータは、少し離れた場所へしゃがみ込んでいた。


鼻先を何度か動かす。


「匂いが混ざりすぎています」


小さな声で言った。


「子供の匂い、大人の匂い、犬や馬車の匂いも、全部混ざっています」


アーガは何も答えなかった。


立ち上がり、改めて周囲を見回す。


西門はすぐ近くにある。


門の周辺には衛兵もいる。


草地のそばには、民家の並ぶ細い路地が何本か通っていた。


夜は人通りがほとんどない。


だが、昼間まで人目がない場所ではなかった。


ここで子供を誘拐すること自体は、不可能ではない。


しかし、極めて短い時間で行動し、物音も立てず、誰にも姿を見られてはならない。


ノアが魔物に連れ去られたのでも、自分の意思で町の外へ出たのでもないなら、残る可能性は一つだけだった。


人間。


誰かが、この場所からノアを連れ去った。


だが、そのあと、どうした?


子供を背負って通りを歩くのか。


それでは、あまりにも危険が大きい。


馬車を使ったのか。


だとすれば、すぐ近くにいたダニーが車輪や馬の音を聞いているはずだった。


透明化の魔法。


その可能性が、アーガの頭を一瞬だけ過ぎる。


しかし、すぐに否定した。


透明化の魔法自体は存在する。


だが、抵抗する子供を抱えたまま、城門の近くから音もなく立ち去れるほどの透明化魔法となれば、かなり高度なものになる。


一度だけ子供を誘拐するのなら、そのような手段を使う者がいてもおかしくはない。


だが、もしこれが子供を繰り返し売買するための仕組みなら、費用がかかりすぎる。


不確実でもある。


ならば、残るのは最後の可能性。


近くに、子供を隠せる場所がある。


あるいは、どこかへ通じる入口がある。


アーガは歩き始めた。


草地の周囲を、もう一度一周する。


今度は、地面だけを見ているわけではなかった。


壁の角、木の根元、転がっている石、排水溝。


リナは細い蔓を地面へ這わせ、土や草の根の下をゆっくりと探っていく。


イータも、鼻を使って複雑な匂いを一つずつ確認していた。


時間が、ゆっくりと過ぎていく。


夜は、さらに深くなった。


西門の衛兵が交代する。


遠方にある時計塔から、鐘の音が一度響いた。


草むらの虫の声は、途切れながらも四方から聞こえてくる。


アーガが草地の北側まで来たときだった。


その足が、突然止まる。


そこだけ、周囲よりも草が少し短かった。


非常に僅かな違いだった。


昼間に見れば、誰かに踏まれただけだと思うだろう。


だが、今は夜風が吹いている。


周囲の草葉は、風に合わせて軽く揺れていた。


それなのに、その一帯だけ草の動きが僅かに鈍い。


アーガはしゃがみ込み、手で地面を押した。


土は硬い。


だが、自然に踏み固められた硬さではなかった。


「リナ」


「はい」


リナが、すぐに近づいてくる。


アーガは、草の短い一帯を指さした。


「蔓を下へ入れてみろ」


リナは片手を上げた。


袖口から細い蔓が垂れる。


蔓は草の根の隙間へ入り、地中へ潜り込んでいった。


しばらくして、リナの眉が僅かに寄せられる。


「下に空洞があります」


イータも近づき、鼻先を動かした。


「ここだけ、匂いが薄いです。何かに遮られているような……」


アーガは手を伸ばした。


草地の端を、指先で慎重に探っていく。


やがて、非常に細い隙間へ触れた。


草と土は、周囲へ溶け込むよう丁寧に処理されている。


だが、そこに何かがあると分かったうえで探せば、この一帯だけ周囲の地面と完全にはつながっていないことが分かる。


まるで一枚の蓋だった。


アーガは指を隙間へ掛け、力を込める。


動かない。


リナが蔓を隙間へ潜り込ませた。


蔓を何本も絡ませ、三人で同時に力を加える。


土が擦れる小さな音が響いた。


草の生えた地面が、その下にある木板ごとゆっくりと持ち上がっていく。


やがて、真っ暗な入口が姿を現した。


湿気と黴の混ざった臭いが、地下から一気に吹き上がってくる。


イータは反射的に鼻を押さえた。


「下に、人間の匂いがあります。一人や二人ではありません」


アーガの目が、冷たく沈んだ。


入口の下には、狭い土の階段が続いていた。


