第154話 隣家の子供
アーガは切断された腕を町へ持ち帰らなかった。
あれは血の臭いが強すぎる。
西門へ持ち込めば、すぐに衛兵から事情を聞かれることになるだろう。
今の三人には、完全な死体もなければ、事件を説明できるだけの証拠もない。
この段階で騒ぎを大きくしても、調査がさらに混乱するだけだった。
アーガは山の麓を歩き、斜めに傾いた一本の老木を見つけた。
三人で、その根元の土を掘る。
その間、誰一人まともに言葉を発しなかった。
切断された腕を穴の中へ入れ、簡単に土を被せる。
アーガは、小さな土山の前へしばらく立っていた。
「行こう」
◇ ◇ ◇
三人が暮星城へ戻った頃には、すでに昼近くになっていた。
白楡通りは、三人が町を離れたときよりもさらに静かだった。
だが、二十一番地へ近づいた瞬間、イータの耳が動いた。
家の中から、子供の泣き声が聞こえてくる。
アーガは足を止めた。
リナも、半分開いたままの扉へ視線を向ける。
家の前には、近所の住民が何人か集まっていた。
全員、暗く沈んだ表情をしている。
家の中では、ダニーが床へ座り込んでいた。
息もできなくなるほど激しく泣いている。
マーサは、その隣へしゃがみ、少年の肩を抱きながら何度も小さな声をかけていた。
だが、彼女自身の目も酷く赤く腫れている。
そのそばには、灰色の外套を着た中年の男が立っていた。
手には記録板を持っている。
おそらく、身寄りを失った子供の保護や引き取り先の手続きを担当する役人だろう。
「何があった?」
アーガが尋ねた。
声を聞いたマーサが、ゆっくりと振り返る。
「ジャヤさん……」
その声は、ほとんど出ないほど掠れていた。
代わりに、近くにいた住民が小さな声で説明する。
「ダニーの両親が、町の外で死んでいたそうです。今朝、巡回隊が山の麓で遺体の一部を見つけました。魔物に食い荒らされて……もう、誰なのか分からないほどだったらしいです」
イータの指が、僅かに強く握られた。
アーガは彼女を一度見た。
だが、何も言わなかった。
三人は、すでに知っていた。
ただ、これほど早く身元が確認されるとは思っていなかっただけだ。
ダニーは身体を震わせながら泣いている。
胸には、あの古びた木製の球を強く抱き締めていた。
灰色の外套を着た男は、近所の住民たちと小声で話している。
ダニーを今後どこへ預けるのか、確認しているようだった。
「ほかに、親族はいないのですか?」
リナが尋ねる。
住民は首を横へ振った。
「いません。頼れそうな遠い親戚もいるらしいんですが、連絡がつかなくて」
灰色の外套を着た男が、記録板を見ながら溜息を吐いた。
「今のところ、孤児院へ預けるしかありません。《晨星の家》なら、最近多くの子供を受け入れています。環境もそれほど悪くはないでしょう」
晨星の家。
その名を聞いた瞬間、アーガの目が僅かに動いた。
数日前、逃げ出した白い犬が向かった場所。
新聞に載っていた、サミュエル・グラントが支援している孤児院。
そして、エラとサミュエルが暮らしている場所でもある。
アーガは家の中へ入り、ダニーの前へしゃがみ込んだ。
ダニーは泣き腫らした目でアーガを見上げる。
「ジャヤさん……」
声は、何度も途切れていた。
アーガは、少しだけ口調を和らげた。
「いくつか聞きたいことがある」
ダニーは涙を流したまま、小さく頷いた。
「お前の両親は、なぜ町の外へ行ったんだ?」
ダニーは何度も鼻を啜りながら答える。
「お父さんは……昨日、山の麓へ仕事に行った。お父さんは冒険者だから……」
「どんな依頼だ?」
「分からない」
ダニーは首を横へ振った。
「誰かの代わりに山道を調べるとか……薬草を探すとか、そんなことを言ってたと思う」
アーガは続けて尋ねた。
「母親は? 冒険者ではなかっただろう?」
「うん」
ダニーは俯いた。
木製の球を握る指に、さらに力が入る。
「お母さんは、最初は家にいた。でも、そのあと、お父さんからの手紙を持った人が来たんだ。お父さんが結婚指輪をなくしたから、一緒に探してほしいって……」
「結婚指輪?」
「うん」
ダニーは頷く。
「お母さんは、その指輪をすごく大切にしてた。お父さんは手紙に、遠くないって書いてた。山の麓にある灰岩坂っていう場所だって。魔物も弱いから、自分が守るし心配しなくていいって書いてあった」
リナの眉が、僅かに寄せられる。