階段は地中深くへ向かっている。


明かりはない。


ただ、さらに奥の方から僅かに弱い光が漏れていた。


「入るぞ」


リナは頷いた。


イータも後退しなかった。


その指先には、薄い氷霜が浮かび始めている。


三人は、土の階段を下りていった。


その直後、背後で小さな音がした。


開いていた入口が、何かの仕掛けによってひとりでに閉じていく。


三人は一度足を止めた。


暗闇の中で互いの顔を見る。


だが、ここまで来て引き返すつもりはなかった。


そのまま、さらに奥へ進んでいく。


地下へ下りるほど、空気は冷たくなった。


壁は湿っている。


指が触れれば、泥水が薄く付着した。


通路は非常に狭い。


一人が身体を屈めて通るのが限界だった。


足元の土は、何度も踏まれて硬く締まっている。


この通路を、普段から多くの人間が行き来している証拠だった。


しばらく歩くと、前方に一つの魔法灯が見えた。


光は弱い。


灰色の布が被せられ、周囲の僅かな範囲しか照らしていなかった。


壁際には、鉄鎖を引きずった跡が残っている。


地面には、乾いて黒くなった染みもあった。


リナの呼吸が、僅かに浅くなる。


イータの表情も、目に見えて険しくなった。


アーガは止まらなかった。


三人は、さらに奥へ進む。


密道の終わりには、一枚の鉄扉があった。


鍵は掛かっていない。


僅かに開いた状態だった。


アーガは手を伸ばし、ゆっくりと扉を押す。


――ギィ……。


鉄扉が、極めて小さな軋み声を上げた。


その先には、先ほどまでより遥かに広い地下空間があった。


湿った石壁の両側へ、狭い牢が何部屋も並んでいる。


牢の扉は黒い鉄で作られていた。


表面には細かな魔法紋様が刻まれている。


牢の中には、黴の生えた藁が敷かれていた。


その隅で、何人もの子供たちが身体を丸めている。


眠っている子供。


目を開いているにもかかわらず、虚ろな瞳で地面だけを見ている子供。


両膝を抱え、身体を震わせている子供。


だが、誰一人、声を出して泣こうとはしなかった。


イータは反射的に、半歩だけ後退した。


「どうして……」


リナの指が、ゆっくりと握り締められる。


アーガは、一つずつ牢の中を確認していった。


やがて、視線が右側の三番目の牢で止まる。


中に一人の少年がいた。


七歳か八歳ほど。


茶色い髪。


顔には、何本もの汚れた跡が付いている。


胸には、破れた布袋を強く抱き締めていた。


マーサから聞いた特徴と、完全に一致していた。


ノア。


アーガは牢の前まで歩いた。


その場へしゃがみ込み、鉄格子越しに小さな声で呼びかける。


「ノア」


少年は反応しなかった。


アーガは、もう一度その名を呼ぶ。


「ノア」


少年の身体が、突然大きく震えた。


ゆっくりと目を開く。


牢の外にいる三人を見ると、思わず叫びそうになった。


アーガは即座に、口元へ人差し指を立てる。


「声を出すな」


少年は両手で、必死に自分の口を押さえた。


目から涙が溢れ出す。


それでも、声を出して泣くことだけは必死に堪えていた。


アーガは声を落とす。


「お前が、ノア・フォスターか?」


少年は、何度も強く頷いた。


リナがすぐに近づく。


優しい声で囁いた。


「あなたのお母様が、冒険者ギルドへ捜索を依頼しました。私たちは、あなたを助けに来たんです」


ノアの目が、僅かに大きくなる。


少年は鉄格子を掴んだ。


その声は、ほとんど聞こえないほど小さい。


「お母さん……まだ、僕を捜してるの?」


「捜している」


アーガは答えた。


「教えてくれ。誰に連れてこられた?」


ノアの肩が震え始める。


「孤児院の人たち……」


リナとイータが、同時に目を見開いた。


アーガの表情は変わらない。


そのまま質問を続ける。


「どこの孤児院だ?」


「《晨星の家》」


ノアは涙を堪えながら答えた。


「あの日、僕が球を拾いに行ったら、後ろから口を押さえられた。目が覚めたときには、ここにいたんだ。あいつらが言ってた。あと何日かしたら、僕たちをすごく遠い場所へ連れていって売るって……」