「それで、お母様は町の外へ?」
ダニーは小さな声で答えた。
「あの辺りの魔物は弱いし、お父さんは何人も守れるくらい強いから……それに結婚指輪だったから。お母さんは、すぐに帰ってくるって言ってた」
部屋の中が静まり返った。
ダニーは、再び声を上げて泣き始めた。
マーサは耐えきれず、少年を胸へ抱き寄せる。
背中を、何度も優しく撫でた。
アーガは立ち上がった。
七歳の子供が一人、行方不明になった。
別の子供の両親が、町の外で死亡した。
そして、その子供も家を失い、孤児院へ送られることになる。
一つずつ見れば、どれも説明できないことではない。
子供の失踪は、不幸な事故かもしれない。
冒険者が町の外で命を落とすことも、珍しい話ではない。
母親が結婚指輪を探すため町の外へ出たことも、軽率ではあるが、絶対にあり得ない行動ではなかった。
だが、二つの出来事をつなげて考えると、何かがおかしい。
リナはアーガの隣へ歩み寄り、ほかの者へ聞こえないほど声を落とした。
「アーガ様、これはあまりにも偶然が重なりすぎていませんか?」
アーガは答えなかった。
灰色の外套を着た男へ視線を向ける。
「この子は、どの孤児院へ送られる?」
「《晨星の家》です」
男は答えた。
「あそこには、ちょうど空いている寝台があります。サミュエルさんの関係者からも、受け入れるという返事をもらいました」
「いつ連れていく?」
「今日の夕方までには。手続きが終わり次第、出発します。保護者のいない家へ子供を一人で残すわけにはいきませんから」
アーガは小さく頷いた。
ダニーは、まだ泣き続けていた。
マーサは彼を抱いている。
まるで、また一人、目の前から消えてしまう子供を必死に引き止めているようだった。
アーガは家の中を見回した。
机の上には、まだ片づけられていない食器が残っている。
壁には男物の古い外套。
扉の裏には、女物の布靴が置かれていた。
昨日まで、この家には三人が暮らしていた。
今、残されたのは一人の子供だけだった。
アーガは背を向け、家の外へ出た。
リナとイータも、すぐに後を追う。
白楡通りには、眩しいほどの日差しが降り注いでいた。
それなのに、なぜか空気は冷たく感じられた。
「アーガ様」
イータが小さな声で言った。
「ダニーも、あの孤児院へ行くんですね」
「ああ」
「ノアがいなくなって、ダニーの両親も死にました。どちらも子供に関係しています」
アーガは、西門の方角へ視線を向ける。
「まだ足りない」
「何がですか?」
「何かを証明するには、まだ足りない。だが、もう一度調べに行く理由には十分だ」
リナは、すぐにアーガの考えを理解した。
「西区の草地ですか?」
「ああ」
アーガは頷く。
「ノアが魔物に連れ去られたのでも、自分から町の外へ出たのでもないなら、あの草地の近くで誰かに連れ去られたことになる」
「でも」
イータが言った。
「私たちは、もうあそこを調べました。何もありませんでした」
「昼間にはな」
アーガは顔を上げた。
太陽は、少しずつ西へ傾き始めている。
「今度は、夜に調べる」
◇ ◇ ◇
その日の夜。
暮星城の通りは、少しずつ静かになっていった。
アーガは外套を羽織り、《灰鳩亭》の部屋の扉を開ける。
リナとイータは、どちらも眠っていなかった。
リナは、すでに外出用の服装を整えている。
イータも窓辺に立ち、白い耳を何度か動かしていた。
アーガは二人を見た。
「行くぞ」
三人は主通りを使わなかった。
何本かの細い路地を通り、巡回中の衛兵を避けながら、再び西区の草地へ向かう。
夜の白楡通りは、昼間よりもさらに人の気配が少なかった。
遠方では、西門の松明が明るく燃えている。
城壁が、地面へ巨大な影を落としていた。
草地は、その影の端に静かに広がっている。
風が吹くたび、草葉が小さく揺れた。
数日前、ノアはここで姿を消した。
アーガは、幹の曲がった木のそばへ立つ。
足元の土を見下ろした。
血はない。
足跡もない。
何かを引きずった痕跡もない。
何も残っていない。
だが、何もないからこそ不自然だった。
アーガは、その場へしゃがみ込む。
片手の指を、冷たい地面へ押し当てた。
その目が、少しずつ鋭くなっていく。
「何もない?」
アーガは低い声で呟いた。
「違う。それなら――」
顔を上げる。
「この周辺を、もう一度徹底的に探すぞ」