イータの顔から、血の気が引いていく。


リナは小さな声で尋ねた。


「ここには、何人の子供がいるのですか?」


ノアは首を横へ振った。


「分からない。何人か連れていかれることもあるし、新しい子が連れてこられることもある。ずっと泣いてる子は、もっと奥へ連れていかれる」


アーガがさらに質問しようとした、そのとき。


突然、片手を上げた。


遠くから、足音が聞こえてきた。


一歩ごとに重く、はっきりと響いている。


まるで、自分の存在を隠す必要などないと考えているような歩き方だった。


イータの耳が、一瞬で真っすぐに立つ。


その顔色が変わった。


「誰か来ます」


アーガも、近づいてくる気配を感じ取っていた。


強い。


正面から戦えば、勝ち目はほとんどない。


アーガはリナとイータの腕を掴んだ。


二つの牢の間にある、暗い影の中へ素早く身を隠す。


リナは地面に伸ばしていた蔓を、静かに元へ戻した。


イータも、指先に集めていた冷気を散らす。


僅かな魔力の揺らぎすら、残さないようにした。


足音が、少しずつ近づいてくる。


やがて、通路の向こう側から一人の大男が姿を現した。


灰黒色の革鎧。


腰には短刀を下げ、片手に魔法灯を持っている。


魔法灯の光が、一つずつ牢の中を照らしていく。


子供たちは、男が近づいた瞬間、全員が顔を伏せた。


誰一人、目を合わせようとはしない。


男は、ノアがいる牢の前で一度足を止めた。


ノアは俯いたまま、全身を硬くしている。


男は冷たい目で、少年をしばらく見つめた。


だが、異常には気づかなかった。


そのまま、再び歩き始める。


アーガは息を止めていた。


足音が完全に遠ざかってから、ようやく暗闇の中から出る。


イータは、小さく息を吐いた。


リナがアーガを見る。


「どうしますか?」


アーガは牢の前へ戻った。


鉄扉の錠前へ手を伸ばし、状態を確認する。


「力ずくなら壊せる。だが……音が大きすぎる」


今の三人では、子供たちを助け出すことはできない。


問題は牢の扉だけではなかった。


見張りがいる。


さらに奥に、どれほどの敵がいるのかも分からない。


アーガはノアを見る。


少年も、恐怖と期待の入り混じった目でアーガを見つめていた。


アーガは、しばらく黙った。


やがて、小さな声で告げる。


「見張りがいる。今ここで無理に牢を壊せば、お前たちが危険になる」


ノアの目から、再び涙が流れ落ちた。


アーガは、少年の目を真っすぐに見る。


声は低い。


だが、はっきりとした揺るがない声だった。


「だが、ここはもう見つけた。必ず戻ってきて、お前を助ける」


ノアは唇を強く噛み、何度も頷いた。


アーガは立ち上がる。


「戻るぞ」


三人は、来た道を引き返し始めた。


通路の空気は、入ってきたときよりもさらに冷たく感じられた。


イータが中央、リナが最後尾を歩く。


アーガは数歩進むたび、足を止めて周囲の音を確認した。


鉄扉へ近づいた、そのとき。


前方から、突然男の声が聞こえた。


「そこにいるのは誰だ?」


アーガの足が、勢いよく止まった。


鉄扉の外。


暗闇の中に、痩せた長身の見張りが立っていた。


片手には魔法灯。


陰気な目で、三人をじっと見つめている。


先ほどの男ではない。


だが、気配を完全に消し、出口を塞いでいた。


その実力も、決して低くはないだろう。


見張りの視線が、アーガからリナとイータへ移る。


やがて、口元がゆっくりと吊り上がった。


「鼠か?」


リナの袖口から、すでに細い蔓が垂れていた。


イータの指先にも、冷たい魔力が集まっている。


アーガは、出口を塞ぐ見張りから目を離さなかった。


その表情が、険しくなる。


「もう一人いたのか」

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